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【引き揚げの苦難】幼子から先に命は絶え

2020-11-03 17:23:46 | 日記

【引き揚げの苦難】幼子から先に命は絶え

 

 

赤松 重信さん(86)の証言
 終戦時、樺太南部の豊原(とよはら)(ユジノサハリンスク)にあった工業学校機械科の3年生だった。戦中は学徒兵として、手榴(しゅりゅう)弾の部品などを製造。終戦間際、ソ連の戦闘機から機銃掃射を受けるようになり、私たちは地雷を抱えて戦車に突撃する特攻訓練に追われた。

 〈豊原にソ連軍が進駐してきたのは8月24日ごろ〉

当時は一家8人。母や姉弟妹は終戦直後、引き揚げ船に乗れた。

寄宿舎にいた私と父が樺太に残された。

ロシア人が工場長を務める製紙工場でロシア人と一緒に働き始めた。

私たちが最初に覚えたロシア語は「チョロマ」(牢屋(ろうや))。無断欠勤すると「チョロマ」に入れられると聞いた。

〈祖先は戦前、北海道・江差で半農半漁で暮らしていた。ニシンの漁獲が減り、大正時代、ニシン漁に沸く樺太に移住した〉

新天地では百円札と特上米の暮らしが待っていたが、冬は氷点下40度。

学校にはスキーで通った。そして戦争に巻き込まれた。

引き揚げの順番はなかなか回ってこなかった。工場長にサケを持参し、早期引き揚げを懇願した。

〈北海道・函館港に上陸したのは1947年8月〉

四男の弟が引き揚げ後、ジフテリアで亡くなったことはそこで知った。

東日本大震災(2011年)では、四男を思った。

私たちは何もしてやれなかったが、四男は少なくとも家族にみとられ、亡くなった。

でも、被災者の人たちはそうではない。その無念さを思うと、涙が止まらなかった。

四男が大切にしていた笛を列車の窓からつい落としてしまい、「ごめんなさい」が言えなかった悔恨を妹は今も抱える。

貧困と病の中で、幼子から先に死んでいく。引き揚げ家族の多くがなめた辛酸だった。

〈引き揚げ後は北海道大樹(たいき)町の牛舎の隣の小屋で、家族の生活が始まった〉

私は役場で、きょうだいは農家で働き、生計を立てた。

サケを食べた後、残った骨を七輪(しちりん)で焼き、きょうだいで分け合った。けんかにならなかったですね。

〈福岡県飯塚市で小ヤマ(小規模炭鉱)を経営していた遠縁が声を掛けてくれて1950年、筑豊に移住した〉

やっと人並みの暮らしができるようになった。

やがて炭鉱閉山の嵐が吹き荒れたが、苦労は比べものにならなかった。

戦争も生活も苦しかった。だからこそ、きょうだいの絆は深まった。

そして今の時代がある。15年ほど前からでしょうか。そう思えるようになったのは。 

 (福岡県飯塚市)

樺太(サハリン)

日露戦争後、ポーツマス条約締結(1905年)に伴い、南樺太を譲渡された日本が樺太庁を設置。

製紙・パルプ、石炭などの産業化を進め、北海道、東北、沖縄などからの移住が進んだ。

昭和期のピーク時人口は40万人超。朝鮮半島からの労働者も約4万人とされる。ソ連軍の攻撃は45年8月11日ごろから激化。

終戦後も続き、引き揚げ船3隻が撃沈され、約1700人が死亡。

軍人・軍属約2400人、民間人約3700人が亡くなったとされる。

戦後も31万人以上が島内での生活、労働を強いられ、引き揚げは49年まで続いた。

=2014/12/04付 西日本新聞朝刊=


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