古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

周溝墓が古墳に発展したのか(後編)

2023年05月24日 | 前方後円墳
前編で書いたような私の実体験や想像をもとに考えると、方形周溝墓であれ円形周溝墓であれ墓を溝で囲む一番の目的は、墓の領域を示すためであったと思うのです。また、周囲から水が流れ込んできた際にそれを受け止める目的もあったかも知れない。もともと方形周溝墓には盛土がされていないので、古墳のように墓に盛る土を掘った跡の溝ということではない。時代が下ると方形周溝墓にも土が盛られるケースが見られるので、その場合は溝を掘った土を盛ったのだと思いますが、当初はそういうことではなかった。

もうひとつ、調査報告書などで方形周溝墓が重なりあっている状況、あるいは周溝部から棺が見つかるという状況を見ることがあります。なぜ古い墓に重ねて新しい墓を造るようなことをするのか、という疑問がありましたが、前述の土葬墓と同様に考えれば合点がいきます。時とともに周溝が埋まってしまって境界がわからなくなったために意図せずに重ねて造ってしまった、ということだと思います。


このように考えると、方形周溝墓が前方後方墳に、あるいは円形周溝墓が前方後円墳に変化していったとは考えにくい。白石太一郎氏の「古墳とヤマト政権」に記載された下の図は、周溝を渡る通路(陸橋)が発展して前方部になったということを表していますが「?」です。陸橋は必ずしもこの場所に設けられるとは限らない。ひとつの角に設けられる場合もあれば、四隅、つまり4カ所に設けられる場合もある。



また、その陸橋がある時期に切断されて墓が周溝で囲まれてしまい、そもそもの陸橋の役目を果たさなくなる理由もよくわからない。陸橋が祭祀場を兼ねた時期を経て、その祭祀場が独立して前方部になった、というのであれば、祭祀のために周濠を渡る必要があり、そのためには舟が利用されたとしか考えられず、いかもに現実的ではない。A類からB類に経時的変化があったとしても、B類からC類への経時的変化は考えられず、B類とC類は断絶していると言わざるを得ない。

そもそも、方形周溝墓や円形周溝墓には必ず周溝があるけど、初期の古墳には周溝(=周濠)がないものが多い。この4月に讃岐や阿波で見た初期の古墳のほとんどが丘陵や山の上に造られていて周濠を備えていないものばかりでした。方形周溝墓や円形周溝墓が古墳の原型であるなら、初期の古墳はデフォルト(初期値)として周濠を備えていなければならないけど現実はそうではなく、周濠なしがデフォルトと考える方が合理的な状況です。つまり、古墳と周濠は必ずしもセットではないということです。丘陵を切り出して築造した古墳に周濠がなく、平地に造られた古墳には周濠があるという事実は、平地の古墳の周濠は明らかに墳丘に土を盛るために掘った跡だということです。

また、前方後方墳に比べると圧倒的に数の多い前方後円墳に対して、その原型とされる円形周溝墓の数は方形周溝墓に比べると圧倒的に少ないという現実もあります。方形周溝墓は近畿で隆盛したにもかかわらず、大和で造られる大半の大型古墳がそれを原型とした前方後方墳ではなく、円形周溝墓を原型とした前方後円墳であるというのはどのように考えればいいのでしょうか。

讃岐・阿波の古墳巡りと母の田舎での墓参りを機に考えてみた結果はこれまでの考えと変わらず、円形周溝墓が前方後円墳の原型であるとする通説(?)に少しも歩み寄ることができませんでした。では、前方後円墳はどのようにして生まれたのか。「前方後円墳って。(前方後円墳の考察①)」から16回シリーズで考察した「壺形古墳説」の思いが一層強くなりました。


実は父方の田舎でも土葬が行われていました。私が小学生の時、たしか父の叔父だったか誰かが亡くなって葬儀に連れていかれました。葬儀の最後に棺桶に蓋をしたあと、太くて長い青竹にその棺桶を縄で吊るし、数人の男の人が担いで墓地まで運ぶのです。私にも担げと言われたのだけど、大人が担ぐ青竹に手が届かず、横をついて歩いた記憶があります。その棺桶はそのまま墓地に埋められました。その墓が今どうなっているのかはわかりません。



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