難聴は個々人により、様々な違った様相を示す。
それは現在の聞こえの状況が違うというだけでなく、その状況に至る経過も違うのだ。
さらに意識もそれに合わせて変化してきている。
聞こえの変化と意識の変化は必ずしも時系列的に同期していない。
これらを合わせて聞こえの遍歴と考える。
同じ聴力デシベルでも聞こえ方は一人一人違うし、それに至る経過も異なる。
それは難聴者同士でもなかなか実感できない。
相手の聞こえ方を
「聞こえがうるさい」
「いろいろな音が入ってくる」
「人の声が浮かび上がる聞こえ」
とかお互いに表現を変えながら話してやっと何となく分かる。
まして、健聴者では難しいだろう。
補聴器装用技術者はメーカーの開発したコンピュータを駆使して調整をしてみるが最後は装用者の感覚だ。
ラビット 記
それは現在の聞こえの状況が違うというだけでなく、その状況に至る経過も違うのだ。
さらに意識もそれに合わせて変化してきている。
聞こえの変化と意識の変化は必ずしも時系列的に同期していない。
これらを合わせて聞こえの遍歴と考える。
同じ聴力デシベルでも聞こえ方は一人一人違うし、それに至る経過も異なる。
それは難聴者同士でもなかなか実感できない。
相手の聞こえ方を
「聞こえがうるさい」
「いろいろな音が入ってくる」
「人の声が浮かび上がる聞こえ」
とかお互いに表現を変えながら話してやっと何となく分かる。
まして、健聴者では難しいだろう。
補聴器装用技術者はメーカーの開発したコンピュータを駆使して調整をしてみるが最後は装用者の感覚だ。
ラビット 記
という理論を、むかし唱えた人がいるそーです。
ググっても出てこないですが、全難聴の機関誌「新しい明日」に掲載されていました。
どこかのサイトに発表しておく必要があります。
ICIDH2、そしてICF、障害者権利条約、そういった制度的なものの展開をふくめて、共同研究で理論化すると、難聴者のアイデンティティ確立に資するだろう、とのことです。
大事なのは、在野の人をふくめて、多くの人の知恵を集めることだ、ということです。
著作権は放棄しなくても結構です。その人の発想は貴重な成果です。
それをさらに発展させることが求められています。
「聞こえ」の障害をICFにそった形で、定義する必要があります。
「環境因子」は周囲の音環境、社会の理解の他に社会の制度も必要です。
「個人因子」には本人の聴力変化の経過、経済的な余裕もあるでしょう。
「参加」については、コミュニケーションの状況の他に、関係性の状況が揚げられます。
「経済的な余裕」、これは逆にみれば経済的な切迫のこと。
富裕または貧困と聞こえとの関係は、究明されるべきテーマでしょうね。
ラビットも、聞こえの障害はヒアリング
だけではなく、関係性の障害を持っていることに着目すべきと何度も提言しています。
ヒアリングは機能障害の問題としてとらえられます。なので医療で対応しようとしています。
これに対して関係性の障害は社会参加の問題です。つまり難聴、聴覚障害を社会モデルとして見ているということです。
しかし、ヒアリングを改善するのに医療だけで良いのか、ソーシャルワークとして(福祉的支援)として補聴器装用訓練などが必要ではないのかとか、社会参加を支援するために、相談支援サービス、当事者能力を高める訓練等事業が必要ではないのかと考えています。
全日本ろうあ連盟の情報・コミュニケーション法制定の運動方針に、聴覚障害者が関係性の障害を持っていることに対する方針を加えることが必要です。
では、「補聴器装用訓練」はどの因子に対応する事業か。
「相談支援サービス」は? 「当事者能力を高める訓練等事業」は?
必ずしも因子といちいち対応させなくても事業を起案できますが、対応させておくと、理論的に明快になり、説得力が増します。