これまで15回にわたって投稿してきた「前方後円墳の考察」シリーズですが、最後に「古墳時代の始まりをいつとするのが妥当なのか」について考えて終わりたいと思います。
弥生時代、壺形土器の供献や棺に朱を敷き詰めるなど、各地域において共通にみられる葬送儀礼が行われてきました。これは神仙思想の観念が共有されていたことによるものですが、墳墓については各地で独自のものが造られていました。しかし、弥生時代の終わり頃になると、その墳墓の形も神仙思想に基づいて壺形に収斂していくことになります。
造営時期が3世紀前半にまで遡ることが確実とみられる壺形の墳墓はどれも全長がせいぜい数十m程度で、100mを超えるものはありません。ところが、卑弥呼が亡くなったと考えられる3世紀中頃になると、纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳がともに96mと巨大化し、さらに3世紀後半から3世紀末になると纒向勝山古墳、箸墓古墳、椿井大塚古墳、浦間茶臼山古墳など、100mを超えるものが続々と造られるようになります。(造営時期の判断が専門家によって異なる場合は保守的に見るようにしています。)
古墳時代がいつから始まるのか、については専門家の間でも議論があります。近藤義郎氏は、古墳とは「前方後円墳を代表かつ典型とし、その成立及び変遷の過程で、それとの関係において出現した墳墓をすべて包括する概念である」と規定します。近藤氏の表現は回りくどくてわかりにくいことが多いのですが、ひと言でいえば「前方後円墳が成立して以降の墳墓はすべて古墳である」ということです。つまり「前方後円墳の成立をもって古墳時代の始まりとする」ということになります。そうすると、前方後円墳の成立はいつか、そもそも前方後円墳とは何か、ということが問題になります。
近藤氏は弥生時代の墳丘墓と前方後円墳を厳格に区別して、次の4つの条件を満たすものが前方後円古墳であるとします。(筆者にて表現を簡略化しています。)
①前方後円形という型式が定まっていること。
②内部主体は長大な割竹形木棺と、それを囲う竪穴式石槨があること。
③三角縁神獣鏡の多量副葬の指向性があり、若干の武器や生産用具が副葬されること。
④底部穿孔の壺や壺形埴輪など、埴輪や土器類に象徴的な性格があること。
この条件を満たす前方後円墳の成立をもって古墳時代の始まりとして、氏はその最古級の前方後円墳を箸墓古墳としました。しかし、氏が示す4つの条件はそもそも箸墓古墳を最初の前方後円墳とするために考え出されたように感じて、邪馬台国畿内説が見え隠れします。奈良県立橿原考古学研究所では箸墓古墳の造営を西暦280~300年としていますが、最近では3世紀中頃とする専門家が増えてきており、ここでも箸墓を卑弥呼の墓にしたい意図がちらつきます。
私は、弥生時代の墳丘墓と古墳を区別する(=弥生時代と古墳時代を区別する)という意味で、前方後円墳(壺形古墳)の始まりをもって古墳時代の始まりとする考えに違和感がありません。しかし、それを区別する基準が恣意的に決められている(と思われる)ことに大きな違和感を覚えます。前方後円形の墳墓(壺形墳墓)の出現が3世紀前半であることが確実なので、これをもって古墳時代の始まりとする、すなわち3世紀から古墳時代が始まる、とするのが最もわかりやすいと思うのですが、いかがでしょうか。
以上、これで前方後円墳についての考察を終わりにします。
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主な参考文献と論文
「壺型の宇宙」 小南一郎(著)
「中国の理想郷」 井波律子(著)
「前方後円墳の出現と日本国家の起源」
古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」編集委員会(編)
「前方後円墳の世界」 広瀬和雄(著)
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎(著)
「古代日本と神仙思想」 藤田友治(編)
「道教と古代日本」 福永光司(著)
「古墳の思想」 辰巳和弘(著)
「道教の本 不老不死をめざす仙道呪術の世界」 学研プラス(発行)
「弥生土器の知識 考古学シリーズ16」 関俊彦(著)
「唐古・鍵遺跡考古資料目録Ⅱ 土器編2(弥生・搬入・特殊) 田原本町教育委員会(編)
