小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京・春・音楽祭『ラ・ボエーム』(演奏会形式)

2024-04-15 23:04:49 | オペラ
3月に始まった音楽祭も後半に入った4月中旬、東京春祭の演奏会形式『ラ・ボエーム』を鑑賞(4/14)。外は前の週から一転して初夏のような陽気で、ホールの中では寒いクリスマスのラブストーリーが演じられた。指揮は「プッチーニを最も親しい作曲家と感じる」と語るピエール・ジョルジョ・モランディ、オーケストラは東京交響楽団、合唱は東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊。

冒頭から喧々諤々をはじめるロドルフォとマルチェッロは、テノールのステファン・ポップとバリトンのマルコ・カリア。体格のいいステファン・ポップは音楽が始まる前からわくわくとした微笑みを隠せず、その含みは、これから大好きな役を演じられる嬉しさと、「観客全員を驚かせてやるんだ」という自信だったと思う。初っ端から凄い声で、輝かしい美声を楽々とねぶり回している。オペラ好きのお客さんなら、いっぺんに大ファンになってしまったかも。すべては生まれつきの才能で、最初からスタートラインが違う才能の持ち主なのだと思った。画家役のマルコ・カリアも負けずにど真ん中のいい声を客席に向けてくる。コッリーネ役のバス、ボクダン・タロシュもショナール役のリヴュー・ホレンダーも勢いがいい。ベテランの風貌の4人の歌手が、元気いっぱいに若者を演じている様子がなんだかとても嬉しかった。
 その大騒ぎに、雷神のように怖い声を轟かせて大家のベノアが乱入してくる。バス・バリトンの畠山茂さんが、外国人歌手勢に負けない凄味のある歌を聴かせ、5人の歌手たちは面白げにからかったりからかわれたりする。ポップと畠山さんのからみが特に秀逸だった。

イタリアの若手ソプラノ、セレーネ・ザネッティがミミを歌い、役作りのために顔色を悪く見せるメイクをしていたが、物凄く精緻に役を作る歌手で「私の名はミミ」は絶品だった。演劇的に深く入り込んでいて、全く怖気づかず、高音域にいくにつれて複雑な色彩感を増していく。「美術品か宝飾品のような声だ」と咄嗟に思った。オパールや白蝶貝のようにゆらめいて、伸びやかなメロディの中にいくつもの聴かせどころを作っていく。非常に分析的に「声の美」を創り上げていて、知的であり純粋であり、プッチーニがミミという貧しい女性の中に見ていた聖母の姿が見えてくるようだった。

ロドルフォはミミが現れて嬉しくて嬉しくて仕方ない。ステファン・ポップは演技派で、少しやりすぎなくらいミミにのめりこんでいた。ミミのアリアの前にはロドルフォの『冷たい手を』があり、ここでのハイCは勢いよく噴出する温泉水か原油のようで…つまり無限大の豊かさを感じさせた。ミミとロドルフォがこんなに素晴らしいと、もう一幕で泣けてくる。一幕最後はデュエット半ばで舞台から去っていく二人だが、さっきまで聖母のようだったミミが「愛よ!」の重唱の高音では、獣っぽいほどムンムンした若い女性の刹那の声になっていたのに驚かされた。

二幕では東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊が大活躍。少年少女たちは楽器や手袋のカラフルなアップリケを衣装に縫いつけていて、全員が難しいイタリア語を楽しそうに歌い上げ、手袋のついた服を着た一番小さな少年が大活躍をした。
ムゼッタはエチオピア生まれのイタリア人ソプラノ、マリアム・バッティスティッリが演じ、「ムゼッタのワルツ」を鮮やかに歌った。ムゼッタのパトロン役アルチンドロは、何と元ウィーン国立歌劇場総裁のイオアン・ホレンダーで、ホレンダー氏のみ譜面を必要としていたが、何とも贅沢な画面だった。

