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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

アスミク・グリゴリアン (5/17)

2024-05-20 16:18:46 | クラシック音楽
5/15のAプログラムのコンサートが大評判だったリトアニア出身のソプラノ歌手アスミク・グリゴリアンのBプログラム(東京文化会館)。オーケストラは東京フィル、指揮はアルメニア出身のカレン・ドゥルガリャン。バレリーナのようなまとめ髪とシンプルなデザインのロングドレスで現れたグリゴリアンは、ハイヒールを脱いでも175cmはありそうな美人で、横顔が少しザハロワに似ている。
ドヴォルザーク『ルサルカ』~「月に寄せる歌」から、大きな目を見開いてどこまでも澄んだ伸びやかな声を聴かせた。まるで星空や大海原を見るように客席を見つめているのだが、客席よりもっと遠い彼方を見ているようでもあった。オーケストラに埋もれない声とは、ただ声量のある声ではなく、音程が超正確で宝石のような輝きを持っている声なのだと実感。力んだところがまったくないのに、オケを突き抜けて天界に舞い上がっていく自然な美しい声だった。

その前に演奏された『ルサルカ』序曲から、指揮者のカレン・ドゥルガリャンが凄い存在感で「この人は只者ではない」とそのたたずまいを見て感じた。そんなに高齢には見えないのに椅子に座って指揮をするのだが、両手から導き出される音が妖しく、全体が微妙にずり下がっていて、あんな音を出す東フィルも初めて聴いた。ドヴォルザークのオーケストレーションがこんなに複雑な味わいを持っていたことにも驚いた。アルメニアの首都エルバン出身で、グリゴリアンもリトアニア出身だがアルメニアのルーツをもつ。このことが、この夜のコンサートのひとつの鍵のように思われた。

チャイコフスキーの弦楽のためのエレジー『イワン・サマーリンの思い出』も、サンクトペテルブルクのチャイコフスキーではなく、南端をイスラム諸国に囲まれた「ロシア」の雑味のあるサウンドだった。指揮者の動きは魔術師か妖術師のようで、彼の周りに怪しげな煙のようなものが立ち上がっているように見える。こんな指揮者がいたのだ。世界の思わぬ広がりに驚愕する思いだった。
美しいグリゴリアンが再び登場し『エフゲニー・オネーギン』のタチアーナの手紙の場「私は死んでも良いのです」を歌う。これが、オペラ本編を見ているようで、タチアーナになり切ったグリゴリアンは一秒ごとに表情をくるくる変え、怒りと恥じらい、恐れ、希望、そして苦痛に歪んだ哲学者のような顔をして、自由な心のはばたきのようなアリアを歌った。バレエの「オネーギン」でも泣いてしまう場面だが、オペラでも泣いてしまう。あの瞬間、グリゴリアンはタチヤーナになっていたのか? というよりチャイコフスキーになっていたのだ。チャイコフスキーは自分の恋の切なさをヒロインに歌わせ、恐らく泣きながらこの場面を書いた。ソプラノ歌手が作曲家を生きていた。

『スペードの女王』の「もうかれこれ真夜中…ああ、悲しみで疲れ切ってしまった」のあとに歌われた。アルメン・ティグラニアン作曲『歌劇《アヌッシュ》より"かつて柳の木があった"」は、プログラムで唯一初めて聴く曲だったが、アルメニアの吟遊詩人の伝統に強く影響を受けたというティグラニアンの曲を、グリゴリアンは頻繁にリサイタルで採り上げているという。先日のラ・フォル・ジュルネで聴いた地中海の伝統音楽を奏でた現代の吟遊詩人「アンサンブル・オブシディエンヌ」を思い出した。場所は少し異なるが、アルメニアはトルコ、イランに隣接し、北にはジョージアとアゼルバイジャンが位置している。あのあたりの土着音楽はユニークだ。音程の取り方が細かく、バッハ以降のヨーロッパの平均律に収まらない音も認識している。アルメニアはキリスト教を国家の宗教にした最古の国で、グレゴリオ聖歌ならぬアルメニア聖歌を聖典では歌うが、それはメリスマを多様したイランの詠唱にも似た無伴奏の歌なのだ。一方「アルメニアの民族音楽」でひも解くと、インドの音楽のような性格の音楽で、民族楽器ドゥドゥクが独特の哀愁を聴かせる。

