∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

C-7 >河和城址/水野屋敷(追補版)

2006-05-28 06:44:54 | C-7 >河和水野


河和城址/水野屋敷
  愛知県知多郡美浜町大字河和字西谷/美浜町大字北方字十二谷
                  Visit :2005-05-30 15:00

 十四世紀の中頃、三河守護の一色氏が知多半島へ進出し、この地の実権を握る。しかし一色氏の支配も「応仁(応仁・文明)の乱(応仁元年(1467))」の頃になると、一族が戦う羽目となり自滅した。そして一色氏に代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官(律令制下、上級官庁に直属する下級官吏)であった佐治氏と、田原(田原市)城主の戸田宗光であった。佐治氏は大野(常滑市)・内海(知多郡南知多町)を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は知多半島最南端の幡頭崎(知多郡南知多町師崎)に陣代を置き、半島東海岸の河和(知多郡美浜町)・富貴(知多郡武豊町)に砦を築き領有した。明応九年(1500年)、その子憲光の時には、幡頭明神の社を建立し、その後、河和・富貴の外に布土(ふっと=知多郡美浜町)と陣代のある師崎に砦を築いた。永正六年(1509)、家督を憲光の子政光に譲り、河和城に移り住み、「河和殿」と称し、三河湾の制海権を握った。
 この佐治・戸田両氏を脅かしたのは緒川(知多郡東浦町)の水野氏である。水野氏は、緒川に城を築き刈谷(刈谷市)にも進出していたが、水野信元(*1)の代になると織田氏と手を結び、知多半島を破竹の勢いで南進して佐治・戸田氏と戦った。勢いに押された戸田氏は戦いに敗れ、富貴・布土・北方(知多郡美浜町)を失い半島における戸田氏の勢力が衰退し、さらに天文十六年(1547)、政光の子である田原城主戸田宗光は、岡崎の松平氏から駿河の今川義元のもとへ人質として送られる竹千代(家康)を強奪するという事件を起こしたことで、今川氏に攻め滅ぼされ討死する。この危機的状況を脱するため、知多半島の戸田氏は信元と講和を結び河和を残すことを図る。そこで河和城主戸田孫八郎守光は、信元の娘妙源を妻にめとり婿となって水野氏の一族に連なった。ところが、その二年後の天正十八年(1590)、戸田孫八郎は豊臣秀吉の小田原攻めに加わり陣中で敢えなく討ち死にした。この知らせを聞いた河和の郷民は、不可思議なことに大いに混乱を起こし、河和城を破壊してしまった。これを憂慮し、孫八郎の嫡子万千代(光康)は、一時、野間大坊(知多郡美浜町野間)に身を潜めた後、河和の地を逃れ母妙源尼と供に江戸表へ赴き、妙源尼の叔母である伝通院(家康の母於大の方)のもとで成長する。慶長二年(1597)、家康の意向により、外祖父水野信元の名跡を継ぎ、水野万千代となり武蔵国で七百石を給付される(*2)。 その後、母妙源尼は万千代に旧領の内、恩のある河和の地を下し賜るよう家康に度々願い出る。家康は万千代が河和の民に追い出された経緯を考慮し、代わりに三州刈谷を与えると勧めたが、妙源尼は河和に固執したことで、家康はこれを聞き届け、河和の郷千四百六十石を給付された。こうして、水野惣右衛門光康は、ようやく帰郷が叶い、河和の地頭となり、河和水野始祖と称されるようになった。当時、知多郡は家康の直轄領となっており、水野光康は、やがて尾張藩主となった徳川義直に仕え、河和水野氏は代々尾張藩に仕える武士の家系として、河和の地を治めていくことになる。

河和城址は、永正六年(1509)、家督を憲光の子政光に譲った戸田宗光が、河和に移り住み、小山頂上(美浜町大字河和字西谷)に築城したものであり、現在も遺構がよく残されているといわれている。江戸時代に入り合戦が無くなると、領主屋敷を名古屋城下と河和に構えた。河和屋敷については、詳しい資料は残っていないので、実際にはどのような建物があったのかよくわかっていないが、天保十二年(1841)の河和村絵図によると現在の河和橋(知多郡美浜町河和北屋敷)から国道沿いに南下した河和天神社へ至る辺りに約五千坪(16,500平方メートル)の屋敷地があったようで、水野家の屋敷は、その中ほどに位置し代々この地に建てられていたものと思われる。この水野氏の屋敷は、旧河和村では、俗に「お屋敷」と呼ばれ古くから慕われていたようだ。
残存していた建物の建築年は、棟礼によると安政二年(1855)九月とあり、明治になって増築がなされている。現在該当地から離れた美浜町北方十二谷に「水野屋敷記念館」として旧屋敷の天井板などを再利用し建物の一部が復元されている。今回復元された建物は、家屋の西半分であり、東側には畳間と板間が六部屋あり、西の居間全体とは縁側でつながっている。屋敷の周りは、土塀で囲まれていて東に門がある。門の形は残存する図面からは判明しないが、おそらく武家の格式からみて長屋門(重厚で高い風格を宿した門)であろう。さらにこの門を挟むようにして、両側に門番が住む長屋が建っており、庭には、松や槇の大木がそびえ、地頭屋敷にふさわしい豪壮な構えであったろうと、その面影が偲ばれる。一方、名古屋城下の屋敷の図面は残存しているものの、惜しくも第二次世界大戦の空襲により屋敷は焼失してしまった。
水野家御系譜には、「慶長十六年(1611)四月二十三日、権現様(徳川家康)河和屋敷へ成らせられ光康母妙源共御目見」とある。また「寛永七年(1630)二月、源敬様(尾張藩主初代義直)河和屋敷へ御成」とあり、酒肴で持て成している。その後は、尾張藩主の代替わりには、「知多郡御廻り」として慣例となり、新藩主はその都度河和屋敷へ立ち寄り当主と懇談している。こうした経緯から考えて河和の水野氏は家康公以来、尾張藩の中では、由緒のある家柄として特別な扱いを受けていたことは確かである。
     ――美浜町ホームページ/東浦町誌等を参照――

