東京大空襲78年 「生き残ったから、記憶は伝える」鷲山洋子さん
2023/3/8 22:42深津 響
東京大空襲後に避難先となった浅草小で、大石京子校長(右)から、当時の校舎の手すりについて説明を受ける鷲山洋子さん=東京都台東区(深津響撮影)
先の大戦で、米軍の無差別爆撃によって老人や子供ら非戦闘員10万人以上が犠牲になった東京大空襲から、10日で78年となる。ときの経過によって、空襲の経験者は少なくなるなか、当時、浅草で空襲に遭った大田区の鷲山洋子さん(90)は、今年初めて追悼集会で講演を行う。鷲山さんは「友達は話したがらないが、私は記憶に残っているので話す。私は生き残ったから…」と理由を語る。
「軍隊が持ってきてくれたおにぎりだったんですね」
鷲山さんは今月3日、当時避難していた台東区立浅草小を訪ねた。同校に残っている記録について、大石京子校長から説明を受け、そう言葉を漏らした。
浅草小は空襲時、職員の消火活動により、被害を免れ、避難所として使用された。鷲山さんは母親と3人の兄弟とともに身を寄せ、当時、学校には2千人以上が避難していたという。
「おにぎりを食べて、毛布をもらったことだけ覚えている」という鷲山さん。学校の記録によれば、軍がトラック2台分のおにぎりを運んできたという。
「怖さと寒さでいっぱいだったのだと思う」。避難者数や食料配給の経緯を知った鷲山さんは、こう振り返った。
鷲山さんは昭和8年生まれ。両親のほか、2歳上の兄と2人の弟がおり、浅草・雷門の裏通り沿いに住んでいた。昭和19年秋、小学6年生だった鷲山さんは、同級生40人とともに、茨城県の寺院へと疎開。翌年3月3日に、進学準備のため、浅草へと戻ったという。父は召集され、家を離れていた。
1週間後の10日未明、東京大空襲が始まった。寝ていた鷲山さんは、母に「起きなさい、起きなさい」とたたき起こされ、目覚めた。枕元の防空頭巾をかぶり、バッグを肩にかけて外に出ると、B29爆撃機が屋根に乗っていると思うほど、低空を飛行していたという。
上野方面も浅草寺方面も火災で空が赤く染まっていたことから、隅田川沿いの隅田公園へ逃げることにした。リヤカーに卵や砂糖を載せ、その上に布団をかぶせ、家族で押しながら移動を始めた。だが、空襲による火災の影響で「風が渦巻いて、前からも後ろからも強風が来て、一歩一歩進むことが大変だった」と振り返る。
吾妻橋までたどり着くと、松屋浅草の窓から火が吹き出し、対岸では強風にあおられて、大きな板が舞っていたという。川べりにある隅田公園には防空壕(ごう)があったが、いっぱいで入れなかった。壕の外は「強風の中に火の粉が混じっていて熱かった」。川のそばに行き、母がバケツで水をくんで、鷲山さんにかけることで耐えた。
空襲が収まると、浅草小へと避難。道中、母が防空頭巾で視界を隠し、街の惨状をみせないようにしてくれたという。家を訪ねてみると、建物は全て焼け落ち、地下の部屋に備え付けた水道から、ポタポタと水が垂れていた。1週間後、浦和にある知人の家へ、家族で身を寄せ、その後、高円寺へと引っ越し、終戦を迎えた。
終戦後も母と空襲の記憶については話さなかったという。「楽しい記憶ではないので話さなかったのだと思う」。だが、鷲山さんは講演に向けて、記憶を整理したり、かつて逃げた道をたどったりしたという。
世界では、ロシアによるウクライナ侵略から1年以上がたち、多くの民間人が戦災に巻き込まれている。鷲山さんは「ウクライナの報道を聞くと、私が体験したように、家を焼かれたりして本当にかわいそうだと思う」と語った。
(深津響)
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