短い3幕では、ミミのパートが改めて難しい旋律を歌うことを思い知らされた。病魔に冒されて、ロドルフォともうまくいかなくなったミミの精神状態は、独特の譫妄的で寄る辺ないメロディーによって表される。プッチーニが世俗的な作曲家というのは全く嘘で、歌手にもオケにも最大限難しいことをさせる。ザネッティの実力の高さと、涙にむせぶロドルフォ=ポップの演技力に感心した。
4幕では、屋根裏部屋の若者4人が悪ふざけをして踊ったり格闘したりする。この場面は演出的にも大変よく作られていて、「演奏会形式」というものから完全に飛び出していた。
ロドルフォはミミを想い、マルチェッロはムゼッタを想い、それぞれ詩を書き画布に向かう。若い芸術家の愛は、恋人がインスピレーションの源だが、女の方は貧しさに負けずに生きるためにリアリストにならざるを得ない。
ミミが息絶える場面では、ミミとロドルフォの愛だけが正直で、よく語られる「ミミが子爵に見せる娼婦としての媚態」というのは全く思い浮かばなかった。

マエストロ・モランディの指揮姿は終始色々なことを語りかけてきて、指揮者の人生を見ているようで、それに応える東響のサウンドも機知に富んでいた。繊細でエレガントで、コンマスのニキティン氏の奏でる美音に何度も目が覚める思いがいた。この音楽祭、ワーグナーではN響が活躍し、この前日のブルックナー「ミサ曲第3番」では都響が名演を聴かせ、プッチーニは東響、読響の『エレクトラ』はこれから。まったく夢のような音楽祭で、特に今年は20周年記念ということもあり、演奏会形式オペラの充実度が並外れていた。
春祭が続けてきた演奏会形式オペラの「頂点」ともいえる名演で、温かいマエストロの心、真剣な東響、オペラシンガーズと少年少女合唱隊、贅沢なキャスティングの歌手たちが奇跡的なプッチーニを聴かせてくれた。ピンクの素敵な花束を渡され、息子さんのリヴュー・ホレンダー(ショナール役)とともにカーテンコールに登場したイオアン・ホレンダー氏が、なんとも言えない表情をしていた。実行委員長の鈴木幸一さんは、スタートした当時この音楽祭で舞台装置まで作りこむ計画をしていたというが、そのリスクを指摘し、演奏会形式で開催することをアドバイスしたのが、ホレンダー氏だったという。

声そのもの有難味というのも、オペラを取材しはじめた頃にはまだピンと来なかったが(演出に興味が集中していた)、客席にいて「命の源」を貰うようなものだとつくづく思った。春の音楽祭は幸せの上塗りの催しで、こちらからは永遠に何もお返しができないのに惜しみなく最高のものを聴かせてくれる。

ステファン・ポップはパヴァロッティの再来と呼ばれているらしく、「パヴァロッティは偉大すぎるだろう」という反論もあるそうだが、パヴァロッティでいいと思う。パヴァロッティにはどこかクールでスタイリッシュなところもあったが、ポップにもそういう素質があるような気がした。またすぐに聴きたいオペラ歌手。





東京・春・音楽祭『トリスタンとイゾルデ』(3/27)

2024-03-30 12:01:31 | オペラ
3月から4月にかけて約一か月間続く東京・春・音楽祭のハイライトのひとつ『トリスタンとイゾルデ』(演奏会形式)の初日を鑑賞。ワーグナー作品は長大なものが多く、『トリスタン…』も例にもれずだが、二回休憩込みの4時間40分の上演が長く感じられず、非常に凝縮された、的を絞った演奏という印象だった。
インバルもそうだが、ヤノフスキもある時期からずっと年齢が止まっていて「さらに老いる」ことをやめた人のような気がする。初めて見た時から外見がほとんど変わらない。有名な前奏曲を聴きながら、ヤノフスキの背中を見て「このマエストロはどんな子供時代を送ったのだろう」と想像した。日常で使う小さな心が、遥か彼方にある「巨大でとんでもないもの」に頻繁に引き付けられて、尋常ではない夢、想像、インスピレーションに揉まれて育った人ではないのか。龍を退治する大天使ミカエルのようにそれらの魑魅魍魎をやっつけようとして、いつの間にか魅了されて、心が「あの世とこの世」を生きながらにして往来することを可能にしたのかも知れない。そうした人は、この世で起こることがあまりに平凡なので、普段から平然とした表情をまとうことになる。

