緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

友人と偶然と老いと

2012年04月26日 18時19分24秒 | 人物
4月26日(木)  

 久しぶりに出合う友人、例えば十年とか二〇年振りの出会いが、日常生活の偶然の中で発生しますと、心の中で一瞬ビックリするとか微妙な変化が発生します。その一瞬を通り過ぎますと、表情が崩れて言葉がスラスラ出るものです。面白いと言いますか、相手も同じ心境になるのか、対等に言葉が返ってきます。この辺はやはり人間の感情と言いますか、年月が経ても友人を忘れさすものは無いのだと、安心したりもします。良い出会いは、偶然でも、誰か目には見えない人の差し金が有ると思ったりします。想像力が豊かですと、その偶然をバネにして、新たな世界を、言い換えますと、今までお目に掛からなかった世界へと、次の扉も自力で開く事が出来るのでしょう。現実は想像力が衰えたのか、元々無しか、この辺りが偶然の出来事でくり広げられる限界でもあります。


柿の木の根元に咲く白い花

 思いの方角がそこで終われば良いのですが、現実には長い年月、出会いが無かった分だけに、友人の老いまで目にしてしまいます。この辺は切ないと言いますか、友人の老いに、その時は気づかなくても、やがて帰宅して自分の老いを気づく羽目になります。そして、朝の散歩、道すがらに眺める光景は季節の移り変わり、ふと気づきます事は、自然の移り変わりに老いの兆しなど微塵も有りません。繰り広げられるのは新鮮世界、花鳥風月、彩られる地球、まるで人間だけが自然から取り残されて行く様を見る思いになります。

 この人間の老い行く様と、時期が来ますと毎年押し寄せる四季の美しさ、今はコガモやカルガモの飛び去った川には小魚が体長を膨らませています。豊かな自然、カラスが何を啄んでいるか追いかけて見た事があります。くちばしにくわえていたものは、カエルの断片肉で有ったのでしょうか。野鳥にも十分な餌が行き渡る様を観察して、行きとし生けるものの喜びの季節を知りますと、何を悟れば良いのか?何とも凡愚には纏まりのつかない日々でもあります。本来ならば、人間が老い行く様を宇宙の基本にする事が、どこか自然の移り変わりと噛み合わないものが有るのでしょう。その辺の捉え方を自分なりの言葉で表現しますと、心に落ち着いたものが湧き上がるのでしょうが、凡愚と言う表現で閉めれば良いのか、現実と別世界を構築出来るのか、それすら不明であります。

 愚にもつかい無い事を、昼間から酒も飲まずに、キーボードを叩くものだと内心は呆れもしますが、何か人生の心得でも浮かばないものかです!老いなど人間は言うに及ばず生きとし生けるものの宿命と思えば、何が見えるか?これもそう思い切れるかどうか不明でも有ります。そんな訳で日々目にする花鳥風月の中に老いを感じ取るのは至難の業でもあります。どこかにきっかけは有るはずですが、果たして凡愚とは切れ目を見極めえるか、或いは和光同塵の鋭い思考力が有るのか?です。

 人にはそれなりにこの世の役目を背負って生きているもので、他人様がその人の役目に気付くには、その人の持つ新たな世界に気づいて何かを受け入れるざるを得ません。人生に無駄は一つも無い。どこかでたどり着いた心境でもあります。偶然と言う目には見えないものの力で出合った友人、短い時間の中で、現実を突く鋭い言葉と穏やかな表情と静かに忍び寄る老いとをプレゼントしてくれました。また、新たな出発点でも有りそうです。