∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その7)

2006-07-23 15:31:55 | C-3 >山川山形水野

                                                      家臣への申渡書


水野三郎右衛門元宣(その7)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版――
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。

12.下司等へ訓戒
 三郎右衛門は、すでに自ら決断し断罪の命令を待つのみではあったが、藩主へ嘆願書を差し出すと共に、家臣天野友十郎および谷孫兵衛の両人に対し、次のように文書で訓戒するといったことは、誠に用意周到を極めたと言うべきである。

          友十郎
          孫兵衛
今般降服謝罪の儀に付官軍参
謀へ嘆願書差出御聞届には相成
候得共 主裁の者厳敷謹慎能在
候様御達有之候に付 東京へ石原平治右衛門
殿被相越 委細
両殿様へ被奉言上候處 山形表
御城邑保全の段は至極
御満悦被遊差急の場合一同
如何にも心労可有之儀との
御意難有仕合奉存候次第に候 乍去
両殿様には當夏以来
御上京
専ら 王事に御勤労被遊候折柄 別而
尊王の道相守候外は無之候處山
形表假令奥羽各藩に随従候儀
とは乍申抗 官軍候段第一奉對
天朝候大罪處遁無之候且は
両殿様の 思召にも相悖り重々
奉恐入候次第に付今度席一同より尚又
両殿様へ奉嘆訴候得共元宣儀は
素より順逆を誤り候主裁の儀に付
御本領御安堵は申迄も無之 御家
中一同の罪元宣一身に引受別
紙の通り嘆訴差出
御所置奉待候儀に候間此儘出勤
罷在候も恐入候儀に付疾病と號し
引込候譯に候間此段厚く相心得罷在
候様可致候事
 辰十月廿九日 元宣

 元宣が藩主に差し出した「全く順逆を誤り候云々」の嘆願書は、まるで予期したかのように、敢然とその責任を一身に担った元宣の高潔悲壮な心境を、最も端的に表明したものであるが、更に彼が家臣に示した前文では、こうこうと明るく光り輝く心情を、すべて打ち明けられており、ざっと一読するには耐え難いものがある。


13.断罪の命令
 奥羽諸藩の降服と共に、明治新政府の第一年(1868)は終わったが、その暮れ十二月に、新政府は奥羽出羽の分国を断行し、陸奥を五カ国、出羽を二カ国に分割した。明けて明治二年(1869)となったが、未だ奥羽諸藩に対する採決は下らない。これは幕臣等が北海道に渡り、帝王の軍隊に抵抗して戦争の起こりそうな気配があるからである。梅は咲き、櫻も咲き春風ものどかな季節は空しく過ぎて、ホトトギスが鳴く五月となり、十四日に軍務官は奥羽各藩の官軍に抵抗した主裁者を刑に処した。三郎右衛門に対しては、藩主から家臣を遣わして命を伝えられたが、その使命を帯びて帰国した者は、大目付谷四方之助、目付代杉彌太八、先手頭松野尾政右衛門、御徒席小普請山碇などであり、山形に着いたのは十九日であった。直ぐに参殿し執政友松彌五左衛門等に藩主の命を伝えた。この日から三郎右衛門の邸宅は組子(*2)の者が見張りをすることとなった。既に東京から役人等が帰国したと聞くと、三郎右衛門の処刑は必定と、親族達の心痛はひととおりでなく、谷等を訪ねて事情を聞こうとしたが、一切の面会を拒絶された。親戚の水野好太郎が三郎右衛門宅に行き、いよいよ明二十日に処刑の申し渡しがあると伝え、処分は何かという話に、重くて切腹であると言えば、三郎右衛門は一藩のため切腹は致し方ないと答えた。これを聞いた妻や妹たちは涙を流して泣き、どうして良いか解らない状況にあったが、三郎右衛門の父元永は武士気質の人であり、母文子もまた本多岡崎侯の家臣松下久左衛門の二女に生まれ、武士道教育を受けており、少しも騒ぐ様子はなく、嫁や娘の泣くのを叱って、士の家に生まれて泣くなど余りにも女々しいことである。士が藩のために切腹を申し付けられるのは名誉なことであり、泣くには当たらないとキッパリとたしなめられたと言う。三郎右衛門は動揺せず声も震えなかったが、さすがに父母妻子に一生の別れと思えば、平常は酒を嗜まないが、父母と共に杯を傾けて後の事をよく解るように言い聞かせ夜が更けてから就寝した。


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=くみこ。鉄砲組・徒組(かちぐみ)などの組頭の下にある者。組衆。組下。組付き。


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