緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

記憶にのこる風景

2012年04月15日 17時56分17秒 | 地域社会
4月15日(日)  

 日田市へ一泊二日のライオンズクラブ年次大会へ出かけました。かって幼い頃に三年間も居住した土地がらだけに記憶の中にある風景を尋ねて回るのは、懐かしさを連れ添って、個人史のページをめくる気分です。五歳から八歳に掛けての三年間、年代で申しますと一九四六年から四九年に掛けての話です。現地で、六三年が経過しても現存する建物や光景に出合いますと、嬉しいやら、ホットするやらです。日本の敗戦後まもない食糧難の時代でもあり、幼いながらも記憶にしっかりと刻まれた部分と、忘却の彼方へ霞んでしまった出来事とあります。


寺院も多い土地柄


山車の木製車輪を保存した寺院の堀跡

 居住地であった三隈川の旅館街は温泉のある高層ホテル街と変化しており、建物の建築年代から推して、昭和五〇年代新築のホテル群です。敗戦後まもない頃は、木造三階建旅館が同じ地に同じ旅館名で並んでいました。その何棟かを国鉄門司鉄道教習所が教官と生徒の宿舎として借り上げていたのでしょうか。昭和二四年八月に戦後の混乱も収まり、門司鉄道教習所日田分校は解散になり、教官も生徒も門司市へ引き上げて行きました。


味噌醤油の本舗


六三年間が無かった如くに現存する荒物店

 筆者が入学しました小学校は日隈小学校、昭和二三年四月の事です。現在は同校は他所へ移転して、跡地はパトリア日田と言う名で日田市民の文化ホールが建っています。学校跡地とは良い土地柄として続くのでしょうか、パトリア日田の広場に膝をついて地面を撫でてみました。小学校一年生として運動会で走った運動場です。こうして、運動場の跡地を地面に手を当てられる事は、大きな幸せを頂いた気分になります。


当時は診療所、現在は押し花美術館


六三年前がそっくり残る川筋の家並み


洗濯や洗い場に使われた・・・・

 見物して歩いて回りましたのは、居住地で有った三隈川旅館街とJR日田駅と日隈小学校跡地と狭い三角空間ですが、日田駅寄りはその後の都市計画で街の様相は一変していますが、旅館街に近い昔の市街地は景観条例に基づくのか、昔の風情を残しております。お寺の多い地域にもなり、昔の家屋と道路拡張など市街地を変化させる事は大きな抵抗が会った事が容易に想像出来ます。


亀山公園への入口


橋の名前が記憶に残っています

 その分だけ、古い木造建築が残されており、六三年前の光景がそのまま現存した形になっております。それと市内の小売店舗の多さです。大型店を市内へ取り込まなかった事も大きく影響しております。シャッター商店街とは対称的な市内の目抜き通りです。江戸時代の天領、三隈川を活用して旅館街を形成した永い歴史、文化を意識した市民、古きを大切にする市民の心、ほめ言葉が列びます。


日隈小学校跡地を確認する目印になった川

 ホテルの温泉で一風呂あびて喫茶店でコーヒーを一杯求めて、やおら六三年前の事を経営者もしくは関係者とおぼしき人に話して、近所人のその後を尋ねてみました。ご存命で福岡市で生活していると言う事です。その人にお会いすれば六三年前の社会が広がります。記憶に残る光景や人様が存在します事は、六三年間の空白が有っても、何かしら言葉では言い表せなインパクトがあります。