N響の合奏が素晴らしく、先日の新国の都響とどう違うのかうまく表現できないが、どちらも素晴らしいけれど、こちらは演奏会形式で聴くワーグナーの醍醐味を存分に味わった。コンサートマスターは初めて見る人(ベンジャミン・ボウマン)で、マエストロも全面的に信頼を寄せている様子。ヤノフスキ自身が「演出は不要」と、演奏会形式のオペラのみを振るポリシーを貫いてきた人だから(現在もそうであるかは分からない)、このスタイルが完璧に聴こえるのも自然なことだ。大胆な加速や、嵐のように駆け抜けるパッセージに何度も驚かされたが、N響は怖気づかずについていく。

ステージに二人の金髪の女性。二人とも素敵な衣装を纏っているので最初どちらがイゾルデでどちらがブランゲーネなのか迷ったが、眉間に皺寄せて怖い顔をしているほうがイゾルデなのは明白だった。ビルギッテ・クリステンセンは一幕のほとんどをこの表情で歌い、トリスタンへの憎しみでいっぱいの振動体として舞台に存在していた。このアプローチで、「媚薬」の意味が新しく感じられた。イゾルデは母から授かった超常的な医学の技術と、誇り高い血族の末裔としてのプライドでぱんぱんになっている。イゾルデ歌手がトゥーランドット歌手であることは珍しくないが、これらのヒロインは自意識の面で非常に似ているのだ。対するトリスタンは、マルケ王への従属だけがアイデンティティの拠り所で、婚約者を殺されたイゾルデにとっては見下すべきみすぼらしい男である(惹かれてはいるが)。一幕のイゾルデの怒りは恩着せがましく、「殺せたけど助けてやったのに!」と理屈で相手を羽交い絞めにする。まったく可愛げのない女性なのだ。

それが媚薬の効果で、うっとりとした優しい女性になってしまう。媚薬の場面のオーケストラが震撼もので、いかにこの妙薬が現実離れした魔法をもたらすか、木管やハープのマジカルな響きが饒舌に表現していた。そこからイゾルデの顔が全く別人になったのだ。1幕でのイゾルデの「怒り」がこれほど極端でないと、媚薬の場面も鮮烈にはならない。彼女は「正論」とは別の境地=愛に生きる道へ運ばれてしまう。1幕のラストで歌わないマルケ王(フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ)が舞台に現れ、一瞬緊張感を醸し出したのが良かった。

トリスタン役のスチュアート・スケルトンは身体が大きなテノール歌手で、イゾルデが芝居に寄せたコスチュームなのに対し三つ揃いのネクタイ姿だったのが少しばかり興ざめだったが、後半から声楽的にどんどん冴えていき、特に三幕は引き込まれた。二幕では、媚薬によって痴れた男女がひたすらお互いを讃え合う。それを見守るブランゲーネが、二階のR席から「お気をつけて…」と歌い出すのが感動的。ルクサンドラ・ドノーセのブランゲーネは優しく、この役の魅力を際立ててみせた。ブランゲーネは時折弁者のような役割も負う。

「トリスタンとイゾルデ」は演奏によってこんなにも印象が異なるのか。ヤノフスキはこの作品こそ演奏会形式にふさわしいと確信していたと思う。二幕終わりでトリスタンの歌手が指揮台によって遮られていたイゾルデと手をつなごうとしたとき、指揮者は狡猾な猫のようにシュッと爪を立ててテノールを制止し、心を溶け合わせたイゾルデと離れ離れに舞台を去るトリスタンがとても残念そうだった。多くの演出では二人は二幕でベタベタになる。抱き合ったり頬を寄せあったりするのだが、それはそれでしかない。それとは違う、もっと深淵な魂の病がトリスタンとイゾルデの絆の正体なのだ。

今まで「トリスタンとイゾルデ」の歌詞の何を見てきたのか、自分の目は本当に節穴だと思った。3幕で傷を負ったトリスタンは、朦朧とした意識の中でさまよえる自分の身の置き所のなさについて語り出す。「母は私を産んで死に、父は私を宿して死に」自分のさだめがわからぬ、と苦悩する。これはジークムントとジークリンデの間に生まれたジークフリートではないか。イゾルデはトリスタンの浮遊する人生に碇を下ろしてくれた。オランダ人が希求した乙女ゼンタそのものだ。官能という罪に与えられた罰のように、血がこんこんと流れ続ける…クンドリに愚弄(?)された「パルジファル」のアムフォルタスと同じである。ワーグナーはこのようにして、物語の男たちに自分の不安と焦燥を重ね合わせた。トリスタンは古代伝説の主人公である前に、ワーグナーの分身であった。芝居は少なかったが、スチュアート・スケルトンがこの場面も滔々と溢れるような悲劇的美声で歌い上げた。

