小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×マリー・ジャコ

2024-03-14 14:23:29 | クラシック音楽
初来日の新鋭マリー・ジャコをゲストに迎えた読響の定期演奏会(3/12 サントリーホール)を聴く。1990年生まれのジャコは23年からウィーン響の首席客演指揮者、24年からデンマーク王立劇場の首席指揮者、26年からケルン放送響の首席指揮者に就任する注目の女性指揮者で、ほっそりとした身体と小さな顔がバレエダンサーのような風貌だ。プロコフィエフ『歌劇《3つのオレンジへの恋》組曲』から洗練された素晴らしい響き。モダンで軽快で、氷のような透明感があり、ユーモアとわくわくする躍動感に溢れている。サントリーホールでこういう響きを聴くことも初めてのような気がした。プロコフィエフのひねくれた感じのメロディが活き活きと踊り出し、拍節感がヴィヴィッドで、細部までくっきりとした旋律線が浮かび上がる。カンブルラン時代に磨き抜かれたフレンチ・センス(?)が読響にはあるからか、ジャコとオケの相性の良さはこの曲から抜群だった。エキセントリックでファンタジックな楽想が、完璧に指揮者の手中に収まっていると思わせるのは、読響の管セクションが本当に見事だからだ。120%の真剣さと集中力が指揮者によって引き出されていた。指揮台から遠い管楽器が「近い」と感じるのは、音量ではなく精巧さからくる感覚である。

ラヴェル『ピアノ協奏曲』では小曽根真さんが登場。始まってすぐにジャジーなジャブがいくつも入ってきて、過去にもラフマニノフのコンチェルトで「やってくれた」快挙を思い出す。ラヴェルのほうがラフマニノフよりジャズに近いし、面白いことになるのは予想できたが、1楽章ではカデンツァ風の長いソロも入ったり「譜面通り」が好みのタイプの聴衆には賛否両論なのではと少し心配になった。ジャコも、初来日のコンチェルトがこんなに型破りで、度肝を抜かれたのではないかと思う。リハーサルでは、彼女はこのヴァージョンを気に入っていたのかそうでなかったのか…アダージョ楽章では冒頭から小曽根さんの純度の高い世界が打ち出され、「本編のラヴェル」がなかなか始まらない。3楽章はほとんど原曲通りだったが、そのときに1.2楽章で行われていた「粋」が、まったく的外れではないことがわかった。ラヴェルが書いたかも知れない旋律を小曽根さんは弾き、ラヴェルと同じ夢の中にいて、ラストまで勢いよく駆け抜けていった。もしかしたら、本番までジャコは納得していなかったのかも知れない。「もう終わりました」とピアノの蓋を閉じる小曽根さんに、アンコールを促すかのように打楽器席から喝采を送るマエストロ。そこからいきなりコントラバス奏者を呼んで、「A列車で行こう」が始まった。弾き終わった後、小曽根さんがジャコに「どう? 俺に惚れた?」といった感じのいい表情を向けていたのが見ていて楽しすぎた。

後半のプーランク『組曲《典型的動物》』は個人的に大好きな曲で、ラジオのパーソナリティをやっていた頃に二回ほどかけたことがあるが、生演奏で聴くのは初めて。フランス的な諧謔精神と詩情に溢れた、大げさで、「わざと書いている」ようなオーケストレーションがプーランクらしい。いたずら心と哀切が陰陽のようにゆらめき、結果的に情動をひどく揺さぶられる。読響の各セクションの明晰な演奏からは、演劇的でオーガニックな要素も感じられ、曲の進行とともにサウンドがどんどんパワフルになっていく。ジャコは現代音楽も素晴らしく振るだろうし、オペラならプッチーニだって得意だろう。彼女と読響でプーランクの『カルメル会修道女の対話』を聴きたいと思った。

