∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その5)

2006-07-11 14:00:01 | C-3 >山川山形水野
                      写真提供:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん


水野三郎右衛門元宣(その5)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版――
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。

8.山形藩の謝罪降服
 米沢藩は、奥羽諸藩同盟の主唱者でありながら、また逆に謝罪降服の先鋒ともなった要因については、当時同藩には、藩老千阪太郎左衛門以下、何れも時代の流れの本質を見通すことに機敏な人物が少なからず居たことによるものである。同藩が山形に融資についての相談を持ちかけたのは、戊辰(1868)九月十日であるが、翌十一日には官軍の密使が米沢に来たことが、早くも山形に出向いていた藩士に伝えられていた。
これを遡る九月七日、会津藩士中澤五郎が仙台から山形へ来る途中、関根宿(*2)で「米沢藩降服」の噂を聞いたと話し、また吉松、鈴木、井上などが九月十一日、米沢から帰り、米沢藩は既に降服謝罪の嘆願書を差し出したとの評判があると報告した。
このことは山形藩老達にはいわゆる「寝耳に水」であり、早速藩老達は城中で会議を開き、その事実を確かめるため、三郎右衛門と大道寺源内の両人は十二日米沢へ、また志賀淺右衛門、石原兵衛の両人は庄内へ向かうことに決定したが、同十一日の夕刻、米沢から使者として藩士原三左右衛門、大瀧甚兵衛の両人が山形にやって来て、このたび官軍土佐藩から密使澤本聞也という者が米沢に来て、奥州諸藩は謝罪の上、兵を解くよう
に指示したと伝えた。また米沢から密使澤本聞也を同道して大龍新蔵、森三左衛門が二本松まで出向き、参謀大村藩(*3)渡邊清左衛門に面会した。しかしながら米沢藩一藩のみが謝罪の交渉をするのは如何なものかと尋ねてきた。山形藩は米沢藩が謝罪の評議にいたった上は、当藩はいささかも異存はないので、どうかよろしくお取り計らい下さるようにと返答したが、原三左右衛門等はすでに庄内へ行き、その帰路立ち寄ったと聞いて、山形藩老等は、いよいよ米沢のその敏速な対応ぶりに驚いた。
九月十二日、三郎右衛門等は、早朝出立の予定であったが、前夜に米沢藩からの使者があり、状況が変わったことで、各老藩との打合わせのため早朝より登城して評議を重ね、米沢に出向くと共に、場合によっては二本松の官軍参謀に降服謝罪書を提出するというところまで決定し、三郎右衛門が源内と共に山形を出発したのは、午の刻(正午頃)となっていた。途中上の山の本陣に立ち寄ったところ、上の山藩士山村縫、中村裕右衛門の両人が、米沢へ同道する積もりで先刻まで待ち受けていたが、お出でにならないので出立したと聞いたので、重役渡邊五郎左衛門に面会したが、米沢藩士原、大瀧両人が山形を経て来たとのことで、上の山藩もすでに謝罪と決定し、中村、山村両人を先に出発させたと言った。そうする中、米沢から神保左馬之助、安田八郎の両人が来合わせ、謝罪の手続きは迅速に執るようにと催促した。この時すでに日暮れ近くなっていたので、三郎右衛門等は上の山に一泊し、翌十三日未明に上の山を出発し、中山村(*4)から川樋村(*5)に差し掛かると、前日上の山から米沢に出発した山村、中村の両人に思いがけなく出会い、茶屋に入って委細を聞きとり、山村らと別れて米沢に着いたのはその日の夕刻であった。東町の枡形屋(*6)に投宿し、早速米沢藩士大龍新蔵に面会したところ、嘆願書は各藩銘々に差し出すものであるとの事で、翌十四日に嘆願謝罪書を下書した。同日、天童藩から河野環、高橋小十郎の両人がやって来たのは、同じく米沢藩の指図を請うためであった。即日山形から伴ってきた藩士を、早追(*7)で藩老の調印を乞うため山形へ遣わそうとしたが、すでに深夜となっていた爲、大道寺源内を米沢から山形へ帰らせ、三郎右衛門は当夜上の山から到着した山岡と同道し、十五日明け方に米沢を出立して、正午頃に福島に到着すると直ぐに、米沢藩高山與太郎の仲立ちにより、次の謝罪降服嘆願書を総督府へ差し出した。

   山形藩謝罪書
 先般、庄内藩の御征伐の時、立場をわきまえず、また正・不正を誤り、主人和泉守が上京中に奥羽列藩に従い、家中の者共は恐れ多くも官軍に抵抗し、いまさら極めて恐れ多いことから、何も申し上げることはございません。つまるところ私どもの心得違いより生じたことであり、重ね重ね恐れ入ります。しかしながら、今般天子の思し召しを米沢藩から伝え聞き、誠に恐れ入り、これにより家中一同はこれまでの言動を反省し、謹んでお従いいたします。天子のお裁きを仰ぐためここに嘆願書を差し出します。何分ともよろしくご処置くださいますよう、ひとえにお願い申し上げます。
                         水野和泉守家来 
                              水野三郎右衛門
    九月                        水 野 式 部