「トリスタンとイゾルデ」は媚薬や不倫の物語である以前に、元々傷ついた存在である「引き裂かれたY染色体」の苦痛の物語なのかも知れない。自然界の雄大さ、激変する心理、精神と肉体の苦痛、酩酊、悔恨、といった要素が、歌手たちの歌以上にオーケストラ譜に書かれている。ワーグナーが交響曲を放擲し、楽劇に全霊を捧げた理由が理解できた。男女のあれこれという陳腐な次元に引きずり降ろさず、あくまでワーグナーの音楽全体を透視したヤノフスキには、尊敬の念を抱かずにはいられない。クルヴェナールのマルクス・アイヒェは今回も冴えていて、スーパースターのオーラだった。マルケ王のゼーリヒも素晴らしかった。男性歌手陣は皆黒の正装で、女性歌手たちは演劇的な衣装だったことで視覚的には世界が二つに割れてしまったが、男性のコスチュームに折衷的なものが少ない現実が問題なのかも知れない。メロート甲斐栄次郎さん、牧童大槻孝志さん、舵取り髙橋洋介さん、東京オペラシンガーズの誠実な歌唱にも感謝を捧げたい。
ヤノフスキとN響は『トリスタンとイゾルデ』のあと一回の上演の後、4/7には『ニーベルングの指輪』ガラ・コンサートも上演する。マルクス・アイヒェはヴォータンを歌う。こんな凄い音楽祭があっていいのだろうか…。改めてこの春の東京にいられることを幸せに思えた。


カーテンコールでのヤノフスキ氏とイゾルデ役のクリステンセン











新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』(1/24)

2024-01-31 01:18:22 | オペラ
新国立劇場で上演中の『エウゲニ・オネーギン』の初日を鑑賞。最近の新国の客層は若い女性や学生のカップルが多く、この日もいつものオペラファンとは違う雰囲気の人々で客席が埋まっていた。ドミトリー・べルトマンの演出はコロナ前の2019年が初演だから、5年ぶりの再演となり、時の経つ速さに驚く。明快な演出で、つねに舞台の中央に設置される円柱風(実際は円柱ではない)の4本(三幕では8本)の柱が印象的。冒頭の女性たちの重唱は、田舎の安穏とした暮らしが、もはや倦怠を超えて憂鬱の域に達していることを、ノスタルジックな旋律で表していく。タチヤーナをロシアのベテランソプラノ、エカテリーナ・シウリーナが演じ、妹オリガを同じくロシア出身のアンナ・ゴリャチョーワが演じ、姉妹の母ラーリナを郷家暁子さん、乳母のフィリッピエヴナを橋爪ゆかさんが演じた。

まだかなり若く見える指揮者、ヴァレンティン・ウリューピンが東響から神妙で重層的なサウンドを引き出していて、チャイコフスキーの書く旋律はなぜここまで憂いに満ちて美しいのか感傷に浸った。機微を感じさせる合奏で、デリケートな色彩感があり、確かにロシアの情景が見えてくるようだった。

オネーギンは長身でハンサムなバリトン、ユーリ・ユルチュクが登場の場面から素敵で、この役に理想的な雰囲気をまとっていた。厭世的でプライドが高くすべてに退屈している若者で、タチヤーナとはお互いに似たもの同士の気配を感じる。タチヤーナはすぐにふられてしまうのだが、出会いの場面では相思相愛に見えるし、オネーギンも積極的にタチヤーナと二人の時間を作ろうとする。これではタチヤーナも「脈アリ」と思っても仕方がない。
新国初登場のゲスト歌手たちは粒ぞろいで、レンスキー役のテノール、ヴィクトル・アンティペンコが存在感のある美声で聴衆をあっと言わせた。フランスオペラの重い役…ウェルテルやファウストやホフマンを歌っても素晴らしいはず。オリガ役はこの演出では衣装とヘアメイクが気の毒(!)だが、アンナ・ゴリャチョーワが深いメゾの声で(思いのほか深い声質)姉との性格の違いを表現した。