ヴァイルの『交響曲第2番』からは、作曲家のシリアスで正統派な顔が見えた。その前の日に、新橋のシャンソニエ『蛙たち』で、俳優の篠井英介さんが歌うエログロな替え歌『お定のモリタート』を聴いたばかりだったので、作曲家というのは見えない短剣を心にしまっておくものなのだなと思った。思えば、プロコフィエフもラヴェルもプーランクも、一筋縄ではいかない人たちばかりで、このプログラム自体が「こじれた紳士たちのダンディズムの宴」のような世界観だった。
マリー・ジャコという人に底知れぬ興味が湧いた演奏会。まだ凄く若いけれど、色々な事を考えている。天才的霊感と「指揮の醍醐味」を感じさせてくれたジャコは、将来METやロイヤルオペラを制する人になるのではないかと確信した。読響ともまだまだ共演してほしい。16.17日にはベートーヴェン/ブラームスという正統派プロを振る予定。






エリアフ・インバル×東京都交響楽団

2024-02-22 09:39:23 | クラシック音楽
2月は桂冠指揮者インバルと都響の黄金月間。2/11のプロムナードコンサート(コンサートマスター山本友重さん)では、ブラームス、ベートーヴェン、ドヴォルザークが演奏されたが、ベートーヴェンとドヴォルザークのシンフォニーはいずれも8番で、2/16に88歳となる指揮者自身のユーモアが感じられる選曲。8は「無限大=∞」であり、2024年のカバラ数秘の数である。
ブラームス「大学祝典序曲」から、インバル独特の高遠なスケール感を体感する。音が無闇に前に飛んでこない、音楽全体が彼方に見える巨大な城のようで、そのせいで色彩感もグレーやブラウンが優勢な歴史画のように感じられる。大編成のオーケストラはベートーヴェンの8番も素晴らしく演奏し、先日の山田和樹さんと読響の2番からも感じたが、ベートーヴェンは必ずしも古典的な編成にこだわらず、モダンに演奏したほうが曲の神髄が伝わるのではないかと考えさせられた。
ベートーヴェンの8番の特異さは、植物的な構造にある。主題がはっきりせず、小さな動きがやがて大きな波を引き起こす。こつこつ生きてきた庶民が勝利する市民革命のようだ。同じ部屋に置かれた観葉植物の鉢は、害虫などの敵の危機をテレパシーで伝え合う。そのことで葉から毒を発したりして身を守るのだが、恐竜のような存在から身を守る小動物の賢さも同じで、「英雄(脅威)なき世界で、小さな者はいつしか勝利して生き残る」という含みが込められた曲だと受け取った。都響のパスワークが秀逸で、まめまめしい弦の動きが、ミニマルミュージックを奏でているようで、奇妙にデジタルな感覚もあり、インバルは飄々と確信をもって音楽をまとめていく。
後半のドヴォルザーク8番は曲そのものが祝祭的な魅力に溢れていて、指揮者88歳の記念にぴったり。4楽章は飲めや騒げやの饗宴で、半音階ずつフレーズがずり下がっていく部分が特に酩酊的だった。ボヘミアの酒場の音楽の名残りなのか、一瞬マーラーを連想する節も。終わりの一音までインバルの指揮は切れ味があり、かっこよかった。

