鍵は“アイデンティティ” ロシアのウクライナ侵攻の引き金がプーチンの「積年の怒り」とは本当なのか?
廣瀬陽子教授に聞く
ロシアによるウクライナ侵攻の引き金となったのは、プーチン大統領の「積年の怒り」――。
世界中の多くの研究者が予想できなかった戦争は、本当に個人的な感情が起因しているのだろうか。
慶應義塾大学総合政策学部教授の廣瀬陽子さんが読み解く。
* * *
――欧米やNATOに対する積年の怒りが、今回のウクライナ侵攻を引き起こしたのではないか。
その考察を、もう少し詳しく解説してください。
おそらくプーチン大統領は、自分とロシアを同一人格ととらえているのではないかと思います。
そして、「ずっと弾圧を受け続け、自分の尊厳がどんどん切り崩されている」と被害妄想を募らせてきた。
振り返れば、1991年のソ連解体を「20世紀最大の悲劇」と表現し、ソ連解体を経たロシア連邦成立後の30年もNATOが東方拡大し、ロシアに対するミサイル防衛システムがヨーロッパに構築されたことや、欧米がロシア周辺国に対する影響力を拡大してきたことなど、全てが許し難いことだった。
それらが怒りの源泉となり「ロシアはずっとバカにされてきた」と思い、被害妄想を募らせてきた。
そもそも、ロシアは、第2次世界大戦において「ナチスからヨーロッパを救ったのはソ連だ」という強い自負があるのに、
いつの間にか忘れ去られ、しかも自分の間近で再び「ナチス」が増殖しているといった考えに収斂されてきてしまっています。
プーチン大統領がウクライナのゼレンスキー政権を「ネオナチ」と非難しているのは、
独ソ戦、すなわち大祖国戦争という歴史と現状を重ね合わせて国民の愛国心を煽るという意味合いがありますが、もしかしたらそれ以上にプーチン大統領にとっては「自分たちが再びナチスを倒す」という大義を本気で信じているのかもしれません。
もう一つ、鍵となるのが「アイデンティティ」です。
昨年7月に新しい国家安全保障戦略が発表されましたが、その中では「ロシアの伝統的価値が国家の安全保障の根幹である」ということが強調されています。
安全保障についての話なのに「ロシアの伝統的価値」という言葉が使われている。
つまり、ロシアの安全保障もプーチン大統領自身のアイデンティティと非常にリンクしていて、ロシアの伝統的価値を体現することこそが自分の仕事だと思っている可能性は高い。
自分が大切にしているものを奪われ、尊厳が乱され、ここで何か行動を起こさなければ手遅れになる――。
一般的に見たらまったく合理性はないのですが、プーチン大統領の中では「尊厳を守る」という意味において合理性があったのかもしれません。
――米国がバイデン政権になったことも影響があったのでしょうか?
あったとみています。バイデン大統領は就任後、「これからは民主主義と専制主義の戦いだ」と打って出ました。
その発言を、おそらくプーチン大統領は、アメリカの敵は中国であり、自分たちは中国より下に見られている、軽んじられている、と受け取ったのではないか。
相当頭にきて、だったら中国よりも世界をかき乱す存在になってやる、もう一度世界の主役に躍り出てやるという意地もあったのでは、と思います。
米国の政治学者フランシス・フクヤマは著書
『IDENTITY(アイデンティティ)』で「承認欲求で歴史は動く」と説いていますが、まさにプーチン大統領の積年の怒りと承認欲求によって今回の戦争が起きてしまった。
そう言っても過言ではありません。
――フクヤマの論を受け、廣瀬先生はコラムで「施政者の個性に踏み込んだ分析が必要となりそうだ」と述べられています。
今後、研究にどのようなアプローチが必要でしょうか?