タチヤーナがオネーギンに手紙を書く場面は、心臓が破けそうだった。何度見ても崩れ落ちそうになるシーンで、原作では恋文というより「同志宣言」のような勇ましい内容だったと思うが、オペラでは恋する女性の告白そのもので、初恋でありながら、同時に性的にも激しい衝動が生まれていることを吐露している。精神的な愛が官能的な愛に直結していることを、内気な文学少女のタチヤーナはオネーギンとの出会いで一気に理解してしまう。

オネーギンの理路整然とした拒絶は残酷で、ユルチュクはこの場面が一番魅力的だった。
チャイコフスキーのオペラは見事に鏡像的で、3幕でオネーギンの手紙を破棄する人妻タチヤーナもそうだが、その間にレンスキーの死があり、そこが折り目になって最初と最後が鏡合わせになる。オネーギンとの決闘で儚く散るレンスキーは、タチヤーナの身代わりであるように思えて仕方なかった。同じ挑発と裏切りに対して、女は泣くだけだが男は殺し合いを申し出る。死を意識したレンスキーの絶唱は真のハイライトで、テノールのアンティペンコが魂を尽くした熱唱を聴かせた。

オネーギンの話は有閑階級の戯言、という解釈もある。プーシキンの原作は読みづらく、いつも途中で挫折するが、確かに差し迫った貧困や戦争といったものからは隔絶された上流社会のあれこれが描かれている。
タチヤーナの傷つきやすさに、年をとってますます同情する自分が可笑しかった。断崖絶壁に立たされて、「この想いは妄想だろうか、現実となるだろうか」と祈る。生と死の境目を彷徨って書いた手紙を馬鹿にされ、玉突き事故のように事態は極端に悪い方へ転がっていく。
思うのは、タチヤーナの恋はただの恋ではなく、生まれて初めて出会った分身への愛であり、生きていることの証を相手から得たいという渇望だったということで、甚だこの世的ではない。オネーギンとタチヤーナは磁石のマイナス同士で、似すぎているのだ。

三幕で少ししか歌わないグレーミン公爵は「歌い得」としか言いようがないいい役で、バスのアレクサンドル・ツィムバリュクがロシアの地熱を思わせる低音で若妻タチヤーナへの愛を歌って大喝采を得た。
今更なぜオネーギンが人妻になったタチヤーナを追いかけるのか、特に女性はこの心理を由々しく不可解に思うことが多い。他人のものになって悔しいから。過ぎ去った青春の象徴だから。クランコ振付のバレエ『オネーギン』を見たときも、毎回色々なことを考える。
チャイコフスキーは男の心も女の心も持っていたと思うが、オネーギンの男の心がここで露になる。「同じ女が見違える姿になった」ことが、性的な好奇心を刺激したのだ。タチヤーナの拒絶の理由についても、いくつもの解釈がある。オネーギンの残酷さ、移り気に対する報復である以上に、この一連の出来事の中に一人の人間の死があったことが重要だと思った。
レンスキーの愚直さはタチヤーナの愚直さであり、レンスキーはタチヤーナの身代わりとなって死んだ。
それでもラストシーンで心が裂けそうになるのは、この男女の愛が同類の魂との因縁で、タイミングの悪さによって成就せず、何かが来世に持ち越されているからだ。

タチヤーナ役のシウリーナの声はどこまでも透明で純粋で、声楽的に体裁をまうまく保とうなんてしなくても、ドラマに身を委ねれば素晴らしい歌になることを証明していた。道化的なトリケを歌った升島唯博さんは美声で演技も素晴らしく、本来ヒロイン役が似合う郷家暁子さんは若い男に目がない母親役をコミカルに演じ、橋爪ゆかさんも老け役のフィリッピエヴナを温かく演じた。稽古場はどのような雰囲気だったのだろう。この難しい時代に、ロシア出身の歌手(シウリーナ、アンティペンコ、ゴリャチョーワ)とウクライナ出身の歌手(ユルチュク、ツィムバリュク)が同じ舞台に立っていた。日本の劇場でそれが実現することが、何より平和の証だった。


