古代日本国成立の物語

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武内宿禰の考察⑥(神功皇后と武内宿禰)

2020年09月15日 | 武内宿禰
■神功皇后と武内宿禰

さて、あらためて記紀を読んでみると、神功皇后に対する忠誠ぶりはやはり特筆ものである。そこには臣下という立場を越えた親密さ、あるいは一体感というものが窺える。皇后の指示に従ったというものではなく、むしろ武内宿禰が主導している感さえある。とくに古事記における仲哀天皇崩御の場面はふたりで天皇を殺害したことを想像させるに十分な描写である。このあたりは当ブログ「神功皇后(その2 仲哀天皇の最期②)」などでも触れておいた。ちなみに、ここでの武内宿禰は4人のうちのふたり目、武内宿禰Bである。

大阪の住吉大社には底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后の4柱の神が祀られている。底筒男命、中筒男命、表筒男命を総称して住吉三神と呼ぶ。黄泉の国から戻った伊弉諾尊が禊ぎをしたときに生まれた神である。この住吉大社に伝わる「住吉大社神代記」には大社の由来が記録され、その主要部分は祭神である住吉三神の由来と鎮座について述べられており、主に日本書紀から住吉三神と関係の深い、神代、仲哀天皇、神功皇后の部分を引用した文で構成されているという。この「住吉大社神代記」に、仲哀天皇が崩御した夜に神功皇后が住吉大神と夫婦の密事を行なったことが「是夜天皇忽病發以崩〔之〕於是皇后與大神有密事俗曰夫婦之密事通」と記されている。何とも生々しい描写である。

また一方で、この住吉大神は武内宿禰と同一であるという考えがあり、書紀にはそれを想像しうる場面が記される。筑紫の橿日宮(香椎宮)における熊襲討伐の神託に際して、熊襲ではなく新羅を討つように告げられた仲哀天皇はその託宣に従わずに熊襲を攻めて、その後に病気で命を落とした。その後、皇后は武内宿禰とともに再び神託を行ない、天皇に新羅を討つように告げた神の名を問うたとこと、住吉三神の名が告げられた。古事記でも同様に天皇崩御後に神功皇后と武内宿禰によって行われた神託の場で、この国を治めるのは皇后のお腹にいる子であると告げ、続けてそれは天照大神の御心であり、それを告げたのは住吉三神であると託宣が下った。

さらに住吉大神は、新羅征討を成功させて帰国した神功皇后に対して、自分の荒魂を穴門の山田邑に祀るように告げたのであるが、この場面では住吉大神が新羅征討に従軍したことも記される。その後、皇位継承権を持つ香坂王・忍熊王の反乱に際しては、皇子を連れた武内宿禰を先に送り出したあと、穴門を出た皇后の船が進まなくなったときに神頼みをすると、天照大神や事代主神とともに現れたのが住吉三神で、これらの神々の言うことを聞くと船が進むようになったという。

武内宿禰とともに行う神託の場で必ず現れる住吉大神はいつも皇后にとって都合のいい託宣を告げる。新羅出兵や反乱制圧など皇后の難事を助けるのも住吉大神である。この様子が武内宿禰にぴったりと重なるのだ。そして記紀にはその武内宿禰と神功皇后はいつも互いに寄り添い、一心同体で息がぴったり合っている姿が描かれる。忠心の部下どころではない、まるで夫婦の関係を連想せざるを得ない描写である。住吉大神と重なる武内宿禰、武内宿禰と神功皇后の深い関係を連想させる記紀の記述、そして先述の住吉大社神代紀の密事。その住吉大社には住吉三神と神功皇后が祀られている。仲哀天皇を神託の場で殺害したのも二人かもしれない。状況証拠が揃い過ぎているのではないだろうか。


さて、記紀は結局のところ、武内宿禰をどのような人物として描きたかったのだろうか。長寿の忠臣像を一貫させようとするのであれば、弟の甘美内宿禰の讒言によって応神天皇から嫌疑をかけられた書紀の話は不要だったと思うがどうだろう。探湯で無実が証明されたことによってその忠臣ぶりがさらに際立つようになった、と見ることもできなくはないが。また、神功皇后との関係もここまで露骨に書かなくても、もう少し工夫の余地があっただろう。そのように考えると、あえて一人の人物として書く意図はなく、ある意味でありのままに書いたのかもしれない。それでも総じて見ると長寿の忠臣、天皇家を支える参謀役として高い貢献を果たした、と受け取ることができよう。私は神功皇后も武内宿禰も実在したと考えている。その実在の武内宿禰が記紀編纂当時の豪族たちから高い評価を得ていたからこそ、平群氏も蘇我氏も葛城氏も紀氏も許勢氏も寄ってたかって自らの祖先を彼に求めたのではないだろうか。






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