∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >浜松城(1)

2005-06-14 18:00:51 | C-3 >山川山形水野
浜松城(1)
    静岡県浜松市中区元城町49 Visit :2005-06-06 08:50

当城の説明札によれば、――
「浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、十七年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守閣と連なり、順次高きを増す。ここは、天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、老中まで栄進したものが多い。中でも水野越前守忠邦の名は、よく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。 浜松市」とある。

  山川水野家第十一代の水野越前守忠邦は、肥前唐津藩主であり、幕政に参与したいと願っていたが、当藩は長崎警備の重要な任務のあることで任地を離れることができず、幕閣に着けないことから、唐津から俗に「出世城」と言われていた遠江浜松への転封を画策した。しかし、禄高は6万石ながらも、実高20万石といわれた唐津からの転封には、家臣からは根強い反対もあったが、各方面に運動し文化十四年(1817)寺社奉行に任ぜられ、第二十三代浜松城主とし、浜松に国替えとなった。大阪城代、京都所司代を経て、天保十年(1839)には老中首座まで上り詰め幕政を掌握するも、天保の改革に失敗し天保十四年(1843)罷免させられた。在任中は、一度も浜松に国入りしなかったと言われる。嫡男水野金太郎忠精(みずのかねごろうただきよ)に継ぐが、出羽山形に減転封となった。

小河水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

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