Ⓒterashi masahiko








東京二期会『ドン・カルロ』(10/13)

2023-10-23 16:29:50 | オペラ
ロッテ・デ・ベア演出、二期会『ドン・カルロ』(シュツットガルト州立歌劇場との提携公演)の初日。カーテンコール時に凄まじいブーイングが起こり、日本で上演されたオペラで(恐らく)最も過激なブーがホールに響き渡ったことでも記憶に残る公演となった。演出家に対する非難であったのだが、すぐ側でブーイングしている客を睨みつけながら、自分はこのプロダクションが最も優れたもののひとつであると確信していた。型破りなようでいて、中途半端な演劇的知性では届かない、ある「人間性の本質」に到達しているという感触があったからだ。

過去にライヴで観たドン・カルロで記憶に残っているのは、2011年のMETの来日公演(ジョン・デクスター演出 ファビオ・ルイージ指揮)、2016年マリインスキー歌劇場来日公演(ジョルジオ・バルビエロ・コルセッティ演出 ワレリー・ゲルギエフ指揮)、2013年に二期会で上演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出・ガブリエーレ・フェッロ指揮のプロダクションも鮮明に覚えている(こちらは稽古から見学していたため)。2023年の上演では、ヴェルディのこの4時間半近いオペラが、オーケストラ・ソロ・合唱ともに名旋律のオンパレードであることを改めて実感した。聴きどころが多く、音楽の流れにも強烈なグルーヴがあるため、長丁場でもそれほど疲労感を感じない。

ロッテ・デ・ベアの演出では、オペラの芯にある性的な情熱と、とことん腐敗した宗教的支配、暴力が子細に描かれる。
ドン・カルロが婚約者エリザベッタと出会うフォンテーヌ・ブローのシーンからエロティックな暗示が提示され、森の中に設置されたダブルベッドで、お互いの中に永遠の愛を読み取った若い男女が官能を貪ろうとする。エリザベッタが慌てて身体に巻いた白いシーツが、そのまま老いたフィリッポの花嫁衣裳にすりかわる。この描写は、その後の引き裂かれた男女の心の傷を印象づける暗示となり、同じベッドが後半にも登場するが、こちらではフィリッポとエボリが不義の愛で睦み合う。

フィリッポⅡ世のフィギュアの作り方が完璧すぎて、いつも素敵なジョン・ハオが、女性の最も嫌悪するタイプの初老男性に変身していたのが凄かった。頭髪は枯れ、容色は衰えつつも男性機能はまだあり、エゴイストで支配的で、加齢臭が漂ってきそうな風貌をしている。フィリッポは現世における生殺与奪の神で、息子に対しても容赦なく権力を揮う。そんな男を裏で支配する宗教裁判長が、グロテスクの限りを尽くしいてた。フィリッポと宗教裁判長の長い接吻シーンは衝撃的で、ここから最後までこのオペラにおける宗教裁判長の存在感が月並みでなかった。

ところで、二期会の『ドン・カルロ』の上演の1か月前に引っ越し公演を行ったローマ歌劇場のゲネプロと本公演を鑑賞して、スタティックで伝統的な演出の良さというものを個人的に強く感じていた。具象絵画の良さをしみじみと味わい、イタリア・オペラのあり方のひとつの完成形を認めたのだが、全く正反対のアプローチである二期会の公演に嫌悪感を感じることは全くなかった。コンヴィチュニー、グルーバー、ミキエレット、『魔笛』『パルジファル』での宮本亞門さんなど、レジーテアター的な演出を採用している二期会の攻めの姿勢には、一筋縄ではいかないプライドを感じる。「ヴェルディは神である」という視点も正しく「ヴェルディはマッチョ主義で、女性の本質を見落としている」という視点もまた正しい。後者においては、オペラの既成の枠組みを超えた人間的洞察が介入する。ロッテ・デ・ベアの冒険は徹底していた。

