古代日本国成立の物語

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息長氏の考察②

2019年03月25日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 「息長」の名が歴史に初めて登場するのが古事記の第9代開化天皇の段である。開化天皇の后妃やその子女が記述される中に「息長水依比売」の名が見える。彼女は近江の御上祝(みかみのはふり)がいつき祀る天之御影神の娘であるとして、開化天皇の子である日子坐王(ひこいますのきみ)の妃となって5人の子女を設けている。この日子坐王はその後裔が丹波とのつながりを強く感じさせる王であり、その後裔から息長氏が起こってくるのである。

 まず、御上祝であるが、これは三上祝、すなわち三上氏を指しており、近江国野洲郡三上郷を拠点とする一族で、彼らもまた製鉄氏族であるとされている。滋賀県野洲市三上、近江富士と呼ばれる三上山の西麓に式内名神大社である御上神社がある。祭神は天之御影命であり、三上氏はこの御上神社の神職家であった。神社由緒によると、第7代孝霊天皇のときに祭神である天之御影神が三上山に降臨して以降、御上祝等が三上山を神霊の鎮まる厳の磐境としていつき定めて祀っているとのことである。本居宣長は古事記伝の中で、天之御影神は天照大神が素戔嗚尊との誓約をしたときに自らが身につける八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)から三番目に生まれた天津彦根命の子である、と説いている。つまり天之御影神は天照大神の孫ということになる。その天之御影神の後裔が息長水依比売ということである。
 御上神社を西に7キロほど行くと草津市穴村町がある。天日槍が来日したときに自ら住みたいところを探すと言って諸国を巡り歩き、宇治川を遡ったところでしばらく滞在した吾名邑である。また、北東に6キロあまり、蒲生郡竜王町鏡にある鏡神社は天日槍に帯同していた陶人(すえひと)が住むところである。御上神社一帯は三上氏の拠点であるとともに天日槍ゆかりの土地でもある。三上氏は天日槍の丹波勢力と息長氏との接点役を果たしたのかも知れない。日子坐王と息長水依比売の第二子に水之穂真若王の名が見え、近淡海の安直の祖となっている。安は野洲であり、息長水依比売と三上氏とのつながりからその後裔が安直としてこの地を治めるようになったのだろう。

 古事記の開化天皇段には息長水依比売に続いて、息長宿禰王、息長帯比売命(神功皇后)、息長日子王の3人の名が登場する。息長宿禰王は日子坐王の三世孫であるが、息長水依比売の系譜ではなく、丸邇臣(和珥氏)の祖である意祁都比売命(おけつひめのみこと)の妹の袁祁津比売命(おけつひめのみこと)との間にできた山代之大筒木真若王の孫である。そして、その息長宿禰王と葛城高額比売との間に生まれた子が息長帯比売命(神功皇后)と息長日子王である。ちなみに、これらの「息長」のうち、書紀に登場するのは息長帯比売命(書紀では気長足姫尊)と息長宿禰王(書紀では気長宿禰王)のみである。神功皇后紀に「神功皇后気長足姫尊は稚日本根子彦大日々天皇(開化天皇)の曾孫、気長宿禰王の女(むすめ)なり、母を葛城高額媛という」との記述がある。

 古事記によると、息長宿禰王は、第9代開化天皇の子である日子坐王、その子である山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)、その子である迦邇米雷王の子、すなわち開化天皇の四世孫である。祖父の山代之大筒木真若王が丹波能阿治佐波毘売(たにわのあじさはびめ)を娶って生まれたのが父の迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)で、その迦邇米雷王は丹波之遠津臣の娘である高杙比売(たかくいひめ)を娶っているから、その子である息長宿禰王にはかなり濃い丹波勢力の血が入っている。つまり、丹波の血を継いだ最初の息長氏ということになる。さらに息長宿禰王は但馬を拠点とする天日槍の後裔である葛城之高額比売を娶っている。この婚姻は丹波・近江連合勢力の象徴ともいえるだろう。さらに、葛城之高額比売の名からも読み取れるようにこの連合勢力には葛城の勢力も加わっていることがわかる。というよりも、そもそも日子坐王は葛城を拠点とした神武王朝最後の天皇である第9代開化天皇の子である。その日子坐王が近江勢力の息長氏とつながり、さらには後裔が丹波勢力とつながることによって神武王朝以降の勢力を維持してきたのである。その意味から考えると、息長宿禰王と葛城之高額比売との婚姻によって葛城・丹波・近江勢力による崇神王朝包囲網が完成したと言ってもいいのかもしれない。そしてその婚姻によって生まれた息長帯比売(神功皇后)が崇神王朝打倒を果たしたのである。
 また、開化天皇の妃である意祁都比売命、日子坐王の妻である袁祁津比売命(意祁都比売命の妹)はいずれも丸邇臣(和珥氏、和邇氏)の祖先である日子国意祁都命の妹であることから、彼女らの後裔にあたる息長宿禰王は和珥氏ともつながっている。和珥氏は奈良盆地北東部一帯、現在の天理市和邇町や櫟本町のあたりを拠点とする豪族で山城から近江にも勢力を持っていた。滋賀県大津市の北部、琵琶湖に面するあたりに和邇中浜、和邇南浜、和邇中など地名に「和邇」を冠する一帯があり、このあたりが和珥氏の本拠であったとする説もある。そして付近には和邇製鉄遺跡群があったことは先に書いた通りである。息長氏は琵琶湖対岸に勢力をもつ製鉄氏族ともつながっていたようだ。和珥氏については機会を改めて考えたい。

