神仙世界の山が壺形をしているとされた2つの例を見てみます。ひとつは前回取り上げた「列子」湯問篇の終北の国の壺領の記事です。領とは「嶺」つまり山のことです。
四方が平坦で外側を高い山々が取り巻いている終北の国には、中央に壺領という名の山があり、その形は甔甀(※1)のようで、頂上に円い環の形をした口があります。その口からは水が湧き出して4つの谷川に分かれて流れ下り、国中を巡っています。人々はこの川の流れに沿って住んでいます。温和な気候で、横死したり病気にかかる人もなく、人々の性格は素直で従順、競ったり争ったりする者はいませんでした。喜びや楽しみはあっても、老いや悲しみ、苦しみはなく、皆が音楽を好んで手を取り合って歌います。お腹が減り、疲れたときに神瀵(※2)を飲むと力も気力ももとに戻ります。
列子は終北の国をユートピアとして描きました。老いることがなく、病気をすることもなく、まさに神仙世界をイメージできます。そのユートピアの中央には壺領と呼ばれる山がそびえ、甔甀の形、つまり壺の形だと形容され、その壺形の山から流れ出る神瀵がそのユートピアの根源になっています。ここに現実を越えた理想の世界と壺形の器との密接な結びつきを見ることができます。
※1
甔(たん)は「詹+瓦」で大きな瓶を、甀(つい)は「垂+瓦」で口が小さい壺を意味します。
※2
瀵(ふん)は「シ+糞」で、水が地下から噴き出すことを意味します。
ふたつ目、最古の地理書とされる「山海経」の海外北経に登場する「鍾山(しょうざん)」も同様の例と考えられます。前漢時代に書かれた「淮南子」に「鍾山は毘侖なり」という文があります。毘侖は崑崙山のことで、先に見た壺領と同様に4つの川が流れ出ているとされます。小南氏によると、大地の中央にある高山から四方に向かって4つの川が流れ出ているとする地理観は世界各地の神話に見られることで、大地と天を結ぶ宇宙山の特徴的な形態だといいます。崑崙山は中国における宇宙山の代表格で、「淮南子」では鍾山はその崑崙山と同じであると言っているのです。そして、六朝期に成立した「海内十洲記」において鍾山は次のように記されています。
山には玉芝や神芝が40余種自生しています。上部は天地根源の気が宿り、天帝が統治を行う金臺(きんだい)や玉闕(ぎょけつ)があります。四方には天帝の直轄になる4つの山があり、どれも鍾山より高く、それぞれに宮殿や城が5つあります。仙人や真人が山に出入りする際に通る道があり、鍾山の北の峰の門外に通じていて、天帝がここで宇宙を統治しているので、これ以上に高貴なところはありません。
この山の名である鍾山の「鍾」は胴がふくらんだ青銅製の壺のことで、酒や水をいれる容器として使われました。「海内十洲記」に描かれる世界は容易に神仙世界をイメージできるので、壺と神仙世界を関連づける観念から、この山を鍾山と呼ぶようになったと考えられます。
さて、ここまで小南氏による「壺型の宇宙」に沿って、山に見立てられていた神仙世界が壺に見立てられるようになったこと、その壺の中には神仙世界が広がっていること、また、神仙世界を想定しうる理想郷には山に見立てた壺があること、などを見てきました。神仙思想にとって壺が必要不可欠な存在であること、壺が神仙思想を象徴する存在であること、などが確認できました。
では、なぜ壺だったのでしょうか。なぜ壺という容器が神仙思想の象徴となったのでしょうか。引き続き「壺型の宇宙」を見ていきたいと思います。
※なかなか壺型古墳に行きつかない(汗)
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四方が平坦で外側を高い山々が取り巻いている終北の国には、中央に壺領という名の山があり、その形は甔甀(※1)のようで、頂上に円い環の形をした口があります。その口からは水が湧き出して4つの谷川に分かれて流れ下り、国中を巡っています。人々はこの川の流れに沿って住んでいます。温和な気候で、横死したり病気にかかる人もなく、人々の性格は素直で従順、競ったり争ったりする者はいませんでした。喜びや楽しみはあっても、老いや悲しみ、苦しみはなく、皆が音楽を好んで手を取り合って歌います。お腹が減り、疲れたときに神瀵(※2)を飲むと力も気力ももとに戻ります。
列子は終北の国をユートピアとして描きました。老いることがなく、病気をすることもなく、まさに神仙世界をイメージできます。そのユートピアの中央には壺領と呼ばれる山がそびえ、甔甀の形、つまり壺の形だと形容され、その壺形の山から流れ出る神瀵がそのユートピアの根源になっています。ここに現実を越えた理想の世界と壺形の器との密接な結びつきを見ることができます。
※1
甔(たん)は「詹+瓦」で大きな瓶を、甀(つい)は「垂+瓦」で口が小さい壺を意味します。
※2
瀵(ふん)は「シ+糞」で、水が地下から噴き出すことを意味します。
ふたつ目、最古の地理書とされる「山海経」の海外北経に登場する「鍾山(しょうざん)」も同様の例と考えられます。前漢時代に書かれた「淮南子」に「鍾山は毘侖なり」という文があります。毘侖は崑崙山のことで、先に見た壺領と同様に4つの川が流れ出ているとされます。小南氏によると、大地の中央にある高山から四方に向かって4つの川が流れ出ているとする地理観は世界各地の神話に見られることで、大地と天を結ぶ宇宙山の特徴的な形態だといいます。崑崙山は中国における宇宙山の代表格で、「淮南子」では鍾山はその崑崙山と同じであると言っているのです。そして、六朝期に成立した「海内十洲記」において鍾山は次のように記されています。
山には玉芝や神芝が40余種自生しています。上部は天地根源の気が宿り、天帝が統治を行う金臺(きんだい)や玉闕(ぎょけつ)があります。四方には天帝の直轄になる4つの山があり、どれも鍾山より高く、それぞれに宮殿や城が5つあります。仙人や真人が山に出入りする際に通る道があり、鍾山の北の峰の門外に通じていて、天帝がここで宇宙を統治しているので、これ以上に高貴なところはありません。
この山の名である鍾山の「鍾」は胴がふくらんだ青銅製の壺のことで、酒や水をいれる容器として使われました。「海内十洲記」に描かれる世界は容易に神仙世界をイメージできるので、壺と神仙世界を関連づける観念から、この山を鍾山と呼ぶようになったと考えられます。
さて、ここまで小南氏による「壺型の宇宙」に沿って、山に見立てられていた神仙世界が壺に見立てられるようになったこと、その壺の中には神仙世界が広がっていること、また、神仙世界を想定しうる理想郷には山に見立てた壺があること、などを見てきました。神仙思想にとって壺が必要不可欠な存在であること、壺が神仙思想を象徴する存在であること、などが確認できました。
では、なぜ壺だったのでしょうか。なぜ壺という容器が神仙思想の象徴となったのでしょうか。引き続き「壺型の宇宙」を見ていきたいと思います。
※なかなか壺型古墳に行きつかない(汗)
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