それから、歌手と指揮者のルーツであるアルメニアについてしばし考える時間があった。彼らの音感はずば抜けていて、指揮者にはエキゾチックなものがごっそりと残っているが、グリゴリアンのほうは正統派のイタリアオペラのヒロインも演じられる。幼少期に耳にしたアルメニアの微分音いっぱいの揺らぎの音楽は、クラシックをやる耳には余計なものかも知れないが、逆に「12音律以外の音もたくさん知っているが、あえて12音律で歌う面白さ」を目覚めさせたのかも知れない。グリゴリアンのずば抜けた音程の良さ、天空へとまっすぐに突き抜けていく美声は「もともとの音程のバレットが膨大である」という豊かさから来ているのだと認識した。

後半には、ハチャトゥリアンの『スパルタクス』から「スパルタクスとフリーギアのアダージオ」が演奏され、歌をひとつはさんで演奏されたR・シュトラウス『サロメ』の「七つのヴェールの踊り」と双子の音楽に聴こえた。ハチャトゥリヤンとR・シュトラウスが同根の音楽に聴こえたのは、ユニークなアルメニアの指揮者が振ったからだ。古代を志向して、近代西洋の行き詰まりを突破しようとしたR・シュトラウスが、まったく違うエキゾチックな国へ創造力をワープさせたとしても不思議ではない。指揮のドゥルガリャンの生まれたエレバンはアルメニアの首都であり、世界最古の都市のひとつで、アルメニア語も世界最古の言語に属する。音楽家のDNAはそういう来歴を持っている。

グリゴリアンは理想のサロメで、その前に歌われた『エレクトラ』のクリソテミスのモノローグ「私は座っていることもできないし、飲んでいることもできない」も圧巻だったが、この過激なヒロインたちの見事な再現をR・シュトラウスが聴いたら何と言うか聞いてみたい気分になった。サロメのモノローグ「ああ! ヨカナーン、お前の唇に口づけをしたわ!」で歌われる異次元の勝利の歌は、20世紀の新しいオペラヒロインの表現であり、モデルとなったサロメは新約聖書の登場人物である。ロマン派の残骸が散らばる中、R・シュトラウスは能う限りの知力と才能を使って「20世紀に生き続ける音楽」を書こうとした。それ以前のオペラのヒロイン像では飽き足らず、欲望に対して主体的で、能動的な女性を描き出した。

「オペラは作曲家の女性論」というのが私の持論だったが、グリゴリアンのコンサートで「オペラのヒロインは、作曲家自身である」という認識に変わった。ルサルカとはドヴォルザークであり、タチヤーナとはチャイコフスキーであり、サロメとはR・シュトラウス自身のことなのだ。作曲家は男で、歌うのは女。だから、オペラの作曲家は永遠に自分の書いたヒロインになることは出来ない。純粋なサロメを歌い上げたグリゴリアンは、作曲家と「等しい」存在だ。演奏家が作曲家に等しくなる…「そんなことはあり得ない」と思っていたが、その奇跡を見た。作曲家も歌手も完璧に両性具有的な存在で、ひとつの想像界をともに生きている。

グリゴリアンはすごく若く見えたが、経歴からかなりのキャリアを積んだ人だと思って調べたら1981年生まれとあった(それでも若い)。世界中の歌劇場が喉から手が出るほど欲しいソプラノの一人だと思うが、彼女自身はスターになるつもりで歌を続けてきた人ではなく、オペラを創造することに心血を注いできた「地味な舞台人」だった。土台の大きさというか、幹の太さというか、凄くオペラに「根付いている」感じ。その前の週にROHのオペラシネマ『蝶々夫人』を見ていたせいか、彼女のたおやかなお辞儀や所作には日本女性的なものも感じた。色々な女性に変身できる人なのだ。今まで聴いた歌姫とはまったく違う印象を残していった稀有の歌手だった。













