∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その8)

2006-07-25 19:09:31 | C-3 >山川山形水野

                       霞城公園整備計画鳥かん図(当記事の全写真提供:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん)


水野三郎右衛門元宣(その8)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版――
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。

14.三郎右衛門の処刑
 明けて明治二年(1869)五月二十日、三郎右衛門は朝早く起床し、いつものように口を漱ぎ顔を洗い、更に躰を清拭して神仏を拝み、両親に挨拶をし快く朝食を終えた。そして父母等と談話をしながら藩庁からの呼び出しを待っていたが、刻一刻と過ぎすでに正午近くになったが、未だ何らの沙汰がないことから、昼食を取り茶を飲み、家族が涙するのに反して、平常と同様に父元永と話し、一子龜太郎に新調の紋付を着せ、抱いて庭園に降り、頬ずりして愛しつつ池の辺をそぞろ歩きしていた。午後二時頃になって親戚の水野新兵衛、水野好太郎の両人がやって来て、当番老友松彌五左衛門から御用によって、只今から同道して新御殿へ参上するようにとの達しがあったと伝えられた。三郎右衛門は父母および一族家来達にねんごろに、今日はいよいよ天の裁きによるご処置を与えられたので、後の事を託し、なお三郎右衛門に対する処置が如何なるものであっても、
命令に対してつつしみ従い、動揺するではないと戒めた。白装束に無紋の上下を着けて(*2)、両人が同道し午後四時前に参殿しひとまず控室に入った。水野新兵衛から当番老に、この先どうしたら良いのか御意向を承りたいと伝えたところ、大目付落合彌左右衛門、御目付値賀又蔵に同道して当番所列席申渡席に出頭したが、藩老足利山海郎から「思し召しがあり、官位・格式・領地・俸給などを剥奪する。水野藤五へお預けの身となったので確実に謹慎するよう」にとお達しがあった。こうして元の控室に退いたところ、新兵衛、好太郎の両人に対し、もはや付添いには及ばないとのお達しがあった。これに換わって御中小姓野田次郎右衛門、木村一郎、田島武の三人が付添いとなり、大目付落合彌左右衛門から、三郎右衛門の大刀小刀懐中物などを受け取るようにと御指図があったと伝えた。その後この席において落合彌左右衛門から次のように申し渡された。

                     水野三郎右衛門[に対し]
 去る十四日、東京の軍務副知事久我大納言様から次の通り仰せがあった。

                     水 野 和 泉 守[副知事からの命令]
昨年十二月、罪状のお取調願状を差出した、反逆首謀者水野三郎右衛門に対し、この度、刎首(*3)を仰せつけるので、その方[和泉守]が処置いたすがよかろう。
この趣意を謹んで履行せよ。
    五月

 三郎右衛門は、すでに一身をもって犠牲となることを覚悟していたことで、死罪を確信しており、しかも必ず切腹であると心に決めていたのにも拘わらず、刎首の刑に処せられるとは、少々意外の感があったものと思われる。しかしながら、天罰は致し方ないとし、何事も言わず謹んで了承した。その後、新御殿中の口までは野田治郎右衛門等三人が付添ったが、同所からは怪しげな垂駕籠に乗せられ、御先手頭松野尾政右衛門が騎馬で駕籠に添い、新御殿から自邸前を過ぎて七日町口(*4)に出、さらに南下し東に元三日町を経て長源寺町に出て、長源寺に入り寺門を閉ざして御先手組がこれを警衛し刑場は庭の池に面したところに畳四五枚を敷き、これを白布で覆い四方に幕を張った。検視は大目付谷四方之助、御目付代杉彌太の両人および御先手頭松野尾政右衛門で、御徒席小普請山碇が刀を執り、三郎右衛門は少しも動じることなく刑を受けた。享年二十七歳であった。その後、長源寺住職官に請うて死体を寺中に埋葬した。諡(おくりな)は「自性院無外宗本居士」という。因みに当時の記録に次のようにあるので抄録する。

 (前略)右卒而御中の口迄附添 前以垂駕籠取寄置 右に乗せ錠前歩横目庄田太平次爲卸之 御先手頭松野尾政右衛門江両人より引渡之 途中辻々爲固 假歩横目郡組へ申付之上途中政右衛門一小隊警固の由
一、於長源寺三郎右衛門刎首有之申の下刻無別條相済候由
一、山碇太刀取被仰付無別條相済候旨申出候(下略)