 そして息長宿禰王のもうひとりの子である息長日子王は古事記において吉備の品遅君および針間の阿宗君の祖との注釈がある。息長氏は播磨や吉備にも勢力を拡大したのだろう。播磨は天日槍が来日したときに最初に滞在したところであり、その後に自らの居処を定めるために諸国を巡り、近江の吾名邑から若狭を経て但馬に辿り着くのである。播磨国風土記では天日槍が葦原志許乎命や伊和大神と土地の争奪戦を演じている。
 息長氏の勢力範囲ということで言えば、日子坐王と息長水依比売の子である山代之大筒木真若王の名から山城にも勢力を伸ばしていたことがわかる。京都府京田辺市にある朱智神社には山代之大筒木真若王の子である迦邇米雷王が祀られている。

 さて、ここまで開化天皇の子である日子坐王の系譜を中心に息長氏を見てきたが、古事記の景行天皇および応神天皇の段にも息長氏が登場する。つまり別系統の息長氏である。景行天皇の段では倭建命(やまとたけるのみこと)の系譜の記述に、ある妻との間にできた子として息長田別王(おきながたわけのみこ)が、その子として杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)、さらにその子として息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)が出てくる。つまり倭建命の後裔としての息長氏が存在する。さらにこの息長真若中比売が応神天皇の妃となったことが応神天皇の段に記される。つまり、日子坐王の系譜にある息長氏と倭建命の系譜にある息長氏がここでひとつになるのである。そして、応神天皇と息長真若中比売の間にできた若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)の子のひとりである大郎子(おおいらつこ)から継体天皇へとつながる系譜となっていく。但し、書紀では倭建命(日本武尊)の系譜に息長の名は見られない。古事記の記述をもとにここまでの「息長」をとりまく系譜をまとめると次のようになる。



 息長の名を赤字で示したが、日子坐王の後裔を見ていくと「丹波」を冠する名が頻出することから丹波の文字を青字で示した。天日槍の後裔についても「多遅摩」や「多遅麻」を青字にしてみた。こうしてみると息長氏と丹波勢力とのつながりの強さが感じられる。
 なお、日子坐王と息長水依比売の第一子である丹波比古多々須美知能宇斯王(たにわひこたたすみちのうしおう)は書紀では丹波道主命と記され、崇神天皇の時に四道将軍の一人として丹波に派遣された人物であるが、丹波・近江連合勢力側の人物である丹波道主命が敵対する崇神王朝側の人物として自らの勢力地に派遣されることは考えにくいので、丹波道主命が将軍として丹波に派遣された話は創作であろうと考える。


神功皇后と天日矛の伝承
宝賀寿男
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1 コメント

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Unknown (たぬき)
2019-08-29 13:03:22
開化━彦坐大王━彦道主大王(姫がヒバス姫。)
いわゆる神武(古代出雲読みで神武をカモのタケル。と読めば実体が判る仕組み)=海村雲(葛城の笛吹/高尾張に都す。)~始まる初期の大和政権は、
三代目にいたり母方の実家、出雲神族(王族の意)登美家(大和政権の副王家)が葛城から移住した三輪山麓の磯城で産まれ育った事(母系社会ゆえ)により、
自ら、磯城津彦と名乗り、以降は磯城王朝などと呼ばれました。
また、登美家は大王家に比肩する副王家(大王は登美家から嫁を貰う、三輪山の媛巫女(祭主)も登美家、ないしは血筋の媛)でありながら、磯城県主などと誤魔化されます

開化~彦坐大王、彦道主大王の時代には和邇の地域(石上神宮周辺)に王宮が遷宮していた事から、和邇氏と言う架空の氏族が捏造されました。

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