LFJ2024③ カンティクム・ノーヴム アンサンブル・オブシディエンヌ

2024-05-12 10:57:04 | クラシック音楽
ラ・フォル・ジュルネ2024のテーマは「オリジン」で、音楽のあらゆる原型をおさらいするという壮大なテーマだったので、採り上げられる作曲家も多岐にわたり、一瞬テーマのことを忘れる瞬間もあったが、このふたつの音楽グループは紛れもない「オリジン」だった。

カンティクム・ノーヴムは地中海沿岸の伝統楽器アンサンブルで「キリスト教世界と東洋世界が出会う地中海地方の音楽と、西欧の音楽を自在に融合させる器楽・声楽演奏」をする8人組だが、西洋的な要素よりもエキゾティックな色彩がだいぶ濃厚で、譜面にどう書いてあるのか想像できない、微分音をふんだんに駆使したメロディが奏でられる。それぞれのパートには「歌」「ウード」「カーヌーン」「ニッケルハルバ」「フィドーラ」「笛」「パーカッション」など記されている。紅一点の女性が優しい歌を歌い、男性たちの多くも歌うが、日本の「謡」にも通じる懐かしさがあり、楽器の響きには我々の遠い先祖たちが、もともと同じ大陸にいた痕跡(!)が感じられる。時を超えた音楽であり、この演奏会のタイトルの「Afsaneアフサネ」はペルシャ語で「伝説」という意味、ギターの先祖にあたるウードという楽器を広めたジルヤーブ(8世紀末~9世紀)の伝説を出発点にして組まれたプログラムであった。

曲はトルコのもの、シリアのもの、オスマン帝国の音楽が並び、西洋音楽に親しんだ耳には不快にも感じられるかも知れないが、個人的には好みのタイプで、こうした音楽に拒絶感を示す人は逆に「耳がよすぎる」のだろう。煙のようにたゆたうメロディは「香り」にも似て、音楽を香りに置換して楽しむというやり方で、すごく堪能した。実際に、彼らからはお香のようないい香りがしたのだ。演奏家たち、ふだんはどんなライフスタイルなのだろう。吟遊詩人の魂をもつ音楽家たちは、非文明的な生活をしているようにも見え、違う次元を生きている存在のようでもあった。

彼ら同様、もうひとつどうしても聴きたいグループがアンサンブル・オブシディエンヌで、ともに2019年の「ボヤージュ」がテーマの年に来日し、その年の1~2月にはナントの音楽祭でも演奏を聴いていた。カンティクム・ノーヴムもアンサンブル・オブシディエンヌも、遥か昔の音楽を奏でているが、西洋音楽ゴリゴリでないところが私に合っていると見立てていただいたのか、彼らに直接取材したり、レクチャーの司会を務めさせてもらったこともあった。
アンサンブル・オブシディエンヌはフランス中世の音楽をやる集団で、メンバーは5人だが、とにかく楽器が多い。一人で何種類もの楽器を担当するが、ずらりと並んだ管楽器にはとても珍しいものもあり、小さなシタール風の弦楽器も含め、タピスリーなどの古い図案を参考にして「どのような音が出るのかは分からないが」自分たちで制作して音を出すのだと教えてくれた。

「当時の恋歌は、まだ見ぬ貴婦人への憧れを詩人が歌うというものでした」とリーダーのリュドヴィック・モンテが語り、「野生のナイチンゲールを真似て歌います」「愛の喜び、楽しさ、安らぎ、そして勇気の歌」「とても愛しています」といったタイトルの歌が、これも採譜が難しそうな音程とリズムで歌われる。「追放または十字軍の歌」「アダン・ド・ラ・アル(13世紀の作曲家)の歌」「アルフォンソ10世の歌」などが続く。