9.謝罪降服の許容
 嘆願書を差し出した翌々九月十七日、水野三郎右衛門および上の山藩山村縫の両人は、参謀の旅館に召喚され、監察役彦根藩橋本勘太郎、備前藩大口庄左衛門が出てきて面会し、当地まで何の用件で來られたかとのお訪ねに対し両人は、春が来て天下の事情も変わり恐れ多くも官軍に抵抗したことにいたって、米沢藩から天子の厚いお情けを伝え聞き、恐れいりましたので謝罪嘆願のため出向きました、と答えた。それならば二本松に行きなさいとの指示により、翌十八日、両人は早追で福島を発ち、同道し二本松に着いたが、今度は彦根藩番兵の案内で二本松城東方約2Kmにある、遍照尊寺(*8)という寺院に導かれた。この寺には棚倉藩(*9)からも嘆願書を持参し、翌十九日には天童藩士佐々木覺兵衛、高橋小十郎が同じく出願書を持参したが、同夜この寺に一泊した。翌二十日参謀から出頭するようにと命令があり、棚倉藩、上の山藩と同道し彦根藩の案内で、本町大野屋に参上したが、腰につけている刀剣をはずすして出頭せよとのお達しがあり、直ぐにその席に入ったところ、参謀から「この度家臣の嘆願書面の通り格別の思し召しによってお聞き届け遊ばされた」と申し渡されたが、その達書は次の如くであった。

                            水野三郎右衛門へ
 家臣からの嘆願書の趣旨をお聞き届け遊ばす。ついては、この実際の効力が発効するしかるべき処置があるまでは、直ちに銃器はその管理下に預け、判断を誤った主だった者は、厳しく謹慎をすることを命じる。
但し 器械弾薬目録を差し出すこと。
九月                     白川口総督府 参 謀

 三藩ともに同文でお達しがあったことで、直ぐに旅館に引き取り、その夜十時頃に上の山藩と同道し二本松を出発し、翌二十一日明け方福島に到着し、同地に在る米沢本陣に達書を見せ、直ぐに早追で桑折(*10)、渡瀬(*11)、楢下(*12を経て上の山に着いたのは午前十時頃であったが、上の山で山村と別れて山形に帰着したのは夜中の十二時頃であった。両夜を徹しての早追であったことから一睡もせず非常に疲労していたにも拘わらず、直ぐに登城して銃器等の取調をして、二十四日に秋元鐵輔を二本松に遣わし、次のように目録を提出した。

    覺
1 ホート 但弾薬相添-----------四   挺
1 五百目筒右[上]同断----------一   挺
1 百五十目筒同-------------弐   挺
1 鐵百目筒 胴-------------一   挺
  東大手櫓へ差置候分
1 歩士具足---------------二 十 領
1 歩士横目具足-------------十   領
1 朱具足----------------廿 九 領
1 足軽具足---------------八十一 領
1 騎馬具足---------------弐   領
1 鎖甲-----------------五十八 領
1 ミニーイ弾薬--------------弐 萬 発
1 ゲベール弾薬-------------壱萬五千発
1 和銃弾薬---------------三 千 発
1 百目丸----------------二 百 発
1 五百目丸---------------百五十 発
1 鐙------------------七十三 足
1 破裂弾----------------五 百 発
1 百五十目丸--------------四 百 発
  南大手櫓ニ差置候分
1 片鎌槍----------------六十四 本
1 幕串槍----------------四   本
1 足軽具足---------------三百四十領
1 槍------------------百 八 本
  大書院へ差置候分
1 具足取交---------------百 九 領
1 洋銃(但ミニーイ、ゲーベル取交)------四十六 挺
1 和銃大小交--------------三百十五挺
1 観世水胴乳--------------四   十
1 和胴乳----------------百   五
1 口薬壺----------------四   十
1 槍------------------七十五 本
  一文字櫓に差置候分
1 和銃大小取交-------------七十一 挺
1 騎馬具足---------------九   領
右之通御座候以上




