日本においても、弥生時代の墓制である方形周溝墓から葬送儀礼に使われたとされる土器が出ます。供献土器と呼ばれるものです。弥生土器には壺、甕、鉢、高坏など様々な種類がありますが、この供献土器に使われた土器は壺が圧倒的に多いとされます。供献土器は「稲魂」を入れる器として墳墓に供献されたという解釈や、穿孔や欠損が認められる土器が多いことから、葬送儀礼の際に飲食物を入れたり、煮炊きするために使用され、葬儀が終了した後に廃棄されたとする解釈がなされています。
ここまで詳細に参照させていただいた小南氏の論文は「穀物倉と祖霊」という章で締められています。中国南方では食物を主要な媒体とした死者祭祀があり、たとえば近年の蘇州では、出棺が終わった後、テーブルの傍らにぶらさげた小さな壺に米粒を入れる「萬年糧」と呼ばれる儀式があるそうです。これは古くより今に至るまで、壺に入った穀物が依り代として用いられてきたことの現れとされますが、壺は穀物の貯蔵容器であり、その中に貯蔵されている穀物と一体になって依り代としての機能を果たしていると考えられます。
また、古代中国の墓葬の中から多くの陶製の倉庫の模型が発見されています。たとえば、河南省南部の南陽地区を中心とした後漢墓から出土する陶製の壺の蓋の部分には神仙世界など、彼岸の世界を表した文様が施されています。さらに、先に見た三国時代から西晋時代にかけての神亭壺が穀倉と呼ばれることもあり、その伝統を受けた唐代の陶罎(罎は酒を入れる容器)には骨灰とともに穀物を入れたものがあります。宋代の多嘴壺には明らかに穀物倉庫を模したものがあり、元の時代には倉庫の模型に死者の墓誌が描かれた例もあり、倉庫と死者の魂を一つに結び付ける宗教的観念の存在が推定されます。
以上のように、中国における葬送儀礼の中で倉庫の模型が重い意味を持ったことが窺われ、穀物倉庫が単に穀物の貯蔵場所であるだけでなく、それが穀霊の留まる場所であり、同時に祖霊もまたそこで安らいでいるとの観念があったことが推定され、さらにその根源を遡って考えれば、祖霊をめぐる信仰習俗的な観念と穀霊をめぐる観念との間に共通性や重複性があったと想定できます。
小南氏はまたミャンマー国境に近い山地に居住する少数民族の阿昌(アチャン)族の例も挙げます。阿昌族の原始宗教の観念では、稲も魂を持っており、それは稲から離れることができます。穀霊が離れてしまうと苗はうまく育たず、籾の入りが悪く、倉に取り入れた後も食べるに堪えないものとなります。彼らは種子を撒くとき、田植えをするとき、秋の収穫のときにはそれぞれに穀霊を祭ります。たとえば収穫祭では穀霊を持ち帰って翌年の田植えの時期まで倉庫で休ませます。倉庫はそこに穀霊が留まっていることが重要でした。この儀礼は種籾とそれを納める壺の関係に起源があると推定されます。壺の中の種籾は聖別され神格化されて鄭重に保存されていました。
壺の中に宿る穀霊は祖霊たちとその性格が近いものがあったのです。死者の霊は時間の経過とともにその個性を失って祖霊一般の中に溶解していくのですが、そのようにして人間的個性を失った遠い祖霊は穀霊と重複する性格を濃厚に備えていました。農耕儀礼と祖先祭祀が不可分に結合しているのは日本の場合だけではないということです
一年の農耕の始めに農耕神と祖霊を祭り、収穫祭も祖霊祭と重なり合っているというのは、祖霊と穀霊の基本的な性格に共通する所があったからです。現代の我々も祖先の祭りを一年を単位として定まった月日に行っていますが、よく考えればその月日に祖霊の祭祀を行う必然性は何もないのです。毎年同じ季節に祖霊祭祀が行われてきたことの背後にも祖霊と農耕神とを同一視する観念が働いているのです。
ここまで、小南氏の論文をほぼ転載する形で紹介しながら神仙思想と壺の関係を見てきました。私は氏の論をほぼそのまま受け入れることができそうです。私なりに次のように整理しました。
壺は人々の生死を左右すると言っても過言ではない穀霊が安らぐ場所であり、同時にまたこの世に生きる人々を守ってくれる祖先の霊が集う場所でもあった。古代の中国では穀霊も祖霊も人々が生きていくための拠り所として同一視された。そして、古代中国の葬送儀礼では祖霊の集う世界に死者の霊を送るために壺を墓中に埋めた。穀霊が安らぐ場所でもある壺は、現世と来世をつなぐ役割を果たし、神仙思想において死を経ずして祖霊となった神仙が住む世界と考えられるようになった。
冒頭の弥生時代の供献土器についても祖霊を穀霊と同一視する考えに立てば容易に理解できます。さらにこの供献土器による祭祀が行われた弥生時代、すでに徐福によって神仙思想が日本にもたらされていたと考えられるので、供献土器に用いられる土器として主に壺が用いられたのです。
