平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(3)

2005年12月03日 | 三島由紀夫について
 三島によれば、戦後日本の文化は、死を忘れた文化です。『葉隠入門』(1967年、昭和42年)の中で三島はこう書いています。

********************
われわれは死を考えることがいやなのである。死から何か有効な成分を引き出して、それを自分に役立てようとすることがいやなのである。われわれは、明るい目標、前向きの目標、生の目標に対して、いつも目を向けていようとする。そして、死がわれわれの生活をじょじょにむしばんでいく力に対しては、なるたけふれないでいたいと思っている。このことは、合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ人間の目を向けさせるという機能を営みながら、かえって人間の死の問題を意識の表面から拭い去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ爆発力を内攻させたものに化してゆく過程を示している。死を意識の表へ連れ出すということこそ、精神衛生の大切な要素だということが閑却されているのである。
********************

 三島のこの批判は当たっています。死を忘れた文化は、平板で浅薄な現世主義に埋没します。その極致は、「稼ぐが勝ち」というホリエモン主義です。現代日本はまさに、この金銭万能の現世主義に染まっています。

 しかし、忘却された死は、消え去るわけではありません。人間はすべて死を定められた存在です。死から目をそらせていれば、それは「いよいよ危険な、いよいよ爆発力を内攻させた」ものとなって、社会に復讐します。現代社会が恐ろしい犯罪に満ちているのはそのためなのかもしれません。

 三島にとって、現代日本文化の死の忘却の対極に位置するのが、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という葉隠武士道でした。

********************
 われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ。しかし生の哲学だけでは、われわれは最終的に満足することはできなかった。また、仏教の教えるような輪廻転生の、永久に生へまたかえってくるような、やりきれない罪に汚染された哲学をも、われわれは親しく自分のものとすることができなかった。
 「葉隠」の死は、何か雲間の青空のようなふしぎな、すみやかな明るさを持っている。それは現代化された形では、戦争中のもっとも悲惨な攻撃方法と呼ぱれた、あの神風特攻隊のイメージと、ふしぎにも結合するものである。神風特攻隊は、もっとも非人間的な攻撃方法といわれ、戦後、それによって死んだ青年たちは、長らく犬死の汚名をこうむっていた。しかし、国のために確実な死へ向かって身を投げかけたその青年たちの精神は、それぞれの心の中に分け入れば、いろいろな悩みや苦しみがあったに相違ないが、日本の一つながりの伝統の中に置くときに、「葉隠」の明快な行動と死の理想に、もっとも完全に近づいている。
********************

 「われわれ」=近代日本人は、西洋から必ずしも「生の哲学」だけを学んだわけではありません。明治以降に日本に再導入されたキリスト教は、死に対する新しい見方を教えてくれましたし、三島が生きていたころ流行していた実存哲学も、一種の死の哲学です。

 したがって、「われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ。しかし生の哲学だけでは、われわれは最終的に満足することはできなかった」と言っている「われわれ」とは、日本人一般というよりも、三島自身にほかなりません。

 「仏教の教えるような輪廻転生の、永久に生へまたかえってくるような、やりきれない罪に汚染された哲学をも、われわれは親しく自分のものとすることができなかった」という主張も、一般化することはできないでしょう。なぜなら、仏教が明治近代にいたるまで、日本人の精神生活を長らく支配していたことは、否定できない事実であるからです。そして、仏教を「やりきれない罪に汚染された哲学」とする見方も、仏教に対する一面的な見方と言わざるをえません。ですから、仏教を「親しく自分のものとすることができなかった」のも、やはり三島自身にほかなりません。

※その三島が最後の作『豊饒の海』で仏教的輪廻転生をテーマとしたのは、興味深い矛盾です。

 西欧哲学も仏教も受け入れることができない三島が選んだのが、葉隠武士道の死の哲学でした。そしてそれを彼は、「神風特攻隊」と結びつけ、特攻隊員の死を「日本の一つながりの伝統の中に置く」のです。

 すなわち、「合理主義的人文主義的思想」、私の言い方では「浅薄な現世主義」へのアンチテーゼとして彼は、葉隠的=神風特攻隊的な潔い死を称揚するのです。

※「人文主義」という語を、学習院高等科や東大でドイツ語を学び、ニーチェやヘルダーリンに親しんだ三島はおそらく、そのドイツ語の原語「Humanismus」を意識して使っています。これは、ルネッサンス期のギリシャ・ローマ文化の再興(いわゆる「人文主義」)、ギリシャ・ローマ文化を範とした古典語教育、そして人間(中心)主義、さらには人道主義といういくつかの意味がありますが、三島は「人間中心主義」というニュアンスを込めて使っていることは確実です。