4幕から5幕にかけて、エリザベッタの孤独は深刻なものになり、フィリッポを拒絶しながらも、カルロへの愛も諦観へと化石化していく。エリザベッタは芯の強い女性で、カルロを愛しながらも肖像の中の彼になぐさめを求め、現実ではどうしようもないことを宿命として受け入れる。5幕のエリザベッタの至高のアリアは彼女の愛そのものだが、それを舞台下手で聴いているカルロは酔いどれたような態度で、やけくその拍手で嘲笑する。ブーイングの多くはこのカルロの所作によるものではなかったかと想像するが、樋口達哉さんのカルロが、『ホフマン物語』の絶望の淵にあるホフマンに見えて、これは明らかに名場面だと思った。愛の成就を諦めたエリザベッタと、諦められないカルロは、物語の設定の通り「母と息子」なのであり、それに続く歌詞の字幕を見て、演出家は天才以外の何者でもないと確信した。

この演出が空恐ろしいのは、登場人物の性格づけが正確で、それぞれの個性がステレオの音量のつまみのように「強」に回されている。それだけで、様々なことがいよいよ破壊的になり、愛とエロスの本質が露骨になり、見る人によってはある種の拒絶反応を引き起こされる。愛=官能であり、肉体を持って現世を生きる者にとって、それを引き裂かれることは死と同じ意味をもつ。カルロの苦悩の本質は性欲と引き離すことが出来ず(ウェルテル、ホフマンと同様)、エリザベッタの苦痛はフィリッポへの性的嫌悪によって拡大される。
「モダンとは何か」という闘いに挑んでいる演出で、オペラという「神聖世界」にも破壊と再生が必須であることを伝えてきた。ラストシーンは特に、ショッキングで挑発的だった(死ぬべき人物が死なない)。撮影スタッフから「舞台が暗い」という苦情も聞いたが、一階席で見る限り繊細な照明デザインがなされていいて、ドラマに集中することを助けてくれた。劇中で歌手たちが行うアクションは、稽古場でケガ人が出ても不思議ではないと思われるほど激しく、振付のラン・アーサー・ブラウンが指導を行った。この振付家は自身も演出を手掛ける人物だという。

若手指揮者のレオナルド・シーニは演出のドラマ作りに協力的な指揮で、東京フィルから重層的なサウンドを引き出していた。10年前にインタビューしたダニエーレ・ルスティオーニは「自分が出世したら、わけのわからない演出家を全員クビにしたい」と冗談交じりに語っていたが、さらに若い世代の指揮者であるシーニは別の考えを持っているのかも知れない。ピットから溢れ出す音楽の力が強靭だった。
歌手陣はパーフェクトで、二期会のスターであるカルロ役の樋口達哉さんのタフな演技、神聖でスケールの大きなエリザベッタを演じた竹田倫子さん、悪役の毒が徹底していたフィリッポⅡ世役のジョン・ハオさん、そして劇中唯一英雄的なロドリーゴを輝かしく歌った小林啓倫さんが素晴らしかった。小林さんは日本のオペラの至宝である。10年前にエボリを演じた清水華澄さんも素晴らしく、10年前より妖艶にこの役を演じていたのに驚かされた。二期会合唱団はある意味このオペラの主役でもあり、霊力のある合唱には、ヴェルディが描こうとした「目に見えぬものの威力」が確かに感じられた。




新国立劇場『ラ・ボエーム』(6/30)

2023-07-01 06:01:10 | オペラ
新国ボエームの6/30公演を鑑賞。2003年の初演から7回目となる粟國淳さん演出の再演で、新演出ではないが芸術監督の大野さんが振るということで、何かが起こるのではないかと予想していた。これは本当に、奇跡の公演だった。オーケストラは東京フィル。

ロドルフォが登場したとき「テノールには珍しく背が高いこの美声の歌手は誰なんだ」とびっくりしたが、2019年の新国バタフライでピンカートンを歌ったスティーヴン・コステロで、ピンカートンはほとんど印象に残っていない。4年の間に何が起こったのか。歌手として急成長した? ホールの空間の隅々まで行き渡る丁寧な歌唱で、めざましい艶やかさがあり、その裏側には忍耐強さも感じられた。
ミミはイタリア人ソプラノのアレッサンドラ・マリアネッリ。2011年のボローニャ歌劇場の『カルメン』でミカエラを歌う予定だったが叶わず、今回が初来日となった歌手で、一声を聴いた途端大好きになった。上品で優しさがあり、神秘性と、豊かな母性のようなものも感じられる。ミミは登場の瞬間からもう死を感じさせる演技だが、声は「まだまだ生きたい。母にもなってみたい。世界の大きな広がりを感じてみたい」と訴えてくる。