インバルの魅力を語るには、膨大な教養がなければならないと痛感したのが2/16の定期公演B(コンマスは同じく山本友重さん)で、二日間サントリーで演奏されたうちの初日を聴いたが、客席で聴いている自分の知性の足りないことに冷っとした。前半のショスタコーヴィチ『交響曲第9番』は、指揮台のインバルがおもちゃで遊ぶ子供に見え、新聞紙で作った兜と刀で戦争ごっこをしているような面白すぎる指揮だった。ソ連が勝利したときに作られた曲で、この日のプログラムにも毒のある含みがあることは明白だった。
後半のバーンスタイン『交響曲第3番《カディッシュ》』は10年前にも都響とインバルで聴いていたが、今よりさらに過去の自分の耳はふし穴で、何も聴いていなかったと思う。2024年のカディッシュは痛切で、21世紀の戦争の時代に聴くせいか、膨大な抑圧の歴史のフラストレーションが爆発したシリアスで黙示録的な曲に思われた。「語り」が重要な役割を果たし、この役を務めることを許されたジェイ・レディモアが勇敢な声でテキストを語った。神に対してこの世の矛盾を容赦なく問う内容で、原典版のバーンスタインによるオリジナル稿が採用された。すごい。痛みが全身に走る。音楽も容赦ないが、怒気を含んだ言葉の威力が凄すぎて、音楽の細部を記憶する余裕がなくなった。インバルは淡々と指揮していたように思う。バーンスタインとインバルのユダヤ性、「故郷なき者」の寄る辺なさ、その中でエリートとして生きる困難…などを思ったが、やはり全然自分の頭では理解が足りない。この日の聴衆は何を感じただろうか? 日本人であるということは、「カディッシュ」が掘り下げようとしていることとはかけ離れた安穏に守られているが、宗教的に過度にニュートラルである日本人がこの苦しみを理解しようとすることは、意味のないことではない。
ソプラノの冨平安希子さんの声がいつもと違う神聖さを帯びていて、姿も女神のようでただただ神々しかった。別の星からやってきた存在のようだった。霊性を感じさせる新国立劇場合唱団、難しい合唱をパーフェクトにこなした東京少年少女合唱隊に感謝。子供たちがあのような世界に真剣に取り組むというのはどのような体験だろうか。果てしないものを感じた。

インバルという大宇宙のような、ブラックホールのような、寛大でもあり手厳しくもある存在を、なぜかこの上なく親しく感じた。インバルはその場の嘘を明るみに出してしまうような、あっけらかんとした率直さを音楽で示す人物で、そこには暗鬱さより明るさ、シリアスさよりユーモアを感じる。世界と宇宙の凄いゼロ地点を知っている人で「この世は生きるに値するか否か」を始終考察している。命を与えられたから五感を解放して面白おかしく生きよう、なんて表現は愚劣だ。指揮者は自分と世界の間に横たわる矛盾について考え、「もしかしたら生きる価値などない世界なのかもしれない」という危機感とともに生きている。「カディッシュ」の精神性を受け取るためには、リベラルアーツ的な迂回路が必要であり、もしかしたら日本の批評に欠けている部分なのではないかと思った。インバルと都響の共演は、マーラー10番が残っている(2/22,2/23)。


(2/16インバル氏88歳誕生日の公演後に)



イーヴォ・ポゴレリッチ(1/27)

2024-01-30 14:00:00 | クラシック音楽
サントリーホールに開演20分前に到着。ホールでは(いつものように?)毛糸の帽子を被ったポゴレリッチが薄明りの中でピアノを鳴らしていた。これは何のメロディか。ホテルのラウンジで流れるムーディな曲にも聴こえるし、もしかしたら有名な作曲家の曲なのかも知れないが、ひたすらくつろいだ感じで耳に心地よい。足を怪我したのか、腰が悪いのか、杖を脇に置いている。歩くのには不便はないが、椅子から立ち上がるときに必要らしい。開演10分前くらいに袖に引っ込んだが、あのようにして「今日のホールの気配」を感じながら指慣らしをしていたのだろう。

開演時間を10分くらい過ぎてピアニスト登場。ショパンの「前奏曲 嬰ハ短調 Op,45」から何かを思い出すように訥々と音楽を奏で始める。ロシア芸術のある概念に、失われたときをともに生きる(ペレシバーニエ)というものがあるが、この演奏もピアニストと何かを再び生きているような気持ちにさせるものだった。ピアニシモが砂金のように美しく、どの音も注意深い響き。強い音は雷神の登場のように衝撃的に胸に届く。ポゴレリッチはOp.28の『24の前奏曲』も若い時代にレコーディングしているが、ショパンを嫌う(!)ピアニストもいる中で、ポゴレリッチは作曲家の想像世界の揺り篭に揺らされているように快適そうだ。Op.45の前奏曲では、短い曲の中でいくもの層の次元が見え、ショパンの見ていた特異なファンタジーを追体験するようだった。ステージは暗め、客席はいつもより明るめで、お互いの世界の断絶がほとんどない。楽譜の扱い方もいつものポゴレリチ流で、物神崇拝のかけらもない無造作が、それに見慣れた聴衆のくすくす笑いを呼んでいた。