 「合理主義的人文主義的思想」に対する三島の批判それ自体はたしかに正当なものですが、しかし、それに対する彼の対案に私は同意することはできません。私が見るところ、彼の最大の過ちは、「死」の理解の浅さにあります。三島においては、個人の死はやはり、その先には無しか存在しない終局、行き止まりです。肉体の消滅を超える永遠の生命は存在しません。したがって、「死を意識の表へ連れ出す」としても、それは究極的には虚無主義(ニヒリズム)につながらざるをえないものなのです。この点において彼は、彼が批判する西欧近代の人間観を抜け出ることはできなかったと言えます。

 死を虚無=無意味さから救う手だてとして、彼は二つの道を考えます。その一つは、「日本の一つながりの伝統」への復帰です。個人の死が、たとえそれ自体としては無への消滅にすぎなくとも、それが「日本の一つながりの伝統」の中に置かれたとき、それは大きな全体に包摂され、その中で意味と居場所を見出すことになるでしょう。特攻隊員の死は、そのようにしてのみ名誉回復されるでしょう。ここに、彼が天皇制に体現される日本の伝統に回帰する必然性が生じてきます。

 次に彼は、生の終わりとしての死をできるかぎり荘厳に飾ろうとします。死は、武士の切腹のような潔い死、特攻隊員の華々しい「散華」であってこそ、美しい出来事となりうるのです。それは有限な生を輝かせる最後の美しい燃焼です。そして、それがさらに「エロス」と結びつくことができれば、「至福」であるというのです。

 しかし、エロス(性の衝動)とタナトス(死の衝動)の融合に「至福」を見るこのような観念は、はたして日本人の死生観の正しい理解なのでしょうか? ここに私はむしろ、三島のあまりにも西欧的な美学を感じてしまいます。

三島由紀夫と2・26事件(2)

2005年11月29日 | 三島由紀夫について
 『憂国』は、2・26事件に際して、武山信二という中尉が、反乱軍と鎮圧軍が「皇軍相撃」の事態になり、自分も友を殺さざるをえなくなることを潔しとせず、割腹自殺をとげる、という内容です。

 しかし、この作品は2・26事件そのものを描いたものではなく、筋らしい筋もありません。武山とその新妻の交情場面と、武山の切腹の場面が生々しく描かれるだけです。

 この武山には具体的なモデルがあります。2・26事件当時の新聞には、輜重兵中尉青島健吉が割腹自殺をし、その妻もまた後追い自殺をしたというが記事が出ました。また、岡沢謙吉という軍曹が、反乱軍の中に自分の恩師がいるので、心苦しく思い、拳銃自殺をした、という記事もありました(松本清張著『二・二六事件』)。三島はこの二人を合体させて、武山という人物像を創りあげたものと思われます。

 三島はとくに青山の切腹に関心をもち、彼の検死をした医師に細かい状況を尋ね、それを作品中に利用していると言われています。切腹の場面描写が非常にリアルなのもそのためでしょう。この場面を読んで、私は気分が悪くなりました。こういう記述をする三島は、かなりマニアックな性格であると言えるでしょう。

 2・26事件においては、反乱軍が帰順したことによって、実際には「皇軍相撃」という事態は起こりませんでした。そのことを知らず、事件収拾の前夜に割腹自殺した武山中尉は、ひたすら生きることを尊しとする人命尊重の立場から見れば、死を早まった愚か者ということになります。しかし、三島の評価はまったく逆です。

********************
『憂国』は、物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず、それならそれで、私は小説家として、『憂国』一編を書きえたことを以て、満足すべきかもしれない。かつて私は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いたことがあるが、この気持には今も変わりはない。(新潮文庫版・解説、昭和43年9月)
********************

 三島は「エロスと大義との完全な融合と相乗作用」と書いていますが、「大義」の中には「死」も含まれています。

 『憂国』は、エロスと死を融合させる三島美学の極致だと言えるでしょう。このような美学がどこから生じてきたのか――ここでは、それは三島自身の個性ということにしておきますが(その背後にはおそらく彼の特殊な生い立ち、とくに過干渉の祖母の存在があったと思いますが、ここではそこまで立ち入る余裕はありません)、彼はその美学を山本常朝の『葉隠』に見出しています。