[山形藩の謝罪降服の行程](訳者抽出)
1868年
9.07:会津藩士中澤五郎が仙台から来る途中、笹谷街道の関根宿で米沢藩降服の噂を耳にし山形藩に伝える
9.10:米沢藩から融資の相談を持ちかけられる。
9.11: (1)米沢藩士に国許に官軍の密使が来たことが伝わる。
  (2)山形藩士吉松等が米沢から帰郷し、米沢藩は既に降服謝罪の嘆願書を差し出したとの評判があることを報告する。
  (3)山形藩で老藩会議が開かれ、翌12日、三郎右衛門と大道寺源内が米沢へ、志賀淺右衛門と石原兵衛が庄内に向かうと決議。
  (4)夕刻、米沢から藩士原、大瀧が使者として来藩し、官軍密使からの降服要求内容を伝える。また米沢からは、藩士大瀧、森が密使に同道し参謀に面会した旨の報告があり、山形藩は降服に同意する。
9.12:(1)早朝から藩老会議が開かれ、米沢に出向き、場合によっては二本松の参謀に降服謝罪嘆願書を提出することを決議。
  (2)正午、三郎右衛門が源内とともに山形を出発。
  (3)上の山藩に立ち寄り、重役渡邊に面会し、山形藩士が山形経由で先に来ており、上の山藩もすでに謝罪と決定。
  (4)藩士中村等は山形藩に先立ち米沢に出発した。
  (5)米沢藩から神保らが来合わせ、謝罪の手続きを催促した。
  (6)日暮れとなり、上の山で一泊。 
9.13:(1)未明に上の山を出発し、途中先に出かけた山の上藩士中村等と遭遇し、茶屋で委細を聞き取り、同道し米沢に到着。
  (2)東町に投宿し、米沢藩士大瀧に面会し、嘆願謝罪書は各藩が銘々に出すものと知らされる。
  (3)米沢に一泊
9.14:(1)嘆願謝罪書を下書き。
  (2)天童藩から河野等がやって来て米沢藩の指示を請う。
  (4)同道の藩士を早追で山形へ遣わそうとするが既に深夜となり断念。代わりに源内を米沢から山形へ帰らせた。。
9.15:(1)明け方、前夜上の山から到着した山岡と同道し、米沢を出発。
  (2)正午頃福島に到着。米沢藩高山の仲立ちで謝罪降服嘆願書を総督府に提出。
9.16:――
9.17:水野三郎右衛門と上の山藩山村の両人は、参謀の旅館に召喚され監査役等から二本松に行くよう指図を受ける。
9.18:三郎右衛門、山村両人は、早追で福島を発ち二本松に到着。城下の遍照寺に導かれる。
9.19:天童藩が出願書を持参。寺で泊まる。
9.20:(1)参謀から出頭命令があり棚倉藩、上の山藩とともに本町の大野屋に参上し、三者ともに同文の達書を受け取る。
  (2)夜十時頃、上の山藩と同道し二本松を出立。
9.21:(1)明け方、福島に到着し、同地の米沢本陣に達書を見せる。
  (2)直ぐに早追で山の上に向かい午前十時頃に山の上に入り、同藩士と別れ、山形に夜の十二時頃帰着。
(3)直ちに登城し銃器の取調を始める。
9.22:――
9.23:――
9.24:藩士秋元を二本松に遣わし目録を提出。




[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=山形県山形市関沢。笹谷街道の宿、笹谷峠付近。
*3=長崎県大村市。
*4=山形県上山市中山。
*5=山形県南陽市川樋。
*6=山形県米沢市東。現在は山形県米沢市大字関根10348-19に移転したか。
*7=はやおい。 江戸時代、急用のため昼夜兼行で駕籠(かご)を急がせること。また、その使者をいう。
*8=福島県二本松市根崎二丁目。
*9=福島県東白川郡棚倉。
*10=福島県伊達郡桑折町(こおりまち)。
*11=宮城県刈田郡七ヶ宿町
*12=山形県上山市楢下。



[山形藩の謝罪降服の行程]
現在の一般道路を使用したとすると総距離数は、約236Kmとなる。



二本松城から城下の遍照寺方面を望む (2005.06.09 14:53)


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2 コメント

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東北の旅を思い出します (tirara)
2006-07-14 22:29:18
山形、上山、米沢、福島、二本松、喜多方と

布教で廻らせていただいたお寺を思い出します。

喜多方から、福島に抜ける道があるのですね。

高速でいくとずいぶん遠回りをしています。

今度、拙寺に名工大の青木先生がお越しになられます。古文書を読むのは苦痛です。

           合掌
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歓迎>tiraraさん (∞ヘロン)
2006-07-15 00:59:22
tiraraさん

 支店のブログにはお越し頂いておりますが、当本店ブログ(?)には、確か初めてお出で頂きましたよね。コメントいただき、とても嬉しく思います。(^^)

 北海道、東北、九州とまさに全国津々浦々までのご布教の旅ほんとうにお疲れ様です。上人様が旅された何倍かの距離になりますね。有難いことです。

 わたしも、このシリーズを書いていて、昨年の旅が思い起こされてとても懐かしんでおります。当地は全て一般道を通りましたので、思い出も深いのです。

二本松城址の山の上から360度の大パノラマを観て、福島で一泊し米沢を経由して山形に行きました。

また山形からは☆∞ツチノコ柏崎乗継さんのお車で米沢まで案内いただきました。また訪問したいです。



 
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