シューマン『交響的練習曲』Op.13(遺作付き)は壮麗で巨大な音楽だった。
これ以上ないほど暗鬱に始まり、そこに続く5曲の遺作、第12番フィナーレまでの変奏が圧倒されるような音圧で展開されていく。ペダルの使い方が特徴的で、短く刈り込まれた響きが、譜面に欠かれた音譜を焼き印のように「見せた」感じがした。シューマンにおいては「対話」ということが重要なのだと再認識する。動機と動機、右手と左手、ピアニストと聴衆。「大胆さ」と認識されていたポゴレリッチの解釈が、実はとても細やかな「譜面との対話」から生まれていると気づく。

ポゴレリッチの独創性については色々なふうに言われてきたが、奇々怪々なだけであったら毎回2000人の客席が満員になるはずがない。ヨーロッパでは30年前からどのホールも満員だ。日本は優等生文化の国だから、一部での理解が遅かったのかも知れない。プログラムに掲載されている過去の来日記録がありがたい。ショパンコンクールの翌年の81年が初来日。日比谷公会堂で二日間やっている。私が初めてライヴで聴いたのはかなり遅く2005年。最後のラフマニノフが終わったのが物凄く遅い時間で、トータルで3時間以上かかった。サントリーだけの来日の年も多い。ポゴレリッチの本質、正体について「本当のこと」を言い当てるのは難しい。ここ数年の演奏を聴いて強く思うのは、つねに聴衆とともにあるピアニストで、聴衆と演奏家はふたつでひとつのものである、ということを誰よりも深く教えてくれる。斜めのものをすぐに真っすぐにしようとする感性にとっては簡単には分かりづらいが、もう少しことの本質に踏み込んでいけば、演奏されていることのすべてが「愛」を源泉にしていることに気づく。

後半のシベリウス「悲しきワルツ」は、最初何が始まっているのかわからなかった。この上なく孤独で、死後の世界を浮遊しているような左手に、右手のシンプルな音が優しく訪れて、この曲がワルツであり、調性音楽であったことを急激に思い出させる。氷点下から一気に温かい温度になり、色彩がもたらされ…愛が生まれる瞬間のようだった。ほうぼうを旅してきた両手はひとしきり愛の逢瀬をしたあと、再び暗闇の中に消えていく。凄い「未練」のようなものが余韻に残った。

シューベルト『楽興の時』はなぜこの曲を選んでくれたのか、とにかく聴けることが嬉しかった。自分自身が10 代の頃グルダの録音を何度も繰り返して聴き、全部の曲を練習した。何の偶然か、聴き手である自分とポゴレリッチの解釈が一致しているところが大きく、まるで「失われた時」を追想するような、幼少期の記憶の面影を掘り起こすような演奏だった。
第1曲は寂しい冬の夕暮れに、遠くで鳴っている踏切の音が聴こえる。そういうセンティメンタルな聴き方はどうかと思われるかも知れないが、子供時代の言いようもない寂しさが思い起こされた。第2曲はルイ・マルの感傷的な映画にも出てくる曲で、ユダヤ人少年が主人公の前で見事に弾く場面がある。静寂が背後にある曲で、一種異様な転調が何度もなされるが、ポゴレリッチは容赦ない断絶感でその転調を表現していた。
第4曲は別の曲のようで、メランコリックな旋律線が点描画のように解体され、新しい絵が構成されていた。モザイクのだまし絵のイメージ。その中にシューベルトの不思議な魂が感じられた。第6曲は指にも心にも優しい曲で、楽想の裏側に何かが潜んでいると感じさせる。個人的に愛しか感じられない曲で、一音一音が有難く、陳腐さのかけらもないピアニストの再現能力に驚かされた。「クレメンティのソナタは日本の蛍茶碗の美しさ」と以前語ってくれたポゴレリッチ、シューベルトは優しい冬の光の表現だった。