三島由紀夫と2・26事件(1)

2005年11月28日 | 三島由紀夫について
 2・26事件というのは、1936年(昭和11年)2月26日に起こった皇道派青年将校らによるクーデター事件です。

 その当時、陸軍の中には、対外問題(満州問題、対米英問題)と国内問題(貧富の差の拡大、とくに農村の疲弊)をめぐって、統制派と皇道派と呼ばれる二つの派の対立がありました。統制派(軍幕僚ら)は、官界・財界と連携しながら、軍主導による国家改造を目指しましたが、皇道派(主として青年将校)は、官界・財界と天皇取り巻きの重臣らこそが腐敗の元凶であるとして、既存支配体制を打倒し、天皇親政の「昭和維新」を目指しました。皇道派の理論的背景は北一輝の『日本改造法案大綱』だと言われています。

 昭和天皇はこのクーデターに激怒し、クーデター軍を反乱軍と見なし、鎮圧を命じます。結局、クーデター軍は天皇に否認され、2・26事件は失敗に終わり、首謀者らは非公開の軍事裁判で極刑に処せられます。しかし、この事件をきっかけに、軍部の政治介入がいっそう強まり、議会制民主主義は完全に息の根を止められ、日本は戦争に突入していくことになります。

 三島由紀夫は2・26事件に関心をもち、この事件に関係した作品を数篇書いています。彼は1966年(昭和41年)に、『英霊の声』、『憂国』、『十日の菊』という、2・26事件関係の3篇を合わせた本を河出書房から出していますが、この本は今年、河出文庫版『オリジナル版・英霊の声』として刊行されました。

 この本に三島は、「二・二六事件と私」という解説文をつけています。

 これを読むと、2・26事件が起きたとき、三島は11歳で、学習院初等科の生徒でした。彼は子供心に、蹶起将校らを「英雄」として憧れ見ていたようです。

 ちなみに、三島は大正14年=1925年生まれで、彼の年齢は昭和の年号と同じになります。まさに昭和とともに生きた作家でしたが、あとでも述べるように、彼における最大の問題は昭和天皇その人であったのです。

 文学者になってからも、彼は2・26事件に関心をもちつづけ、ときどき関係文献に目を通していたようです。その彼がこの事件と本格的に取り組むようになったのは、4部作の長編『豊饒の海』を書き始めたときだと、「二・二六事件と私」(1966年)に書いています。

********************
たまたま昨年〔1965年、昭和40年〕からかかった四巻ものの長篇の、第一巻を書いているうちに、来年からとりかかる第二巻の取材をはじめた。たわやめぶりの第一巻「春の雪」と対蹠的に、第二巻「奔馬」は、ますらおぶりの小説になるべきものであり、昭和十年までの国家主義運動を扱う筈であった。それらの文献を渉猟するうち、その小説では扱われない二・二六事件やさらに特攻隊の問題は、適当な遠近法を得て、いよいよ鮮明に目に映ってきていた。
********************

 しかし、彼の2・26事件関係の最初の本格的作品である『憂国』は、それ以前の1960年に書かれています。戯曲『十日の菊』は1961年の作です。『英霊の声』は1966年です。

三島由紀夫の割腹事件(3)

2005年11月26日 | 三島由紀夫について
瀬戸内 あれが掲載された『文藝』の編集長の寺田博さんも、当時、「原稿をもらって怖かった」と言ってましたよ。三島さんは、寺田さんにも、やはり「何かがのり移って、自分じゃないものが書いた」って言ったそうですよ。

美輪 三島さんが亡くなった後、お母さんが、「公威さんが公威さんじゃなくなったのは、『英霊の声』あたりからです」と、おっしゃったの。私が霊視したときのことはご存じないのに、偉大な母性本能の直観でわかったんですよ。

※三島由紀夫(ペンネーム)の本名は、平岡公威(ひらおか・きみたけ)。

瀬戸内 でも、三島さんは美輪さんが霊視なさったことは信じたんでしょ?