アンサンブル・オブシディエンヌも、初めて聴いた瞬間が忘れられない。魂が反応し、海の底に沈んだものが浮き上がってきたような幻想的な感慨に包まれた。この日もみんなが現代の人には見えず、風のように軽やかに「すべての時代をトリップしている存在」に見えた。2019年には、ジャーナリストとアーティストが同じレストランで食事をしていたので、そこで通訳さんを交えて色々話をしたこともあったが、近くで見る音楽家たちは服装も独特で、現代的な欲とは無縁の妖精のような人々に見えたのだった。

アンサンブル・オブシディエンヌの古いフランスの歌は、ラ・フォル・ジュルネでしか聴けないもので、この音楽祭がフランスの歴史を伝えるものでもあることを考えさせられる。ある意味、フランス・プロモーション的な要素もあるのかも知れないが、そういう言葉を使うよりやはりもっとピュアな表現を選びたくなる。

ラ・フォル・ジュルネは日本では東京のみの開催になったが、一時期は金沢、新潟、鳥栖などでも開催されていた。ラ・フォル・ジュルネの名を冠した音楽祭になると、フランスのアーティストがメインになり、ある程度のコストがかかる。金沢に関しては、何年か前にルネ・マルタンは「彼らは我々の音楽祭からノウハウを学んで、彼ら独自のことをやるためらに別れた。セ・ラ・ヴィだね」と語っていた。政治的なことは分からないが、ラ・フォル・ジュルネとして開催するには、大変なことも多いのだろう。それゆえに、今回のこの二団体との再会は、大変貴重に感じられた。地中海とフランスの歴史を音楽で体感し、それがとてもユニバーサルなバイヴレーションを放っていることに改めて気づかされた。



LFJ2024② ジャン=バティスト・ドゥルセ 小津安二郎の映画に寄せる即興演奏

2024-05-12 09:40:51 | クラシック音楽
2024年のラ・フォル・ジュルネは221席の小ホールでの名演が多かった。1992年生まれのピアニスト/作曲家ジャン=バティスト・ドゥルセによる演奏会も心に残る時間で、こちらは小津安二郎の1929年の二本のサイレント映画に即興演奏が乗せられるという試み。
ドゥルセはロン=ティボー・コンクールで4位(2019年)を得た演奏家。現代の「ピアノの詩人」とも呼ばれているらしいが、何よりこの演奏会のコンセプトが気に入った。フランス人に小津ファンは多いというが、サイレント映画まで愛しているシネフィルのピアニストがいること、選ばれた二つのフィルムが何とも人間味に溢れていることが喜ばしく思えた。

仏語通訳をともなったドゥルセがこの試みについて簡単に説明をする。耳に快い声で、満員の会場の空気もやわらいでいるのを感じた。『突貫小僧』のフィルムはだいぶ痛んでいて、台詞部分の文字の映像も見えづらい。不便なことが多い中、流れるようなピアノの即興演奏が聴き手の心にさまざまな模様を作り出した。子役の小僧(青木富夫)のやんちゃぶり、人さらい(斎藤達雄)の滑稽さ、子供が大人をたじたじにいじめる本末顛倒ぶりが面白い。悪さをたくらんだ大人が逆に子供にコテンパンにされ、おもちゃを買ってもらった小僧が得をして、小僧の仲間たちまでが人さらいに群がる。「おぢちゃん、でんでん虫の顔をしてよ」という小僧にこたえる人さらいの可笑しさ。小津映画の俳優は二枚目で、所作も外見もどこか洋風だ。

帰宅してから同じ映像をyoutubeで見つけて、まったくの無音で見ると何とも物足りないことに愕然とした。ドゥルセの即興は自然で、ラヴェルやドビュッシーの後期作品を主に連想させるもので、サイレントの映画にいたずらっぽい仕掛けを作り出していた。映画のサントラは「最後のいたずらが出来る」と坂本龍一さんが語っていたが、21世紀に活躍する若手ピアニストがこんな「風流」をやってみせることに惚れ惚れしてしまう。毎回即興なのか、ある程度筋書きは決まっているのか、多分両方の要素があるだろうが、まるで演奏が密やかな影であるかのように小津のストーリーがくっきり心に残ったのも驚くべきことだった。

