古代日本国成立の物語

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◆事代主神

2016年12月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 事代主の「コトシロ」は「言知る」の意で、事代主神は託宣を司る神のことである。古代においては「言(言葉)」と「事(出来事)」の区別がないため「言」とも「事」とも書く。書紀において事代主神が登場する場面を確認してみる。

 まず第1に、有名な国譲りの場面に登場し、高皇産霊尊の命を受けた経津主神と武甕槌神から国譲りを迫られた大己貴神(大国主神)は自分の子である事代主神に相談してから回答することにした、とある。結果は国を譲るのがよいと答えたあと、海の中に姿を消してしまった。
 次に、朝鮮半島討伐を促した神託に逆らって熊襲を討とうとした仲哀天皇が崩御したときに、神功皇后が自ら神主となって仲哀天皇をそそのかした神の名を知ろうとした場面で、そのなかの一人に天事代於虚事代玉籤入彦嚴之事代主神(あめにことしろしらにことしろたまくしいりびこのいつのことしるのかみ)がいることを告げられる。長い名がついているが要するに事代主神のことである。
 第3に、神功皇后が朝鮮半島遠征を終えた後、筑紫で生まれたばかりの誉田別皇子(応神天皇)を連れて大和に凱旋すべく瀬戸内海を東進したとき、船が前に進まなくなったために占いを試みたところ、天照大神、稚日女尊(わかひるめのみこと)のお告げに続いて事代主尊が「吾をば御心の長田国に祀れ」と告げたため、葉山媛の弟である長媛に祀らせた、とある。
 第4に、壬申の乱の場面で、金綱井(かなづなのい)が軍を起こした時、高市郡大領の高市県主許梅(こめ)は突然、口を閉じて何も言えなくなり、その三日後に神掛かって「吾は高市社に居る、名は事代主神だ。神日本磐余彦天皇の陵に馬と種々の兵器を奉れ。」と言ったという。

 いずれの場面においても事代主神が託宣を司る神であることを伺い知ることができる。政治と祀りが限りなく近い古代において、神のお告げを利用しながら政治を行うことは日常的に行われた。言い換えると、政務者は自身の考えを神に語らせることでその政策を正当化していた。そのように考えると託宣を行なう人は時の政権の中枢に極めて近い存在であったはずである。現代の日本に当てはめると、首相をサポートする側近中の側近であり、政府のスポークスマンでもある官房長官のような存在であろうか。

 鴨都波神社に祀られているのは鴨一族の祖先であり、代々の鴨一族の首長であった。鴨の首長家は4世紀後半に葛城氏となり、政権中枢で天皇の側近中の側近として権勢を誇るに至り、その祖先神が事代主神として祀られるようになったと考える。

 奈良県御所市森脇に葛城一言主神社がある。主祭神は葛城之一言主大神であるが、書紀では「一事主」、古事記では「一言主」と表記され、「言」と「事」の区別がないことがここでもわかる。一言主神(ひとことぬしのかみ)は事代主神と同一であるとされ、記紀において雄略紀に現われる。書紀では、雄略天皇が葛城山中で狩をしていたときに、同じ姿をした人が現われたので名を問いかけたところ、「自分は現人神であるので後で名乗ろう」と答えた。天皇が名乗ったところ「自分は一事主神である」と名乗り、二人は一緒に狩を楽しんだという。天皇と同じ姿をして対等に言葉を交わし、狩を共にする葛城に住む一事主神こそ葛城氏を表していると考えられる。つまり、一事主神=事代主神=葛城氏、ということになる。書紀には先の4つのほかにも次の場面で事代主神が登場する。

 5番目の場面では、大己貴神が国作りを終えたあと、自らの幸魂奇魂を三諸山(三輪山)に祀った話の別伝として、事代主神は八尋熊鰐(やひろのくまわに)となって三嶋の溝クイ姫、別名を玉櫛姫(たまくしひめ)という姫のところに通って出来た子が姫蹈鞴五十鈴姫命であり、この姫は神日本磐余彦(神武天皇)の后となった、とある。
 6番目は、神武即位後に前述の内容を裏付ける記述として、天皇は皇后を迎えようと思って相応しい人物を広く求めたところ、ある人が「事代主神が三嶋溝クイ耳神の娘の玉櫛媛を娶って生んだ子が媛蹈鞴五十鈴媛命といい容姿が優れている」と申し出たので、天皇はたいそう喜んで媛を皇后に迎え入れた、とある。
 7番目は、神武天皇崩御の場面で、第二代の綏靖天皇は神武天皇の第三子であることを記した上で、その母は媛蹈鞴五十鈴媛命といい、事代主神の長女であると紹介している。
 8番目は、第三代安寧天皇の紹介場面で、安寧天皇は綏靖天皇の嫡子で、 母は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)で事代主神の次女であるとしている。
 最後に、第4代懿徳天皇の紹介場面で、懿徳天皇は安寧天皇の第二子で、母は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)といい、事代主の孫の鴨王(かものきみ)の娘である、としている。

 これら一連の記述からは、鴨氏あるいは葛城氏とつながる事代主神は三嶋溝クイ(以降、三島溝杭と記す)と関係があること、事代主神と三島溝杭の娘の間にできた二人の娘が第2代・第3代の天皇の后になっていること、両者の孫が鴨王と呼ばれ、その娘が第4代の天皇の后となっていること、がわかる。これらの天皇の時代は奈良盆地の南半分、とくに葛城地方周辺が拠点となっており、出雲系とのつながりは見られない。それにもかかわらず、この由緒ある事代主神がなぜ書紀では出雲の大国主神の子とされたのか。高鴨神社に祀られる味耜高彦根神も同様で、地元の農耕神であるはずのこの神がどうして大国主神の子になっているのか。葛木御歳神社の御歳神も、神社由緒にあるように稲の神、五穀豊穣をもたらす神がどうして出雲の素戔嗚尊の系譜になるのか。私は高鴨神社の味耜高彦根神と葛木御歳神社の御歳神はともに鴨一族であると考えている。大国主神の子という同じ扱いで味耜高彦根神と兄弟とされている事代主神も加えた3人の神々は鴨族の首長家の人物であったと考える。鴨都波神社には鴨一族の代々の首長が祀られていたが、一族の最盛期を築いた事代主神を祀るに至って、この神社は事代主神の社となった。そして、それよりも少し前の時期に一族の繁栄に貢献した味耜高彦根神と御歳神を分祀してそれぞれ高鴨神社、葛木御歳神社として祀るようになった。高鴨神社が最も高い位置に祀られていることから味耜高彦根神がもっとも古い祖先神であったのだろう。だからこそ「迦毛大御神」とも言われるようになった。このように鴨三社は高鴨神社の由緒に書かれているのとは逆の順序で下から上へと祀られて行ったのである。

 事代主神や味耜高彦根神、御歳神がなぜ出雲の神になったのかを見ていくが、それを明らかにする前にそれらの神々と関係があったと鴨一族、とりわけ葛城氏の盛衰について簡単に確認しておこう



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1 コメント

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Unknown (長国在住)
2019-06-04 16:50:56
事代主神と味耜高彦根神は同神
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