美輪 いや、そのときは半信半疑だったんじゃないですか。私が、「これは大変なことになるからお祓いしましょう。でも、これをとるのはもの凄い霊能力が必要ですよ」と言うと、その席にいた女優の村松英子なんか、「丸山さん――当時、私は丸山だったから――、なんとかしてあげて。三島さんにへんなことがあったら大変だから」と泣きだしちゃった。けれど、奥さんの瑤子さんに「冗談じゃない。そんなお祓いなんかされたら、『楯の会』も解散することになるかもしれない。制服もつくったばっかりでお金もかかっているのよ」と冗談にされてしまったの。で、私もしょうがないなと思ったから、「そうですね、余計なお世話ですね」と、それ以上は言いませんでした。

瀬戸内 そのとき、楯の会を解散してたらよかったのにね。

美輪 でも、私、気になったから、三島さんのところに何度も電話をするわけ。それまで通じないことはなかったのに、全然通じないの。で、「三島さんが、ずいぶん、丸山さんのところに電話しているらしいよ」ということを共通の友達から聞いたのに、その電話は一度も私には通じなかったんです。

 そして、結局、会ったのは一年後。三島さんが死ぬことを覚悟して、最後の別れに日劇に見えたときでした。結局、悪霊のほうが強かったんですよ。私の力が足りなかったんですね、あのとき。

瀬戸内 一緒に亡くなった森田という人には悪霊は憑いてなかったんですか。

美輪 憑いてなかった。森田さんは、前世で三島さんとやはり因縁があった人なんでしょうね。霊というのは、三島さんみたいに純粋な人に取り憑きやすいのね。あの人とずっとつき合っていて感じたのは、本当に純粋で、幼な児みたいな魂の持ち主だってことなんです。
********************

 この本では、美輪明宏さんは、ほかにも三島由紀夫のエピソードをたくさん語っています。美輪さんが三島由紀夫を心から敬愛していたことがうかがわれます。

 美輪さんが霊視した「磯部」というのは、2・26事件の首謀者の一人で、死刑になった磯部浅一(いそべ・あさいち)という人です。以下では、三島由紀夫と2・26事件の関係を簡単に述べてみます。

三島由紀夫の割腹事件(2)

2005年11月25日 | 三島由紀夫について
 事件のあと、週刊誌には、三島の背後に悪霊がついていた、という記事が出ました。五井先生のお話を聞いていた私は、好奇心に駆られて週刊誌を買って読みましたが、古雑誌は今ではもう捨ててしまいました。

 週刊誌でそういうことを語っていたのは、俳優の美輪(丸山)明宏さんです。美輪さんは霊能者で、ときどき霊も見えるということです。

 美輪さんと瀬戸内寂聴さんの対談『ぴんぽんぱん ふたり話』(集英社)に、三島由紀夫事件のことが語られています。その当時、週刊誌に出ていたのと同じ内容です。以下では本から該当箇所を引用してみます。(107~113頁)

********************
瀬戸内 三島さんは、霊的なものは信じた方なんですか。

美輪 初めは信じなかったから、私の言うことは聞いてくれなかったんです。鼻で笑ってました。

 実は、亡くなる一年ほど前のお正月に三島さんの家に行ったときに、天草四郎の霊を霊媒で呼び出したときのテープを持っていったんです。それを聞かせてもまるっきり信じなかったんだけれど、そのとき、三島さんが私をからかい気味に「この中の誰かになにか憑いているのがいるか?」とおっしゃったの。で、私はぐるりと見回して、「あなた」と言ったら、冗談だと思ったらしく、「うわあ、おっかねえ、おっかねえ」と。「じゃあ、どんなのが憑いてるんだ、おれには」と笑ったんです。

 私には三島さんに、戦時中の憲兵みたいな格好している男が憑いているのが見えたんです。カーキ色の服を着て、帽子をかぶっていた。三島さんに「思い当たる節はない?」と聞いたら、「ある」と。「思い当たる人をあげて」と言うと、三島さんは、小林、甘粕と名前をあげたけれど、磯部と言ったときに、その男の姿がパッと消えた。その人が憑いてたんですね。二・二六事件の反乱軍の将校の一人で、天を恨み、国を恨み、親を恨みと呪いに呪いまくった遺書が出てきた人だと言ってました。

 奥さんの瑤子さんが、「そういえば、この人、どんな長編を書いてもやつれることはなかったのに、『英霊の声』を書いたときに、書斎から出てきたら、幽霊みたいに痩せこけて大変だったのよ」と言ったんです。そしたら、三島さんも「おれも心当たりがある」と。