 なお三郎右衛門の処刑とともに、屋敷及び家財等の没収を仰せつけられたと水野新兵衛、水野好太郎にお達しがあった。午後八時過ぎ御目付齊藤多輔、値賀又蔵が来て一切を没収した。家族一同はその日の夜更けに水野籐五宅へお預けとなり、家臣天野友十郎、谷孫兵衛もそれぞれお預けとなったが、没収された家財の取調は次のようであった。

   覚
一、お墨附        六通
一、鑓(やり)       一本
一、具足櫃(ぐそくひつ)  一個
   内 兜、胴、面頬(めんぼう)、袖、籠手、佩楯(はいだて)、臑當、差物竿 三本、
   笠印 一、袖印 一
一、掛物         一幅
一、煙草盆  一
一、行燈  一張 
一、油壺         一ツ
一、釜          一ツ



◎第二回 郷土と歴史講座テキスト「山形水野藩家老 水野三郎右衛門元宣」に元宣の処刑をめぐっての短い紹介文が、川瀬同氏によって引用されているので抄録編集する。

§1.元宣の処刑に致る背景
1.先述のとおり、山形藩は周囲に仙台・庄内・米沢の大藩が控えており、山形の城邑(*5)を保つことに腐心していた。これに加え藩主父子は京に上っており、連絡はつかず君主の意思の疎通はままならなかった。このことは、後に奥羽列藩同盟が成立すると、山形藩はいつ官軍に寝返るかと疑いを受ける要因にもなったのである。
 また山形は東北地方の東西・南北の交通の結節点にあたり、人の往来や軍隊の移動などが多く、これにに伴う応接も大きな負担であった。庄内藩との戦いにより、近在の天童・長瀞・新庄藩は戦火に焼かれたが、三郎右衛門は戦争の犠牲者を最小限に止め、藩主の最大の願いである城邑を兵火から護ったのである。こういった功績がありながらも、自らは反逆首謀者として刎首の刑を甘受し処刑された。
§2.処刑と藩の人々の行為
 処刑当日は、元宣が刑場の長源寺送られる道筋の人々は、店を閉ざし家業を休み、屋内で謹慎哀悼の意を表したという。また処刑後の家財没収の時は大勢の人が自発的に手伝い、中村喜兵衛はそれらの人々に夕食の炊き出しをしたと伝えられる。
埋葬後は、土饅頭に自然石を載せただけの粗末な墳墓であったが、三回忌か七回忌の時、人知れず一夜にして現在の墓石を建てた者が居るという。
明治二年(1869)六月十六日、藩では――
「天裁刎首被仰付候水野三郎右衛門屍、長源寺境内埋有之、御家中之士軽参詣致候者無之筈ニ候得共、相心得違有之候而ハ、奉対天朝恐入候儀ニ付、心得違無之様可被候事」
と家中に触れを出している。これは見つからないようにやれ、といっているようにもとれるが、これはへそ曲がりの深読みであろうか。とにかくもお触れを出すほどに参詣者が多かったのであろう。


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2= [著者の説明挿入]御用によって云々は、死刑の宣告とは誰も予期しないところであり、罪状決定前に死装束をして参殿する事はあろうはずはなく、また参殿列席に着いた事から見れば、後記の「元永日記」のように、羽織袴で参殿しなければならない。
*3=ふんしゅ。首をはねる刑。打ち首。
*4=[著者の説明挿入]自邸は新御殿の北にあって、北玄関は元[著述時は現]刑務所北側の煉瓦塀の少し北側にある通路に面しており七日口に出ることから、その前を通るはずはなく、また七日町口は大手に通じる道路であるから、この所から死刑囚を護送する事はない。元永日記に[三の丸]鍄口(きょうぐち)から出るとあるのを見れば[二の丸東大手門の]新御殿から少し西に進み馬場の西の道路を北上し、右折して自邸の前を通り北の鍄口に出たというのを真実とすべきであろうか。
*5=じょうゆう。城壁に囲まれた町。



     三郎右衛門が処刑地の長源寺へ護送される道程の想像図




                 三郎右衛門宅址



                  終焉の地



                  三郎右衛門の墓




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