次の『和製喧嘩友達』の前に、再びドゥルセが語り始めた。「今日ここにいられることが幸せです。ここに集まったみなさんを感じながら、即興を弾きます」。漂いつつ、心に杭を打つピアノで、香りも感じられるようで、かけひきのようなものもあった。「フランス人は恋の終わりに、どのように相手の心に爪痕を残すか、それしか考えていないから」と誰かから教えてもらったことを思い出した。

『和製喧嘩友達』も映像は古くて荒い。フランスの小津ファンは本当にマニアックなものを見つけてくる…と思いつつ、サイレント映画の奇妙な饒舌さに目を奪われる。貧しいトラック運転手の留吉(渡辺篤)と芳造(古谷久雄)の暮らしぶりは洋風で、雑然とした食卓にはリキュールやタバスコのような調味料が置いてあり、フォークとナイフを使って何かを食べている。これはアメリカ映画『喧嘩友達』の和製版で、オリジナルが1927年で小津の和製は二年後の1929年に作られている。身寄りのないお美津(浪花友子)を家に連れ込む場面で、何やら妖しい展開を想像してしまったが、女性への悪事はまったく行われず、ヒューマニスティックで泣けるラストが待っている。『突貫小僧』も『和製喧嘩友達』も、当時どちらもヒットしたらしいから、我が国もイノセントだったのだ。

パスカル・アモワイエルのリストの音楽劇と、このジャン=バティスト・ドゥルセの即興で、ピアニストは何をやってもいい時代が来ているんだと実感した。本来ピアニストは聴衆に語り掛ける存在で、「いよいよ本当に語りかけてきた」二つの演奏会を経験し、フランスの自由さが眩しく思えた。こういう新鮮さを教えてくれるのがラ・フォル・ジュルネの醍醐味でもある。演奏家と聴衆の相思相愛を実感し、小津のヒューマニズムを発見した45分間。







LFJ2024 パスカル・アモワイエル『私がフランツ・リストに会った日』

2024-05-12 08:30:35 | クラシック音楽
5月3日から5月5日まで開催されたラ・フォル・ジュルネ2024は11公演を鑑賞。初めて聴く演奏家も多く、今年も新鮮な音楽祭だった。強く印象に残ったもののひとつが、221席の《カンタービレ》で行われたパスカル・アモワイエルの『私がフランツ・リストに出会った日』で、脚本・芝居・ピアノをピアニスト本人が担当する。
勝手に鳴りだすメトロノームを何度も止めようとして失敗し、聴衆の笑いを引き出す冒頭部から、アモワイエルの役者ぶりは洗練されていた。想像してたよりずっとプロの俳優っぽい。リストを語る音楽劇かと思いきや、ピアニストは自分自身のことも饒舌に語りだす。若い頃の自分はリストになるためなら何でもやった。ピアノの練習だけなく髪型も真似した。それを諦めたおかげでこんなにいい男になりました、と飄々と語ると、また客席から笑いが起こる。「子供の頃からみんなを驚かせるのが好きで、将来はマジシャンになると思っていました。ミュージシャンになりましたけど」

少年リストが父親のスパルタ教育を受けながら、皇帝やセレブたちの前で天才少年ぶりを披露する件は、アモワイエルがリストになり切ってモーツァルト「バター付きパン」(こんな曲があることを初めて知った)「トルコ行進曲」を拙い感じで弾いた。「気難しい巨匠にも陽気な青年時代があったのです」名教師ツェルニーのところへ連れられていくと、「早く弾きすぎる」癖を治すために、メトロノームとともに練習することを義務付けられる。この時の、メトロノームとともに語られるアモワイエルの早口言葉はちょっとした名人芸だった。

