ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

ヨーロッパ人の三人に一人が神経を病んでいる、という事実。

2011-09-17 21:05:25 | 社会
ここ数年、インタビューなどを聞いていてよく耳にするコトバ・・・癒されました。パワーをもらいました。それほどまでに、今の日本人は、疲れているということなのでしょうか。

疲れているとしたら、その原因は・・・労働時間が増えているのでしょうか。サービス残業が問題になったことはありますが、それほどまでに長時間労働が一般化しているのでしょうか。それとも、別の原因、例えば、閉塞感からくるストレスとかなのでしょうか。

明日は今日より良い社会になる。そうはっきりと明るい未来が見えていれば、人はあまりストレスを感じずに済むのではないでしょうか。それが、右肩下がりの未来しか思い描けなければ、鬱屈した想いから、ストレスをため込み、元気がなくなって行く。そうした状況ゆえ、一時的であれ、ストレスを軽減してくれる、例えば、スポーツ、芸術やその他さまざまな分野ですごいことを成し遂げた人などから、パワーや元気をもらったと思うのかもしれません。

東京オリンピックや大阪万博のあった時代、高度成長期がバラ色をまとって蘇って来ます。思い出は、本来セピア色をしているものなのでしょうが、明日よりも、今よりも、昔が輝いてしまっている。そんな時代なのかもしれません。

時代ですから、日本だけではなく、多くの国で、共通の思いを抱いている人が多いのではないかと思います。そうした状況の反映でしょうか、ヨーロッパでも、ストレスなどから精神的に病んでしまっている人が多くなっているそうです。

どのくらいの人が、どのように病んでいるのでしょうか・・・6日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

EU(仏語表記では、UE)諸国の人口の三分の一以上(38.2%)が神経の問題や病気に悩んでおり、その症状は不眠症から心神喪失までさまざまだ、という研究成果が5日、欧州神経精神薬理学研究機関(le Collège européen de neuropsychopharmacologie:ECNP)によって発表された。

ECNPの発行する学術誌“European Neuropsychopharmacology”(欧州神経精神薬学理)に発表されたこの研究結果は、EU加盟国にスイス、アイスランド、ノルウェーを加えた30カ国を対象としたもので、30カ国の人口は5億1,400万人に達する。研究対象は精神あるいは神経の問題や病気を訴える人々を、その症状の程度や年齢にかかわらず、網羅したものだ。

良く見られる症状は、不安(14%)、不眠(7%)、鬱状態(6.9%)、心理的な面が影響する体調不良(6.3%)、アルコールまたは薬物依存(4%)、落ち着きのなさからくる注意不足(若者の中で5%)、心神喪失(85歳以上では30%)などだ。

しかも、ECNPによると、卒中による後遺症、脳の外傷性障害、パーキンソン病、多発性硬化症といった神経系の病気で数百万の人々が苦しんでいる。

2005年に行った前回の調査結果と比較して、全体としては症状のある人の割合は増えてはいないが、高齢化の進展に伴い心神喪失の人は増えている。ECNPはまた、症状を訴える人のわずか三分の一しか治療を受けていない、しかも脳の病気が神経・精神系の病気の26.6%に達していると述べている。

「計画的な対策をすべてのレベルにおいて優先的に行うことが必要であり、公衆衛生の場合と同じように、基礎研究や臨床研究への予算を十分に増額することが特に求められる」と、ECNPの論文は結論として述べている。

ECNPは、神経科学の研究を進展させるために、1987年に創設された汎ヨーロッパの研究機関だ。

・・・ということで、ヨーロッパ人も悩んでいるようです。

♪♪ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、
  ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、
  み~んな悩んで大きくなった!

と、野坂昭如氏が歌っているくらいだから、ヨーロッパ人が悩むのは当然だ、などと冗談が言えるような状況ではないようです(昔懐かしいウィスキーのCM。あの頃はよかった・・・完全に、老人の懐古趣味です。そして、あの頃、君は、若かった・・・)

世界同時不況が、ギリシャの財政危機を契機にまことしやかに語られるようになっていますが、すでに、「心」は世界同時不安に陥っているかのようです。先が見えない閉塞感、明日への漠とした不安・・・芥川龍之介を死へと追いやった、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」、巷間言われるところの「漠とした不安」が、今再び、世界を覆いつつあるのかもしれません。

不安が嵩じて、自暴自棄となり、いつか来た道を辿ることにならないよう、ぜひとも、少しでも豊かな明日、少しでも明るい未来を思い描きたいものです。その将来像は、誰かが描いてくれるものではなく(諦めも含めて)、一人一人が小さな明日を描くことから始まるのかもしれません。