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弥生時代、壺形土器の供献や棺に朱を敷き詰めるなど、各地域において共通にみられる葬送儀礼が行われてきました。これは神仙思想の観念が共有されていたことによるものですが、墳墓については各地で独自のものが造られていました。しかし、弥生時代の終わり頃になると、その墳墓の形も神仙思想に基づいて壺形に収斂していくことになります。
造営時期が3世紀前半にまで遡ることが確実とみられる壺形の墳墓はどれも全長がせいぜい数十m程度で、100mを超えるものはありません。ところが、卑弥呼が亡くなったと考えられる3世紀中頃になると、纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳がともに96mと巨大化し、さらに3世紀後半から3世紀末になると纒向勝山古墳、箸墓古墳、椿井大塚古墳、浦間茶臼山古墳など、100mを超えるものが続々と造られるようになります。(造営時期の判断が専門家によって異なる場合は保守的に見るようにしています。)
古墳時代がいつから始まるのか、については専門家の間でも議論があります。近藤義郎氏は、古墳とは「前方後円墳を代表かつ典型とし、その成立及び変遷の過程で、それとの関係において出現した墳墓をすべて包括する概念である」と規定します。近藤氏の表現は回りくどくてわかりにくいことが多いのですが、ひと言でいえば「前方後円墳が成立して以降の墳墓はすべて古墳である」ということです。つまり「前方後円墳の成立をもって古墳時代の始まりとする」ということになります。そうすると、前方後円墳の成立はいつか、そもそも前方後円墳とは何か、ということが問題になります。
近藤氏は弥生時代の墳丘墓と前方後円墳を厳格に区別して、次の4つの条件を満たすものが前方後円古墳であるとします。(筆者にて表現を簡略化しています。)
①前方後円形という型式が定まっていること。
②内部主体は長大な割竹形木棺と、それを囲う竪穴式石槨があること。
③三角縁神獣鏡の多量副葬の指向性があり、若干の武器や生産用具が副葬されること。
④底部穿孔の壺や壺形埴輪など、埴輪や土器類に象徴的な性格があること。
この条件を満たす前方後円墳の成立をもって古墳時代の始まりとして、氏はその最古級の前方後円墳を箸墓古墳としました。しかし、氏が示す4つの条件はそもそも箸墓古墳を最初の前方後円墳とするために考え出されたように感じて、邪馬台国畿内説が見え隠れします。奈良県立橿原考古学研究所では箸墓古墳の造営を西暦280~300年としていますが、最近では3世紀中頃とする専門家が増えてきており、ここでも箸墓を卑弥呼の墓にしたい意図がちらつきます。
私は、弥生時代の墳丘墓と古墳を区別する(=弥生時代と古墳時代を区別する)という意味で、前方後円墳(壺形古墳)の始まりをもって古墳時代の始まりとする考えに違和感がありません。しかし、それを区別する基準が恣意的に決められている(と思われる)ことに大きな違和感を覚えます。前方後円形の墳墓(壺形墳墓)の出現が3世紀前半であることが確実なので、これをもって古墳時代の始まりとする、すなわち3世紀から古墳時代が始まる、とするのが最もわかりやすいと思うのですが、いかがでしょうか。
以上、これで前方後円墳についての考察を終わりにします。
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主な参考文献と論文
「壺型の宇宙」 小南一郎(著)
「中国の理想郷」 井波律子(著)
「前方後円墳の出現と日本国家の起源」
古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」編集委員会(編)
「前方後円墳の世界」 広瀬和雄(著)
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎(著)
「古代日本と神仙思想」 藤田友治(編)
「道教と古代日本」 福永光司(著)
「古墳の思想」 辰巳和弘(著)
「道教の本 不老不死をめざす仙道呪術の世界」 学研プラス(発行)
「弥生土器の知識 考古学シリーズ16」 関俊彦(著)
「唐古・鍵遺跡考古資料目録Ⅱ 土器編2(弥生・搬入・特殊) 田原本町教育委員会(編)
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