[註]
*1=天文十二年(1543)七月、父忠政の後を継ぐ。およそ二十四万石。大高・常滑・奥田等六城を兼領する。天正三年(1575)十二月二十七日、信元が武田方の岩村城に食物を送ったという讒言(『武徳編年集成』)や、佐久間信盛の讒言(寛政譜の水野系図)を口実に、織田信長が徳川家康に命じて、信元と養子の元茂を殺害した。

*2=領知宛行状
 武蔵国足立郡大門郷七百石之事、右所宛行不可在相違者守
 此旨可抽勤切之状(仍)如軒
               水野万千代殿
 武蔵国足立郡大門郷で七百石の領知を与えるという知行宛行状である。万千代は、知多郡河和城主戸田孫右衛門繁光の子水野孫八郎守光の子光康である。士林訴(第七七)によれば、幼少の時母妙源尼とともに河和を出て江戸に行き、徳川家康に仕えた。そして、外戚の姓である水野名乗ることを命ぜられ、この知行宛行状を直筆で与えられる。光康は後、徳川義直に付属し、旧領地河和千四百石を与えられ在村することを許される。 


歴代河和水野家
光康 ━ 政康 ━ 伊頼 ┳ 康寛 = 康村 ━ 康友 ━ 康般 ━ 康民 ━ 康功 ━ 康年
_____________________________┗ 助之進━┛三代伊頼の二男助之進の子で伯父康寛の養子


歴代河和水野領主詳細
初代 水野光康(惣右衛門)
 ・ 河和に出生、幼年母と江戸に住む。
 ・ 慶長二年(1597)、武州足立郡大門郷七百石。
 ・ 同年上意にて水野下野守信元の名跡を継ぎ、戸田姓を外戚の姓水野に改める。
 ・ 慶長六年(1601)、河和郷千四百六十石。
 ・ 慶長十六年(1611)四月、権現様(家康公)河和屋敷へ御成。
 ・ 寛永七年(1630)三月、源敬様(初代藩主徳川義直)河和屋敷へ御成。
二代 水野政康(孫太夫)
 ・ 慶安元年(1648)、父の家督を継ぐ。
 ・ 万治三年(1660)三月、瑞竜院(二代藩主徳川光友)河和屋敷へ御成。
三代 水野伊頼(忠左衛門/助左右衛門)
 ・ 寛文二年(1662)二月、父の家督を継ぐ。普請組寄合。
 ・ 延宝二年(1674)三月、御番頭。
 ・ 同年七月十日、泰心院様(三代藩主徳川綱誠)河和屋敷へ御成。
四代 水野康寛(惣右衛門)
 ・ 父の家督を継ぐ。
 ・ 天和二年(1682)十二月、御番頭。
 ・ 宝永四年(1707)三月、大寄合。
 ・ 同六年九月二十二日、円覚院様(四代藩主徳川吉道)河和屋敷へ御成。
五代 水野康村(内蔵助)=三代伊頼の二男助之進の子で伯父康寛の養子
 ・ 享保十六年(1731)十二月、養父の家督を継ぐ。普請組寄合。
 ・ 同十七年六月、御番頭
 ・ 同十八年十一月五日、章善院様(七代藩主徳川宗春)河和屋敷へ御成。
 ・ 延享元年(1744)八月、御部屋(宗睦卿)御傳
六代 水野康友(惣右衛門)
 ・ 延享三年(1746)七月、父の家督を継ぐ。普請組大寄合。
 ・ 宝暦十三年(1763)三月、御番頭。
 ・ 安永四年(1775)八月二十七日、源明様(九代藩主徳川宗睦)河和屋敷へ御成。
七代 水野康般(助之進)
 ・ 天明元年(1781)十二月、御側詰。
 ・ 同八年十一月、父の家督を継ぐ、普請組寄合。
八代 水野康民(内蔵)
 ・ 寛政二年(1790)八月、父の家督を継ぐ。普請組寄合。
 ・ 文化十年(1813)、仙洞(後桜町上皇)崩御に付江戸表へ御使。
 ・ 文政四年(1821)一月、大御番頭。
九代 水野康功(惣右衛門)
 ・ 天保九年(1838)十二月、父の家督を継ぐ。大番頭格寄合。
 ・ 同十四年六月、御用人。
 ・ 嘉永元年(1848)十一月、御側懸り。大奥入御免。
 ・ 安政二年(1855)二月、御側大寄合。
十代 水野康年(内蔵)
 ・ 安政六年(1859)父の家督を継ぐ。大寄合。
 ・ 元治元年(1864)九月、父に家督を返す。
 ・ 慶応四年(1868)再度父の家督を継ぐ。大寄合。御用人。