ロドルフォの『冷たい手を』とミミの『私の名はミミ』は、やはりどう考えても重要なアリアで、先日のパレルモ・マッシモ劇場ではゲオルギューのミミが苦しそうだったので最後まで案じてしまったが、歌手はここで聴かせてくれなくては困る。コステロはとても緊張していたが、渾身の力を振り絞って響かせたハイCには胸に突き刺さるものがあった。続くマリアネッリのミミの自己紹介で、二人の歌手の相性の良さを実感した。アパートのドアを開けたら、女神のような女性が立っていた、という物語である。そんな女神を見つけたら、自分ならどう思うだろう? 男女は一目で恋に落ちるが、それは二人がそっくりの魂を持っている似た者同士で、同時にお互いの中に神を見つけてしまったからだ。歌手の性格的な繊細さも似通っていたが、それも「演技」であったら、それはそれで凄い。

二つのアリアを振る大野さんの激しい棒がピットから見えた。ロドルフォと一体化し、ミミと一体化し、完全に歌手と同化している指揮者のエネルギーに驚嘆した。

粟國演出は卓越している。カフェモミュスの賑やかなクリスマスのシーンでは、「飛び出す絵本」のように折りたたまさった街が左右から手品のごとく押し寄せる。オペラでは森が動くこともあるのだから、街が動いても不思議はない。でも、そんなことをやる演出家は粟國さんしかいない。2幕はムゼッタのための幕で、着飾った彼女はアルチンドロとともに豪華なオープンカーで登場する。ロラン・ペリー演出の『連隊の娘』で大きな戦車が登場したときのようにびっくりした。プッチーニといえばオープンカー(スピード狂で大怪我もした)。ヴァレンティーナ・マストランジェロがムゼッタを華やかに歌い、オケの美麗さも極みに達した。マストランジェロは凄い余裕で、高飛車な歌から宝石のようなユーモアセンスが飛び散った。

『ラ・ボエーム』は尺が短いから見やすいオペラ、という紹介のされ方をすることがあるが、短くても退屈をするときは退屈する。『パルジファル』や『マイスタージンガー』も面白いものはあっという間に終わる。このボエームは一秒も退屈しなかった。人物描写が一人一人緻密であることと、オーケストラの響きと呼吸が尋常でないこと、歌手たち自身が舞台にいることに陶酔しているのが素晴らしい。3幕のアンフェール関門の場面では、離れがたいミミとロドルフォの心の寂しさが悲しかった。

4幕でミミ失うロドルフォの演技は本物で、ひととき二人切りになったときのロドルフォが、耳まで赤くして泣き崩れる姿を見て「こんなロドルフォはここにしかいない」と号泣してしまった。ボエームで泣く評論家はズブの素人だが、コステロの心境を思うとたまらなくなった。今回の彼の歌唱の素晴らしさは、歌手自身が自分の奥底に眠る巨大な可能性を見つけてしまった証拠で、そこまで歌手を昂揚させるのは演出と指揮の力に他ならない。

『ラ・ボエーム』はロドルフォ=プッチーニの物語で、ミミは幻影のような少し遠い存在であっていい。そのような確固としたプロポーションのようなものを、演出家は作ることが出来る。新制作でないこの作品を大野さんが振ったのには、やはり理由があった。

カルチェラタンのシーンでは新国立劇場合唱団がいつも以上に素晴らしく、TOKYO FM少年合唱団の少年たちはテーブルを運んだり細かい演技をこなしたり、大活躍だった。大変な準備をして本番に臨んだと思う。芸術家の卵たち、ショナール駒田敏章さん、コッリーネのフランチェスコ・レオーネ、マルチェッロ須藤慎吾さんも頼りがいがあり、ミミの死をロドルフォとともに受け止める須藤さんの凄い演技にくらくらした。稽古場でも、須藤さんは大きなものを引き受けていたのではないかと思う。

良質なプロダクションは歌手たちを急成長させるが、極上の経験の後では、それに満たないプロダクションに取り組まなければならないとき、苦痛も感じるのではないか…と要らぬ心配もしてしまった。あと三回、この凄いボエームを歌手たちに楽しんで欲しいと思う。