さて、いよいよ卑弥呼の鬼道や前方後円墳について具体的に考えていきたいと思います。
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ここまで詳細に参照させていただいた小南氏の論文は「穀物倉と祖霊」という章で締められています。中国南方では食物を主要な媒体とした死者祭祀があり、たとえば近年の蘇州では、出棺が終わった後、テーブルの傍らにぶらさげた小さな壺に米粒を入れる「萬年糧」と呼ばれる儀式があるそうです。これは古くより今に至るまで、壺に入った穀物が依り代として用いられてきたことの現れとされますが、壺は穀物の貯蔵容器であり、その中に貯蔵されている穀物と一体になって依り代としての機能を果たしていると考えられます。
また、古代中国の墓葬の中から多くの陶製の倉庫の模型が発見されています。たとえば、河南省南部の南陽地区を中心とした後漢墓から出土する陶製の壺の蓋の部分には神仙世界など、彼岸の世界を表した文様が施されています。さらに、先に見た三国時代から西晋時代にかけての神亭壺が穀倉と呼ばれることもあり、その伝統を受けた唐代の陶罎(罎は酒を入れる容器)には骨灰とともに穀物を入れたものがあります。宋代の多嘴壺には明らかに穀物倉庫を模したものがあり、元の時代には倉庫の模型に死者の墓誌が描かれた例もあり、倉庫と死者の魂を一つに結び付ける宗教的観念の存在が推定されます。
以上のように、中国における葬送儀礼の中で倉庫の模型が重い意味を持ったことが窺われ、穀物倉庫が単に穀物の貯蔵場所であるだけでなく、それが穀霊の留まる場所であり、同時に祖霊もまたそこで安らいでいるとの観念があったことが推定され、さらにその根源を遡って考えれば、祖霊をめぐる信仰習俗的な観念と穀霊をめぐる観念との間に共通性や重複性があったと想定できます。
小南氏はまたミャンマー国境に近い山地に居住する少数民族の阿昌(アチャン)族の例も挙げます。阿昌族の原始宗教の観念では、稲も魂を持っており、それは稲から離れることができます。穀霊が離れてしまうと苗はうまく育たず、籾の入りが悪く、倉に取り入れた後も食べるに堪えないものとなります。彼らは種子を撒くとき、田植えをするとき、秋の収穫のときにはそれぞれに穀霊を祭ります。たとえば収穫祭では穀霊を持ち帰って翌年の田植えの時期まで倉庫で休ませます。倉庫はそこに穀霊が留まっていることが重要でした。この儀礼は種籾とそれを納める壺の関係に起源があると推定されます。壺の中の種籾は聖別され神格化されて鄭重に保存されていました。
壺の中に宿る穀霊は祖霊たちとその性格が近いものがあったのです。死者の霊は時間の経過とともにその個性を失って祖霊一般の中に溶解していくのですが、そのようにして人間的個性を失った遠い祖霊は穀霊と重複する性格を濃厚に備えていました。農耕儀礼と祖先祭祀が不可分に結合しているのは日本の場合だけではないということです
一年の農耕の始めに農耕神と祖霊を祭り、収穫祭も祖霊祭と重なり合っているというのは、祖霊と穀霊の基本的な性格に共通する所があったからです。現代の我々も祖先の祭りを一年を単位として定まった月日に行っていますが、よく考えればその月日に祖霊の祭祀を行う必然性は何もないのです。毎年同じ季節に祖霊祭祀が行われてきたことの背後にも祖霊と農耕神とを同一視する観念が働いているのです。
ここまで、小南氏の論文をほぼ転載する形で紹介しながら神仙思想と壺の関係を見てきました。私は氏の論をほぼそのまま受け入れることができそうです。私なりに次のように整理しました。
壺は人々の生死を左右すると言っても過言ではない穀霊が安らぐ場所であり、同時にまたこの世に生きる人々を守ってくれる祖先の霊が集う場所でもあった。古代の中国では穀霊も祖霊も人々が生きていくための拠り所として同一視された。そして、古代中国の葬送儀礼では祖霊の集う世界に死者の霊を送るために壺を墓中に埋めた。穀霊が安らぐ場所でもある壺は、現世と来世をつなぐ役割を果たし、神仙思想において死を経ずして祖霊となった神仙が住む世界と考えられるようになった。
冒頭の弥生時代の供献土器についても祖霊を穀霊と同一視する考えに立てば容易に理解できます。さらにこの供献土器による祭祀が行われた弥生時代、すでに徐福によって神仙思想が日本にもたらされていたと考えられるので、供献土器に用いられる土器として主に壺が用いられたのです。
さて、いよいよ卑弥呼の鬼道や前方後円墳について具体的に考えていきたいと思います。
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