難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

手話が言語であることを難聴者はどう考えているか。

2011年07月07日 08時29分57秒 | 日記(つぶやき)
昨日、手話が言語であるということを全く別の視点で観ることが出来ることに気が付いた。

手話は視覚的言語と言われている。
私たち難聴者は音声言語でコミュニケーションをしているが、音声は聞きながら脳で理解をする。音声を聞いたとたんに脳が反応し始める。
話している人自身もだ。このことは、人工内耳で自分の声が聞こえるようになって気が付いた。
自分の声が喉に加える力でオンが発生(発声)し、その強さでその調子が変わることが分かる。
人のではなく自分の発声しているオンが聞こえるということが新鮮だった。補聴器時代になかったから。

こういうことがあった。
岩手の支援に行ったときに、「ふるさと」を皆で歌った。
その時に「ふるさと」の「る」が「LU」なのか「RU」なのかあいまいに声を出していることに翌日出勤中に歌っていて気が付いた。
聞こえるということは自分の声を聞いて声を制御しながら発することが出来るのだ。難聴者はこれが難しい。声に力が入りにくい。

何が言いたいのかというと、手話は視覚的な言語ということで音声言語と「違い」違を示しているが、実はその発出と同時にかつ連続的に理解できることが言語の共通点ではないかということだ。

この先、どう整理すべきかまだ出来ていないが、要約筆記は言語通訳と同じように即時に伝える点では同時通訳であっても音声会話、手話の会話と質的に違います。

この辺は、もう少し整理してから。

ラビット 記

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