 あの人は、原稿は必ず夜中の十二時に書き始めて、少しでも眠くなれば、脇に置いてある長椅子に横になって、五分でも十分でも寝て、それから改めて書くようにしてたらしいの。眠気を催しながら書くことは、自分として許せなかったんですって。それが、『英霊の声』を書いてるとき、眠くて眠くてしょうがないのに筆だけが闊達に動いた、と。そして、自分の表現でも言葉でも書体でもないから書き直そうとしても、絶対書き直せないある力が働いた」とおっしゃったの。

瀬戸内 磯部の霊というのはわかる感じがするわね。私は、『英霊の声』を読んだとき、なんかすごい迫力で、とても感動したんですよ。それで、三島さんに「今度の『英霊の声』もすごい」とファンレターを出したの。そうしたら、三島さんが、「ほんとうに自分じゃないような力がのり移って書いた。瀬戸内さんはひいきの引き倒しだ」と、そうおっしゃいました。

美輪 不本意だったんですね。自分は推敲して書き直したいと思っているんだけれども、それをさせない力が働いた。

(引用つづく)

三島由紀夫の割腹事件(1)

2005年11月23日 | 三島由紀夫について
 昨日11月22日は、私の師である五井昌久先生(大正5年=1916年生まれ)の89歳の誕生日です。

 五井先生のご生前は、11月23日(祭日)に、市川市中国分にあった聖ヶ丘道場で、五井先生のお誕生祭が開かれたものです。その五井先生が昭和55年(1980年)8月17日に肉体界を離れてから、もう25年です。本当に月日の流れるのは速いものです。

 ところで、三島由紀夫が東京市谷の自衛隊駐屯地に乗り込み、自衛隊員にクーデターへの決起を促し、割腹自殺をとげたのは、昭和45年(1970年)11月25日、五井先生のお誕生祭の直後でした。今度の25日で事件から35周年となります。三島由紀夫は今でも右翼の人々の間には、愛国者として絶大な人気があります。11月25日は「憂国忌」として毎年、記念行事が行なわれています。

 私は事件の日のことをよく覚えています。

 この日は東京都内のある会館で白光の集会がありました。講師はSさんという方でした。Sさんはもとはお坊さんでしたが、僧侶をやめて白光の職員になっていました。仏教の造詣の深い理論派の講師でした。

 私が会場に少し早めに着くと、まだあまり人気のない和室でSさんは夕刊紙を床に広げて読んでいました。私の顔を見ると、「今日、三島由紀夫が自殺したんですよ」とSさんは言いました。私はその夕刊紙を見せてもらい、彼の割腹自殺を知り、驚きました。

 著名な作家で、ノーベル文学賞の候補にもなっていた三島由紀夫が、自衛隊に乗り込み、切腹をし、介錯を受けて首を切られたという猟奇的事件に、日本中が驚愕しました。

 次の聖ヶ丘統一会のとき、さっそく五井先生に対してこの事件について質問が向けられました。その当時、五井先生は、「何か質問はありませんか」と会場から質問を受け、それに答えるという形で講話会を進めていました。五井先生のお答えは、当時の私には驚くべきものでした。

「これは自殺ではありません。いわば他殺ですね。三島由紀夫の背後にある霊がとりついていて、その霊が彼に割腹自殺させたんです。切腹というのは、普通、腹を横に切るんですよ。しかし、三島由紀夫は、横に切ったあと、さらに下から上に縦にも切っていますね。そんなこと、苦しくて普通では絶対にできません。ものすごい力です。じゃあ、なぜそんなことをしたのかというと、自分の力じゃないんです。彼の背後にいた霊が切腹したくてしかたなかったんです。その霊は二二六事件のとき、恨みを残して死んだのだけれど、いさぎよく割腹自殺できなかったんです。それで、三島の肉体を借りてその思いを遂げたんです。だから、これは自殺じゃない、と私は言うんです。皆さんは、そういうよこしまな霊にとりつかれないように、いつでも守護霊・守護神に感謝し、世界平和の祈りを祈ることが大切ですね」

というようなお話でした。

 五井先生の本願は、人間の本心開発、霊性の開発であり、憑依などの霊的現象については、めったに具体的なお話はなさらなかったので、この話は強く印象に残りました。