杖の件もあり、立ったり座ったりは難儀だったのだろう。そのままアンコールのショパンの夜想曲Op.62-2が演奏された。終わり際に、オペラの「椿姫」のラストシーンのような音が鳴る。死にかけていたヒロインが「蘇った…私は生きる!」と高らかに歌って息絶える場面によく似ている強い音があるのだ。もちろん、そう感じるのもポゴレリッチの演奏を聴いたときだけ。
赤ん坊の頃から、人間は他人の愛を必要とし、食べ物や水が与えられても愛情を与えられないと死に至る。ポゴレリッチの演奏に反応するのは、いわく言い難い愛のバイブレーションがそこにあるからで、千の理屈にも勝る癒しが存在する。ピアニストと聴衆は本来ひとつのものである、という確かな認識に到達した、不思議な温かさに溢れた時間だった。


ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(11/7)

2023-11-14 17:14:10 | クラシック音楽
ファビオ・ルイージ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管の来日公演、サントリーホールでのBプログラムを聴く。チケットは高価だが客席はほぼ満員と思われるほど埋まっており、在京オケの定期会員より若い聴衆が多い印象。開演前のアナウンスはルイージの声で、マエストロからのもてなしの挨拶の言葉に和んだ気分になる。
ウェーバー オペラ『オベロン』序曲は薫るようにエレガントな響きで、ドタドタしたところがない(!)軽やかな演奏。Bプロは謎めいた曲並びで、前半の二曲目はリストの『ピアノ協奏曲第2番 イ短調』がイェフム・ブロンフマンのソロで演奏された。楽章の区切りがなく、ひとつらなりの幻想曲のようなつくりのコンチェルトだが、リストのエッセンスが凝縮された個人的に大好きな曲。体格のいいブロンフマンは身体をびくりともさせず、指先だけが鍵盤の上を煌びやかに踊った。秘密の扉を開けて別次元に吸い込まれるような導入部から夢心地に誘われるが、いつしかオケもピアノもクレイジーなほど勇壮な展開に入り、「いったい何を聴いていたのか」よくわからない面白い余韻が残る。この曲はルイージとブロンフマンが1988年に初めて共演した曲で、今回はブロンフマンからこの曲をやりたいというリクエストがあったという。重苦しさの全くないクリアなオーケストラと、魔術師のようなピアニストのパフォーマンスが、金糸銀糸の糸で織られた絨毯のような時間を作りだした。アンコールはショパンのノクターンop.27-2で、サントリーホールでショパンを聴くのは(奇妙なことに)久々で、宝石の響きに陶然となる。夜が長い11月に相応しい、星空のような夜想曲だった。