45分間の中で、父の死、貴族令嬢との失恋、ショパンの音楽への驚愕、宗教世界への憧憬などがピアニストの演奏とともに見事に語られた。リストの曲を弾くアモワイエルに「あっ」と驚いた。『巡礼の年 第一年《スイス》からオーベルマンの谷』『伝説から《水の上を歩くパオラの聖フランチェスコ》』が神懸かり的な演奏で、アモワイエルがリストの孫弟子であるシフラの弟子で、いわゆる曾孫弟子であることを思い知らされた。いよいよリストを弾くという段になって、このピアニストの天辺の才能にびっくりしたのだ。リストが僧門へ入っていったこと、神からの啓示を受けていたこと…あの演奏が説得力のすべてだった。

こんなに弾けるのに、なぜわざわざ演劇をやるのだ? とアモワイエルという人物への謎が深まった。後半もどんどん凄いことをやった。モーツァルトの真似をして、ピアノに頭を向けて仰向けに寝ながら手を交差して「きらきら星」を弾いた。「これはプロの技だから良い子は真似しないようにね」さらにワーグナー/リスト「イゾルデの愛の死」をオーケストラのように弾き、リストの影響を受けた後世の作曲家たちの魅惑的な曲を次々と弾いた。「オペラのトランスクリプションを奏でることで、辺鄙な田舎へも名作のオペラを伝えることが出来たのです」ラヴェル、ラフマニノフ、スクリャービン、オスカー・ピーターソン…「彼らはリストがいなかったらこんな曲を書いたでしょうか…」その様子を見て、わけのわからない涙が出る。ピアニストは魔術師で、「リサイタル」を発明したリストを再現していた。

ラストが見事だった。「リストは35歳で人前で弾くことをやめ、瞑想と作曲に没頭しました。それが正しい選択だったことは間違いないと私たちは知っています」
作曲家としてはどんどん枯淡の境地に進み、音がほとんど少なくなった『子守歌』が演奏されるが、そこにはかつての超絶技巧の面影もない。

アモワイエルは人の好さそうな外貌で、勿体ぶったところがなく、役者としては剽軽で芸達者で、音楽性は驚くほど深遠だった。知る限り、世界でも5本の指に入るリストの名手だ。さらにそこを超える。芸術的概念の大転換がこの芝居にはあった。「リストはピアニストであることをやめた」という衝撃を、ピアニスト自身が伝える。王侯貴族からほめそやされ、多くのファンをもつ演奏家が隠遁する。それはどんなに思い切った決断であったか。

アモワイエルは劇中とエンディングで二度手品をした。最初の手品は、リストの肖像が表紙にプリントされた楽譜をたたくと紙吹雪が舞い上がり、次の瞬間に楽譜がすべて白紙になるというもので、最後のやつは、ハンカチが赤い花になる古典的なものだった。
「マジシャンでなくてミュージシャンになりましたけど、皆さんの前でマジシャンになることを諦めきれないのです」というアモワイエルのいたずらな声が聞こえたような気がした。演奏家が作曲家の曲を弾くとはどういう行為か、哲学的な真理を見せられた音楽劇だった。



読響×マリー・ジャコ

2024-03-14 14:23:29 | クラシック音楽
初来日の新鋭マリー・ジャコをゲストに迎えた読響の定期演奏会(3/12 サントリーホール)を聴く。1990年生まれのジャコは23年からウィーン響の首席客演指揮者、24年からデンマーク王立劇場の首席指揮者、26年からケルン放送響の首席指揮者に就任する注目の女性指揮者で、ほっそりとした身体と小さな顔がバレエダンサーのような風貌だ。プロコフィエフ『歌劇《3つのオレンジへの恋》組曲』から洗練された素晴らしい響き。モダンで軽快で、氷のような透明感があり、ユーモアとわくわくする躍動感に溢れている。サントリーホールでこういう響きを聴くことも初めてのような気がした。プロコフィエフのひねくれた感じのメロディが活き活きと踊り出し、拍節感がヴィヴィッドで、細部までくっきりとした旋律線が浮かび上がる。カンブルラン時代に磨き抜かれたフレンチ・センス(?)が読響にはあるからか、ジャコとオケの相性の良さはこの曲から抜群だった。エキセントリックでファンタジックな楽想が、完璧に指揮者の手中に収まっていると思わせるのは、読響の管セクションが本当に見事だからだ。120%の真剣さと集中力が指揮者によって引き出されていた。指揮台から遠い管楽器が「近い」と感じるのは、音量ではなく精巧さからくる感覚である。

