平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

昭和天皇の肉声

2007年03月09日 | 富田メモと昭和天皇
朝日新聞より――

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昭和天皇の戦時の肉声、元侍従の日記見つかる
2007年03月09日03時01分

 太平洋戦争開戦前夜から敗戦まで昭和天皇の侍従として仕えた故小倉庫次(くらじ)・元東京都立大学法経学部長の日記がこのほど見つかった。「支那事変はやり度(た)くなかつた」「戦争は始めたら徹底してやらねばならぬ」などと、戦時下の天皇が側近にもらした貴重な肉声が記録されている。

 日記の主な記述は10日発売の月刊『文芸春秋』4月号に掲載される。文芸春秋によると、日記はノモンハン事件直前の39年(昭和14年)5月から、45年(同20年)8月の敗戦まで。宮内省(当時)の用箋(ようせん)600枚余りにつづられているのが、関係先から見つかった。

 日記によると、39年7月5日、満州事変を推進した石原莞爾(かんじ)少将らを栄転させる人事の説明のため板垣征四郎陸相が天皇に拝謁(はいえつ)した。

 その直後の様子について、「陸軍人事を持ち御前に出でたる所、『跡始末は何(ど)うするのだ』等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏(じょうそう)、容易に御決裁遊ばされず」と記述。陸軍への不満が人事をめぐって噴き出したとみられる。

 日独伊三国同盟締結の動きにも不快感を示している。39年10月19日、同盟を推進した白鳥敏夫・イタリア大使が帰国して進講することになると、「御気分御すすみ遊ばされざる模様なり」と、進講を嫌がった様子がうかがえる。

 日中戦争についての天皇の思いも吐露されている。「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」(40年10月12日)、「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが尤(もっと)も賢明なるべき」(41年1月9日)。

 真珠湾攻撃後、日本の戦況が優勢だった当時は「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処(ところ)なれば支障なからむ」(41年12月25日)とも語っていた。

 戦争への思いが最も率直に語られているのは、42年12月、伊勢神宮参拝のため京都に立ち寄った時のことだ。

 「(戦争は)一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満洲事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。(略)戦争はどこで止めるかが大事なことだ」「支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである」「戦争はやる迄(まで)は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」

 そして「自分の花は欧洲訪問の時だつたと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあつたが、自由でもあり、花であつた」とも語っている。

 戦況が悪化するなか、意見具申する弟宮たちに「皇族は責任なしに色々なことを言ふから困る」などと不満を漏らしたことも記載されている。

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http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY200703080285.html

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戦局・家族…素顔の天皇 元侍従の日記から
2007年03月09日09時20分

 「支那事変はやり度くなかつた」「皇族は責任なしに色々なことを言ふ」……。このほど見つかった昭和天皇に仕えた小倉庫次(くらじ)侍従の日記には、戦時下の昭和天皇が心を許した側近に吐露した、戦争や家族、皇族への率直な思いがつづられている。

 戦局が厳しさを増すとともに、弟宮たちが意見を具申しようとする動きに、天皇は苦々しい思いを隠さない。

 「秩父宮殿下、明日御対顔の御申入れあり。聖上『困つたな困つたな』と仰せらる」(39年5月11日)。日独の同盟に前向きな弟の訪問への当惑ぶりが伝わる。

 45年4月18日には三笠宮の対面の申し出を受けたものの、天皇は「何を言はうとするのかな、皇族は責任なしに色々なことを言ふから困る」とこぼしている。

■「茶会中止を」

 42年3月20日、天皇はシンガポールの博物館の標本を南方軍が献上するとのニュースについて「自分は文化施設を壊すことは面白くないと思ふ。一部自分の手許に寄(よこ)しても、それは其のものを生かす途ではない。現地に一括してあればこそ価値があるのである」と述べ、差し止めを命じた。

 戦時下、自分の楽しみやぜいたくを気にする天皇の姿も目立つ。

 41年7月8日、葉山御用邸で水泳した際、「時局柄、水泳しても宜(よろ)しきやとの御訊(おたず)ねあり」。

 42年2月25日、内務大臣が米、石炭などの不足を奏上すると、天皇は小倉を呼んで「自分達の方も少しつめる必要はないか」と尋ねている。

 44年4月8日、天皇誕生日の茶会について「漸次物資も窮屈となれる故、止めては如何」。同6月7日、赤坂離宮の正門や鉄柵(てっさく)の供出を提案。「書棚等の銅部品は何(ど)うかとの仰せあり」

■親心も素直に

 2人の息子、皇太子(現天皇)と義宮(現常陸宮)を手元に置きたいとの親心が、率直に記されている。

 39年12月5日、4歳の義宮を青山御所に移居させる方針が出された時のこと。「宮城を出ることになれば、東宮と一緒か」と問い、教育上、一緒は無理と説明されると、「同居になれぬ位(くらい)なら宮城の方がよくはないか」「宮城内に設備しては何故いかぬか」。「青山御所は大宮御所、秩父宮御殿に近か過る。そちらにおなじみになりはせぬか。淋しい」ともこぼしている。

 さらに、別居を認めた後も「英国皇室に於ては宮中にて皇子傅育(ふいく)をしてゐるが、日本では何故出来ぬか」と、諦(あきら)めきれない様子だった。

■警報下の別れ

 小倉は東京帝大を卒業後、財団法人東京市政調査会の研究員から宮内省に入った、いわば「外様」の侍従で、身近に仕えたのも6年ほどだった。しかし天皇、皇后とは気持ちの通じるものがあったようだ。

 45年6月23日、侍従を退く小倉らを天皇、皇后は夕食に招いた。空襲警報下、小倉は天皇から直接聞いた最後の言葉を記した。「聖上には、自分の御生れ遊ばされてよりの御住居が、皆無くなつた、高輪、御誕生の青山御殿、霞関離宮、宮城と四つなくなつた。此処(ここ)だけ残つてゐる、と仰せあり」
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http://www.asahi.com/national/update/0309/TKY200703090033.html

昭和天皇の素直な想いを伝える貴重な資料です。まだ全文が発表されたわけではありませんが、新聞に掲載されただけでも、いずれも「さもありなん」というお言葉です。

昭和天皇は基本的には戦争に反対で、情報を正しく伝えてこない軍部に常に不満をお持ちでした。また、英王室との関係を悪化させ、自分の「花」であった欧州訪問の記憶を汚す三国同盟を進めた白鳥敏夫・イタリア大使にも不信感をいだいていました。そういう陛下は、A級戦犯の靖国合祀に強い違和感をいだいたのです。この点については「富田メモと昭和天皇」にも詳しく書きましたので、まだお読みでない方は読んで下されば幸いです。