後半はチャイコフスキー『交響曲第5番 ホ短調』。前日がチャイコフスキーの命日だったこともあり、面白い偶然が重なるものだと思ったが、130回目の作曲家の命日の週は4回もサントリーでチャイコフスキーを聴くことになった。チェコフィル弦楽アンサンブルでの弦楽セレナーデ、東フィルと高関健さんの3大コンチェルト、東フィルとバッティストーニのオール・チャイコフスキー・プログラム、オケ公演ではないが上野では東京バレエ団の『眠れる森の美女』でもチャイコフスキーを浴びた。高関さんのロックでソリッドな煽り、バッティストーニの煮込みが効いた激情、それぞれの指揮者がチャイコフスキーに魅了され、一部憑依されるような表情を見せていたのが面白く、完璧に対象化された冷たいチャイコフスキーの指揮というのもあるのだろうかと思った。作曲家のほうでそれを許さないような魔性を放っている。
ルイージは指揮棒なしでこの5番を振り、ベテラン奏者も多いコンセルトヘボウ管のメンバーが、何かを思い出すように滋味深い音を奏でた。「指揮とは錬金術である」という言葉を聞くたびに思い出すのはヤンソンスのことで、私がこれまで見た中でオケを完全に魅惑する指揮者の一人がヤンソンスだったが、11年の在任期間の間に彼がこのオーケストラに遺していったアウラのようなものを感じずにはいられなかった。僅か2年で終わってしまったガッティの在任時にも来日公演を聴いているが、オケが(印象として)ほとんど鳴っていなかった。楽員全員がヤンソンスを懐かしんでいるようで、思うままにならないガッティの焦りが伝わってくるようで気の毒だった。
ルイージとコンセルトヘボウ管の相性は、お互いの繊細な部分で和解しているような調和があり、そこにチャイコフスキーの霊魂が加わって、彫りの深い豊かな響きが流れ出した。ルイージは自分自身のことを毒々しく語るタイプの芸術家ではなく、演奏会の数日前に行われた記者会見でも、次期首席のマケラを賞賛したり、軽くプログラムの解説をしたり淡々として、こちらも何かを深く詮索しようという気にはならないのだった。
チャイコフスキーとルイージがつながることで、ルイージの秘められた感情が爆発した。「ここでしか私は本当のことを語らないのです」という指揮者の声が聴こえたような気がし、そういう微妙なものに反応するコンセルトヘボウ管のセンスが活きていた。指揮者はふだん隠していることも、オケの前では「ただそこにいる」ことで開示しているのだと思う。
チャイコフスキーの5番も6番も不幸の只中で書かれたが、そこには悲劇を美化するような色合いもあって、誘惑的で瞬時に人の心を奪う生身のチャイコフスキーの個性というか、媚態というものも感じられた。人間は矛盾に満ちていて、ひとつの側面からだけでは語り尽くせない。チャイコフスキーは明らかにマザコンだったと思うが、実母は14歳のときに亡くなっている。その埋められない寂しさも音楽には書かれていると思った。混沌へダイブするような激しい指揮も見られ、いつもと違うルイージの姿を見た。

思い出したのは、何年か前の松本での『エフゲニー・オネーギン』で、恐らく譜読みをする前のルイージに色々質問したところ「オペラについてはまだ質問を受けたくない」という不機嫌な反応で、大いに当惑したのだった。松本でのオペラは素晴らしい出来栄えで、歌手たちも大健闘。あのオネーギンがきっかけで、ルイージの中でもチャイコスキーへの共感が高まったのではないか。オネーギンに恋文を渡したタチヤーナと、現実に現れた若きアントニーナの影が重なって、間違った結婚をしたチャイコフスキーが傷心の中で書いたのが交響曲第5番だった。
「すべては私の妄想なのかも知れない」と思いつつ、「妄想以外の聴き方があるだろうか、妄想がなければ、歴史の授業のレポート提出と同じではないか」とも思った。音楽は妄想を加えて聴くべきで、小学校の鑑賞教室でももっとイマジネーションで聴くことを推奨すべきなのだ。そう声を上げなくても、自然とそういう時代がやってくる。
アンコールに『エフゲニー・オネーギン』のポロネーズが演奏されたので、「あっ」と少し嬉しくなった。



チャイコフスキー 3大協奏曲の饗宴 (11/6)