ラヴェル『ピアノ協奏曲』では小曽根真さんが登場。始まってすぐにジャジーなジャブがいくつも入ってきて、過去にもラフマニノフのコンチェルトで「やってくれた」快挙を思い出す。ラヴェルのほうがラフマニノフよりジャズに近いし、面白いことになるのは予想できたが、1楽章ではカデンツァ風の長いソロも入ったり「譜面通り」が好みのタイプの聴衆には賛否両論なのではと少し心配になった。ジャコも、初来日のコンチェルトがこんなに型破りで、度肝を抜かれたのではないかと思う。リハーサルでは、彼女はこのヴァージョンを気に入っていたのかそうでなかったのか…アダージョ楽章では冒頭から小曽根さんの純度の高い世界が打ち出され、「本編のラヴェル」がなかなか始まらない。3楽章はほとんど原曲通りだったが、そのときに1.2楽章で行われていた「粋」が、まったく的外れではないことがわかった。ラヴェルが書いたかも知れない旋律を小曽根さんは弾き、ラヴェルと同じ夢の中にいて、ラストまで勢いよく駆け抜けていった。もしかしたら、本番までジャコは納得していなかったのかも知れない。「もう終わりました」とピアノの蓋を閉じる小曽根さんに、アンコールを促すかのように打楽器席から喝采を送るマエストロ。そこからいきなりコントラバス奏者を呼んで、「A列車で行こう」が始まった。弾き終わった後、小曽根さんがジャコに「どう? 俺に惚れた?」といった感じのいい表情を向けていたのが見ていて楽しすぎた。

後半のプーランク『組曲《典型的動物》』は個人的に大好きな曲で、ラジオのパーソナリティをやっていた頃に二回ほどかけたことがあるが、生演奏で聴くのは初めて。フランス的な諧謔精神と詩情に溢れた、大げさで、「わざと書いている」ようなオーケストレーションがプーランクらしい。いたずら心と哀切が陰陽のようにゆらめき、結果的に情動をひどく揺さぶられる。読響の各セクションの明晰な演奏からは、演劇的でオーガニックな要素も感じられ、曲の進行とともにサウンドがどんどんパワフルになっていく。ジャコは現代音楽も素晴らしく振るだろうし、オペラならプッチーニだって得意だろう。彼女と読響でプーランクの『カルメル会修道女の対話』を聴きたいと思った。

ヴァイルの『交響曲第2番』からは、作曲家のシリアスで正統派な顔が見えた。その前の日に、新橋のシャンソニエ『蛙たち』で、俳優の篠井英介さんが歌うエログロな替え歌『お定のモリタート』を聴いたばかりだったので、作曲家というのは見えない短剣を心にしまっておくものなのだなと思った。思えば、プロコフィエフもラヴェルもプーランクも、一筋縄ではいかない人たちばかりで、このプログラム自体が「こじれた紳士たちのダンディズムの宴」のような世界観だった。
マリー・ジャコという人に底知れぬ興味が湧いた演奏会。まだ凄く若いけれど、色々な事を考えている。天才的霊感と「指揮の醍醐味」を感じさせてくれたジャコは、将来METやロイヤルオペラを制する人になるのではないかと確信した。読響ともまだまだ共演してほしい。16.17日にはベートーヴェン/ブラームスという正統派プロを振る予定。