☆旅硯青鷺日記

 河和城址は、美浜町役場の南で、知多厚生病院の東にある小高い山の上にある。城郭全体は人が通れる隙間もないほどに竹藪が生い茂り険しい崖となっている。北側に城郭の説明板があるが悪戯され傷ついていた。そこから坂道を辿り東側に出たが、東の登城口は崩落しており通行止めとなっていた。この辺りから東を望むと眼下に河和の町並みが見下ろせ、屋敷跡と称される辺りも観られ、その先には波静かな知多湾が一望できる景勝の地である。東端角に城口観音の祠があり、そこから南西に廻ると下り坂となっており民家が密集していた。、農家の人に尋ねたところ、以前、登城正門はこの北にあり登城通路もあったが、現在は行く手を民家に阻まれ、通路も無く山頂辺りは木が生い茂り、蝮も出ることから容易に山頂の本丸跡までは登れないと聞かれた。たとえ登れたとしても遺構はなにもないとのことであった(*3)。むしろ今通ってきた城郭跡の土塁や曲輪に城の面影が感じられる。
「水野屋敷記念館」は、採訪当日は月曜日で休館日となっており、残念ながら内部は見学出来なかった。説明文では、記念館は、和室六部屋、炊事場、便所からなっており、和室六部屋の内四部屋については公民館と同様に集会やお茶会などの文化活動に利用できる。また和室二部屋については水野家に関わる収蔵品を展示している(*4)。
 

●[追記註釈1]2006.01.31 美浜町生涯学習センターからのお知らせにより修正
*3=河和城について
 現在は、崖崩れがひどくて主郭には上がれないが、土塁と横堀が良好な状態で残っている。詳しくは愛知県が調査した下記の報告書にまとめられている。
愛知県中世城館跡調査報告Ⅳ(知多地区)1998愛知県教育委員会
*4=水野屋敷記念館について
 平成12年に開館した集会所であり、幕末に河和に建てられた水野氏の家の材をごく一部(天井板の一部など)使っているが、間取などの復元はされていない。
施設自体は現在無人であり、隣接している生涯学習センターで鍵の管理をしており、見学の際は、生涯学習センター窓口に問い合わせること。また、展示については、開館当初は河和水野の子孫の方から資料を借りして展示をしていたが、貴重なものであることから、現在は返却をし展示はしていない。

記事頭の掲載写真は、河和城址旧正門付近の遠望である(南側から撮影)。

●[追記註釈2]2006.05.28
2006.05.25 美浜町生涯学習センターを訪問し、水野家屋敷内部を取材した。
 また同センター2階に掲げられている「河和水野上屋敷図」を、許可を得て撮影したものや、美浜町教育委員会発行『河和城試掘調査報告書』(1993.3)から「図1 地形と調査」「図版1 試掘現地全景(北から平坦面を望む)」を転載した。


小河水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95



『河和城試掘調査報告書』(「図版1 試掘現地全景(北から平坦面を望む)」


『河和城試掘調査報告書』(「図1 地形と調査」




「水野屋敷記念館」







名古屋城下にあった「尾張藩河和水野家上屋敷地図」


名古屋城下にあった「尾張藩河和水野家上屋敷間取図」



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お元気でしたか? (momoti)
2005-09-20 19:57:25
こんばんは。

お久しぶりです、momoti,ですけど。わかりますか。

暑かった夏も過ぎて、朝夕ちょっと涼しくなり 夜虫の音とか聞こえると 季節はどんどん進んでいるんだな、と、ちょっと物悲しくなったりこのごろ感傷的になっています。

 Sは2日前にシルクロードから帰り、またまた腸閉塞の初期症状になり、ホント、忙しい人です。

 私もホームページの手を広げすぎて、混乱しています。毎日のように更新をしてるところもあるんですけど、他にも趣味があって、ようするに気まぐれと言うか飽きっぽいというのか・・几帳面すぎるSとはぜんぜん違うなって思います。

 一応工事中のページあるんですけど、見たい?

見たくないよね ゴミ箱みたいだからね

 では、また、 おやすみなさい~
返信する
転載します。 (∞ヘロン)
2005-09-21 04:38:02
勝手ながら、「momotiさんのコメント」を新設の

『2005 秋季掲示板』へ移行させていただきました。

お返事は、そちらをご覧下さいね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。