小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

山田和樹マーラー・ツィクルス 交響曲第7番『夜の歌』

2017-05-15 04:57:19 | クラシック音楽
三年目を迎えた山田和樹×日本フィルハーモニー交響楽団のマーラー・ツィクルス。
交響曲第7番『夜の歌』のコンサートが5/14に行われた。この巨大で奇々怪々なシンフォニーをどう演奏するのか、今年1月に山田さんに取材したときには「本を読んでもまことによくわからない」と笑って答えられていたが、蓋を開けたらとんでもない名演だった。
「自分に一番近い作曲家はモーツァルト。マーラーはよくわからない」と、虚勢を張らずに爽やかに答える方なのだが、音楽ですべてを証明してみせたのは見事というよりほかない。
「マーラーの曲はすべて自分が書いたように思える」と語ったバーンスタインに比肩する演奏だ…と個人的に思った。

2015年にスタートしたマーラー・ツィクルスは1番「巨人」からずっと追い続けてきたが、この日の7番で指揮者としての山田さんが「化けた」感じがした。
作品が負っているものの巨大さを果敢に受け止め、それは真に西洋的な苦悩であると同時に日本人が表現するのに相応しいものだと思わせた。
外側から見たマーラーと、内側から感じるマーラーの両方がダイナミックにせめぎ合っていた。
厳密な対象化とともに、深い内観がある指揮で、まっすぐ曲の本質を掴んでいる。
山田さんには複雑怪奇な迷路を不思議な透視力で突き進んでいくような明晰さがあり、そこには「等号でつなぐ」という作業がある。
普通の発想では予想もできないような世界をイコールで結んでしまうのである。
第一回目から、マーラーの交響曲と武満徹作品を並列して演奏してきたこともそのひとつで
西洋と東洋、巨人と小さきもの、哲学と詩を等しいものとして並べ、鮮やかな円環を浮き彫りにする。

7番の完成度が卓越していたことの理由のひとつに、2016年に山田さん自身のプロデュースで行われた柴田南雄生誕100周年記念コンサートがあったと思う。
あの演奏会で、柔和に見える山田和樹の本質的な勇敢さとプライドをみた。
日本人がどのように思考し、作品という結晶を遺したかを証明するコンサートで、日本フィルとの絆が更にあそこで深化した。
未来に記憶されるべき柴田作品の価値を尊敬しての企画だったと思うが、真逆にも思える方向(東洋)から音楽を掘り下げることによって、次のマーラーが恐ろしく深遠な表現になった。
どのような道筋を通って頂上に登り詰めるかは本当に人それぞれで、自分の道は自分で作ると決め、迷わずに進んでいく山田さんのやり方には毎度驚かされる。

マーラーをどのような作曲家として認識するのか、その手がかりを与えてくれる解釈で
作曲家の個性や人生という特異性が、西洋の哲学、芸術、宗教と深く結びついていることも音楽からは伝わってきた。
西洋的思考が目指す均整、永遠性、英雄性、真善美とは、その対極にある人間の不完全さの象徴である…と直観した。
マーラーの悪酔いしてしまいそうな「行ったり来たり」の楽想は、西洋的な均衡世界の否定であると同時に肯定でもあり、まさに存在とは、思考とは「一言では言えない」ものなのであった。
完全を目指す人文学的な営為のすべては「どうしようもなく不完全である」人間存在の証明でもあった。
リッカルド・シャイーがゲヴァントハウス管を振ったときの7番も思い出された。すべてのパートにレンズの焦点が合った、理性的なベートーヴェンのようなマラ7で、西洋的「永遠性」のアイロニカルな表現だったと思う。

闇は光に等しく、絶望は希望に、悲観は楽観に等しく、それらはお互いがあることで完全な存在になる。
マーラーの人生に起こった不幸や精神過敏的な性格のエピソードは広く知られるところで
幼い娘を失い、妻アルマとの亀裂が進む時期に書かれた7番には、作曲家の個別の事情も影響している。
9番の萌芽的なモティーフもあり、この作品を書いているときのマーラーは首の皮一枚で現世とつながっていたようにも思える。
マーラーがそのような境涯の中で、「生きるべきか、死ぬべきか」というぎりぎりの心境を作品化したのが7番であった。
それが、膿のような、堕落すれすれの、不条理の塊のような、それでいてロマン派最高の音楽になったのは、人類というものがたった一人で進化するものではなく、つねに集団として進化するものだからで
21世紀にインターネットが普及したように、19世紀末には死(無意識)と芸術に対する思考が進化したのだ。マーラーはそこで、世間を劇場にして才能を揮うしかなかった。

鳥獣たちのコーラスのような第2楽章、闇に包まれる第3楽章に続く、第4楽章「夜曲」の美しさは格別であった。黄金色の天国の光が溢れ出し、ギターとマンドリンの優雅な歌はマドリガルのように感じられた。
それはまさに、前半で演奏された武満の「夢の時」に等しい世界だったのだ。
惑星同士が衝突するような激しさで始まった第5楽章で、「この先も生きるしかない」と決意したマーラーのありったけの勇気を受け取った。遺書を破り捨てた後の覚悟のような圧倒的な強靭さを感じた。
「日本人の繊細さ」を強みにしてきた印象もあった山田さんが、こんな岩を砕くようなサウンドを鳴らすことに驚き、山田和樹の「等号の魔術」がここでも働いていることを直観した。西洋の死角をつくことができる日本人の視点こそが、西洋自身も気づかなかった本質を見ることができるのだ。

終演後に訪れた楽屋では、いつものように大勢の山田さんのファンの方々がごった返していて、縁日か何かのお祭りのようで、その景色がいつもにもまして天国に見えた。
マーラーの苦悩が、優しい日本の音楽ファンの微笑みに囲まれていた。
「そうか、やはり存在はイコールなのか…」と微笑むしかなかったのである。