ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

エリート、馬脚を露す。

2010-07-20 20:31:18 | 政治
欧米の多くの国で見られることですが、フランスも一部のエリート層と一般庶民との階層社会。自由・平等・博愛と言いますが、その平等は同じ階層内での平等なのではないかと思えるほど、階層はしっかり分かれています。

ENA(Ecole nationale d’administration:国立行政学院)をはじめとするいくつかのグラン・ゼコールを出たエリートたちが国や企業のかじ取りをし、一般庶民は自分たちの日常生活を少しでも良いものにするよう求め続ける。グラン・ゼコールに入学するためには、名門と言われるレベルの高い高校を卒業し、バカロレア(Baccalauréat:大学入学資格試験)に合格したうえで、2年ほどプレパラトリー学級で猛勉強をし、希望のグラン・ゼコールの入学試験に合格する必要があります。本人の頑張りはもちろんですが、家庭が勉学に慣れ親しむ環境にあること(例えば、本の中で生まれたように、本の中で人生を終えるだろう、と書いたサルトル)、名門校のある学区に住むこと(当然、高級住宅街で、住居費が高い)などの条件が加わりますので、親から子へ階層が固定化してしまいがちです。もちろん、庶民の側でも、職人は職人で、腕さえよければ尊敬を集めるわけですから、何が何でもエリートを目指すという願望も、それほどには強くないようです。

そして、政治エリートのトップと言えば、大統領。国父としてのイメージが大切にされ、公人として顔が前面に出ていました。従って、私人としての顔は、あまり重要視されてこなかったようです。例えば、隠し子について質問を受けたミッテラン元大統領は、“Et, alors ?” (それがどうかしました?)と一言で国民を納得させてしまいました。大統領としての職務を立派に果たしていれば、プライベート面は関係ない・・・

こうした伝統を覆したのが、ご存知、サルコジ現大統領。プライベート面を自ら話題として提供しています。グラン・ゼコールは出ていないものの、高級住宅地・ヌイイで育ち、そこの市長を長年務め、政界のトップにまで上り詰めたのですから、エリートではあります。そのニコラ・サルコジ、大統領就任後に行ったことはと言えば、財界人から提供されたプライベート・ジェットや豪華クルーザーを使っての休暇、セレブ(富豪の娘にしてシンガー)との再々婚・・・ステージの裏に隠されていたエリートたちのプライベート・ライフが公になってきています。しかも、それを誇示するかのような言動をとるサルコジ大統領とその取り巻きエリートたち・・・

そうしたエリートと庶民との対立に改めて目を向けさせた、と言われているのが、現在フランス政財界を揺るがしているヴルト・べタンクール事件(l’affaire Woerth-Bettencourt)。有名企業「ロレアル」を亡夫から引き継いだ億万長者、リリアン・ベタンクールに脱税の容疑が。しかも、このべタンクール女史、政権与党であるUMP(国民運動連合)に法的上限をはるかに超える個人献金をしていた嫌疑が明るみに。特に、2007年の大統領選挙前にUMPに渡った多額の献金が、サルコジ大統領の選挙運動費に使われたのではないか・・・また、当時からUMPの金庫番をしていたのが、エリック・ヴルト(Eric Woerth)現労相。サルコジ大統領誕生後は、予算相に就任。その立場を利用してべタンクール女史の脱税に一役買っていたのではないかという疑いが。しかも、自分の妻を、べタンクール女史の財産管理人として高給で採用してもらった・・・

エリートたちの、お金をめぐる、怪しい行動。経済危機を乗り越えるために、退職年齢の引き上げなど、庶民の暮らしを直撃する多くの緊縮政策が実施されようとしている時、エリートたちは、自らの懐を違法に肥やしているのではないか・・・

庶民とエリート層との乖離が明確になり、そして、そのきっかけがお金。このことは、何も偶然に起きたことではなく、サルコジ大統領の政治姿勢から起こるべくして起こったことだ・・・そう述べているのが、歴史家にして哲学者のマルセル・ゴシェ(Marcel Gauchet)。17日のル・モンド電子版が、そのインタビューの抜粋を掲載しています。

その内容のご紹介の前に一点。政治と国民、その問題を語るのが歴史家・哲学者・・・いかにもフランスらしいですね。政治や経済といえども、その事象の裏側を読み解くためにインタビューを受けるのは、哲学者であったり、歴史家、社会学者、統計学者など。これがフランス式ですが、今日の日本では、どのような問題でも必ず顔を出すのが、エコノミスト、アナリスト。日本とフランス、その違いの一つです。しかし、違うのであって、優劣や○×があるわけではありません。日本は日本式で国民が満足なら、それでいいのだと思います。

さて、マルセル・ゴシェ氏の説は・・・ヴルト・べタンクール事件自体は、司法的にはたいした結果も残さず、収束していくだろうが、国民が漠として抱いていたエリート層への不満を明確に自覚させた影響は残るだろう。サルコジ大統領は2007年の大統領選時、「もっと働いて、もっと稼ごう」というスローガンを掲げ、また「一生懸命に頑張れば、稼げる。怠け者たちだけが落ちこぼれる」と発言するなど、自由主義経済と社会的正義を両立させるうまいテーマを見つけたものだ。そして、その自由主義こそ、エリートたちにとって、都合のよい政策だった。当選後も、エネルギッシュな活動で大きな支持を集めたサルコジ大統領だが、その人気はそういつまでもは続かなかった。緊縮策の影響は大きく、重税感も出てくるだろう。そして、こうした状況は、財政的・社会的正義について考え直すきっかけとなり、まさにこのタイミングで発生したのがヴルト・べタンクール事件であり、サルコジ大統領の選挙時の公約に関する国民の失望感を白日の下にさらすことになった。権力の座にあるエリートたちが、市井の庶民と同じように金、金、金で動くさまを見せつけられたことはショックであり、信仰と言ってもよいほどの「公」に対する信頼をぐらつかせている。そして、こうした状況を引き起こしたサルコジ大統領の問題点は、自らが大統領の職にあることを認識していないこと、そして結果として一国を代表する政治家になれなかったことだ・・・

「公」の立場にあるエリートたちは、国のためにしっかり働いているに違いない・・・そうした信仰にも似た気持ちを打ち砕き、失望させてしまったサルコジ政権とヴルト・べタンクール事件。2012年の次期大統領選挙で新しい大統領が誕生したとしても、国民のエリート層に向ける視線は、冷めたものになっているのかもしれないですね。庶民とエリート層との階級社会というシステムが、機能不全を起こしてしまうのでしょうか・・・それでも、政党難民とも言われるように、投票したい政党がみつからない我らが状況よりは、まだましというべきなのでしょうか。それとも、自由主義経済と経済危機を経た今、世界中の政治が漂流を始めているのでしょうか。漂流の行きつく果てに、戦争の惨禍が待っていないことを願っています。
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