2023-11-09 00:50:08 | クラシック音楽
「チャイコフスキー130年目の命日に捧ぐ」とサブタイトルがつけられたオール・チャイコフスキー・プログラム。前半に『ロココの主題による変奏曲 イ長調』『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』、後半に『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』が演奏された。高関健さん指揮 東京フィルハーモニー管弦楽団。
『ロココの主題』でソロを弾いたスペイン人チェリスト、パブロ・フェランデスの演奏が大変魅力的。素晴らしい音感で音程を取り、ひとつひとつのフレーズを有機的につなげていくので、ソロパートがひとつの生き物のように感じられる。地味でおっとりしているようで、秘められた情熱があり、オケとの対話も繊細だった。プロフィールを見ると、大変人気の演奏家でスター並みの注目度の人らしい。演奏は堅実で、むしろ禁欲的な雰囲気さえある。しかしながら音楽の輪郭は魅惑的で、聴き手をくつろいだ気分にもさせてくれる。一言では語り切れない、何層もの神秘的な資質をもったチェリスト。チェコフィルの来日公演にも参加して協奏曲を弾いたらしい。謙虚さを感じさせるステージマナーも好感が持てた。コンサートマスターの三浦さんが賞賛するように握手していた姿が印象的だった。

 『ヴァイオリン協奏曲』では長身のヤン・ムチェクがスマートに現れ、ヴァイオリンがとても小さく見えたが、弾き始めると楽器と身体が完全に一体化して、情熱的な音楽が溢れ出した。この曲は数えきれないほど聴いているはずなのだが、こんなにも凄い技巧が詰まっている曲だということに改めて驚愕した。ソリストの集中力が並大抵でなく、ピッチも正確なので、旋律のピュアさが瞬間瞬間に飛んできて「一体こんなものを書いたチャイコフスキーは、演奏家に何をさせようとしたのだろう」と思ってしまう。オーケストラはこの曲では大変野性的で、高関さんが引き出すサウンドはロックのようで、一楽章のアッチェレランドはソリストの情熱とシンクロしたのだと思うが、型破りなほどだった。こんなに密度の濃いヴァイオリンコンチェルトは聴いたことがない。

後半の『ピアノ協奏曲第1番』ではキリル・ゲルシュタインが登場し、オケがソリストが囲むように配置された前半の2曲と、全体から隔絶された前方に楽器が置かれるピアノ協奏曲とはやはり違うものだなと思った。ゲルシュタインの大きな手が、冒頭の和音を分散和音で弾いていたのが鮮烈だった。力強い打鍵というより、雅やかで女性的な雰囲気になる。サンクトペデルブルクの優雅な街並み、オペラ『エフゲニー・オネーギン』の3幕の舞踏会の場面を連想した。しかしすぐさま男性的な低音が押し寄せるように鍵盤から唸り出し、大きなグルーヴを生み出していく。ゲルシュタインはもうひとりの指揮者のようにチェロや管楽器を目で制し、オケをコントロールしているように見えた。この協奏曲では、指揮者が二人いたように見えたのだ。否定的な意味ではなく、それが素晴らしい効果を上げていた。ゲルシュタインはカリスマ的で、チャイコフスキーの音楽から人間の矛盾や苦悩まで引き出して、聴き手の心臓に触れてくる音楽を創り上げていく。演奏家の知性と霊性によって、未知の印象が膨大に引き出されていた。ところどころ新鮮に聴こえる箇所があり、プログラムを見ると「1879年版 チャイコフスキーが所有していたスコアに基づく」と記載されている。

ソリスト3人の莫大な才能と精神性が、異様なほどの幸福感をもたらしてくれたコンサート。ただの幸福感ではなく、作曲家が抱えていた苦痛や悲哀こそが人間の貴重な感覚なのだということも教えてくれた。チャイコフスキーの130回目の命日を偲ぶのに、サントリーホールは確かに相応しい場所で、シャンパンの泡を模した素敵な照明のあたりに、作曲家の霊魂が飛来してきたようにも感じられた。イタリアオペラのピットに入るときはイタリアのオーケストラの音を出し、チャイコフスキーでは完全なるロシアのオケに変身する東フィルのサウンドにも、改めて感動した晩だった。