平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

全米ライフル協会

2007年04月18日 | Weblog
長い間ブログを休んでしまいました。

アメリカ・ヴァージニア工科大学で起こった韓国人学生による銃乱射・大量殺人事件は痛ましい事件でした。学校での大量殺人ということでは、コロラド州のコロンバイン高校で起こった殺人事件を上回る犠牲者です。

犯人の心理的背景についてはこれから色々なことがわかってくるでしょう。

こういう事件が起こると、いつでも銃規制が話題になるのですが、アメリカではなかなか実現されませんでした。それは「全米ライフル協会」という組織が、強力な圧力団体となって、銃規制に反対しているからです。

大学で哀悼の言葉を述べたブッシュ大統領も「全米ライフル協会」の一員で、彼らの金と票をあてにしていますから、銃を規制する気などさらさらないのでしょう。なにせ「人を殺すのは人であって銃ではない」というのが、全米ライフル協会のスローガンです。

アメリカは軍需産業にコントロールされている国です。そういう国で、軍需産業の不利益になる規制を導入することは非常に困難です。

イラク戦争も軍需産業の利益のために引き起こされた一面があったことは、否定できません。戦争を起こし、武器を売りつけることによって金儲けを図る、こういう経済システムは早晩終わりにしなければなりません。

今朝のフジテレビの「特ダネ」で小倉智昭が、「日本では殺人は刃物で行なわれる。だからといって刃物を規制することはできない。それと同じようにアメリカでは銃を規制することはできないのだ」と言っていましたが、何をたわけたことを言っているのでしょう。

日本では、料理用の包丁やキャンプ用のナイフがたまたま殺人にも使われるのであって、日本刀などの武器は厳しい規制のもとにあります。銃には動物や人間を殺す以外のどういう使い道があるのでしょう? 規制しても、武器メーカー以外の誰も困りません。

アメリカが銃を野放しにしているは、アメリカの建国の歴史とも関わっています。アメリカは、銃によってイギリスからの独立をはたしました。初代大統領ジョージ・ワシントンは、独立戦争を戦った軍人でした。そして銃は、「野蛮なインディアン」から、そして西部の無法者から自分たちの身を守る護身具でした。アメリカ人の理想とする自由と独立は、銃という武器があって(そして先住民族の虐殺によって)はじめて可能だったです。ですから、アメリカ合衆国憲法修正第2条には「武器を所持する権利」が認められているのです。こういう条項をもっている憲法というのは、世界広しといえどアメリカだけではないかと思います。

民主主義は銃、すなわち武力によってのみ守られる、という発想は、アメリカの政治・外交のいたるところに浸透しています。それが拡大すると、平和は武力(核兵器)によって守られるという発想になるし、武力で中東に民主主義を移植ことは善だという発想になります。

しかし、これは古い過去の時代の発想です。今、絶滅すべき「野蛮なインディアン」はいません。無法者は警察にまかせるしかないでしょう。アメリカ人はいつまで過去の発想に縛られているのでしょう。この事件がきっかけになって、アメリカ人が銃を野放しにすることの愚かさに気づいてくれることを期待します。