さまざまな仮説がある中で考えたのは「プーチン大統領を極端に怒らせるような事件が起こると、極端な逸脱行動を取るのだろう」ということでした。
しかし、怒りの感情は個々人によって異なり、ある人にとっては許せないことが、他から見たら「なんでそんなことで怒っているの?」と理解できないことはよくあります。
そうした個人の認知レベルが国際関係に入ってくると、分析や今後の展開の検討はますます難しくなると思っています。
今回のウクライナ侵攻も、いわば「プーチン大統領の戦争」になっていて、その内面に踏み込まないとわからないことがあまりにも多い。
おそらく幼い頃からネガティブに積み上げてきた負の感情も含め、家族関係や育ってきた地域の環境、国の状況、どんな歴史の中で過ごしてきたか……そういったすべてのバックグラウンドがウラジーミル・プーチンという人間を作り上げている。
そこを子細に見ていく必要があり、心理学的アプローチなども必要になってくるかもしれません。
そうなると、これまで私がやってきた研究では一切歯が立たないのです。
とはいえ、これまでやってきた研究が無駄になるとは思っていません。
どこまで私が想定していたロシアの行動原理が生きて、どこからプーチン大統領の個人的な感情が先走ったのか。
これまでの研究に欠けていて、かつ今回の侵攻理由のキモになっているのが、まさにプーチン大統領の個性や尊厳、思い。
それがどのように培われてきて、どういう刺激や感情が彼を侵攻に仕向けたのか、そのプロセスを解き明かすしかないのかな、という気はしています。
そしてもう一つ重要なのは、プーチン大統領を大統領たらしめているロシア人の性格です。
ロシア人の多く、少なくとも半数くらいの人は、今回の侵攻でもまだプーチン大統領を支持しています。
そして、プーチン大統領を選び、高い支持率で支えてきたのはロシア人に他なりません。
もちろん、選挙の不正などがあったことは認識していますが、それでもプーチン大統領の支持率は常に半数以上はあったと言えるわけです。
少なくとも半分くらいのロシア人がプーチン大統領を選び、その政策を支持しているということの意味は大きいと思います。
そもそもロシア人は、強いリーダーを求めてきました。
他方で、冷戦期に米国と二大大国として世界を代表してきたソ連を解体したゴルバチョフをロシア人は「墓掘り人」と呼び、蔑んできました。
そしてソ連に対してノスタルジーを感じる人はやはり半数を下回った事がなく、特に経済状況が悪化するとソ連ノスタルジーが強く感じられるようになるようです。
つまりロシア人は強いロシアの復活を望み、それを叶えてくれる強い指導者を希求してきたと言って良いでしょう。
このことは、仮に、問題がプーチン大統領の排除で収束しないことを暗示しているのではないでしょうか。
プーチン大統領が失脚したり、死去したりした場合も、多くの国民は米国に負けたと考える可能性が高いです。
プーチン大統領のような強い大統領ですら米国に負けてしまったのだから、もっと強い大統領を選ばなければならないということで、第2、第3のプーチンが生まれる可能性もあるのです。
プーチン大統領個人のアイデンティティにとどまらず、ロシア人のアイデンティティを分析する作業も必要となってくる気がします。
――日本も含め、西側のメディアでは
「ロシア悪、ウクライナ善」という勧善懲悪の構図として報道され、そういった視座でしか見られなくなっている面もあります。
一方で、「キューバ危機を思い出せ」と論じたジョン・ミアシャイマー、アメリカやNATOの非を指摘したノーム・チョムスキーやエマニュエル・トッドなど、少数ですが異なる意見を論じる西側の識者もいます。
今回の侵攻、そして世界情勢に関して、私たちはどのような視座を持つべきだと考えますか?
私たちから見たら合理性も大義もないように見える今回の侵攻ですが、とはいえ、少なくともロシアが一体何を考え侵攻に至ったのかについては、ある程度理解していないと、対抗策を考えたところで机上の空論で終わってしまいます。
そして、理解した上で対話する、話を聞く必要があったのでは、と。
実は、昨年12月にロシアはいわゆるレッドラインを示す形で、米とNATOに安全保障に関する提案書を示し、欧米は到底受け入れることはできないものの話は聞こうと、今年1月にはかなりハイレベルの欧米・ロシア間の会合が精力的に行われました。
自分たちの気持ちを聞いてもらうだけでもロシアの怒りはかなりガス抜きされるのではと期待したのですが、結局はそれでは気が済まなかったのでしょう。
歴史に「if」はありませんが、もしもっと早い段階から対話を重ねロシアの気持ちを理解し、お互いに譲歩できる線を探ることができていたら、今回の侵攻を防ぐことはできたのかもしれません。
ロシアの思惑や、ましてやプーチン大統領の怒りに寄り添うことはできなくても、今回の戦争がなぜ起きたのか、なぜ止められなかったかを考える。
サイバー戦争が当たり前となり、真偽のわからない情報が溢れている今、ネットリテラシーを含め、情報を見極め考える必要があるでしょう。
そして私たち研究者は、起きてしまった事象を分析し、「なぜ」を紐解くことで世界平和に貢献しなければならないし、そういう研究に取り組んでいきたい。
そう心を新たにしています。
(取材・文/中津海麻子、取材・構成/内山美加子)
廣瀬陽子(ひろせ・ようこ)
慶應義塾大学総合政策学部教授。博士(政策・メディア)。
1972年、東京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了・同博士課程単位取得退学。
日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学大学院地域文化研究科准教授、静岡県立大学国際関係学部准教授などを経て16年より現職。
著書に『ハイブリッド戦争 ロシアの新しい国家戦略』(講談社現代新書)、『ロシアと中国 反米の戦略』 (ちくま新書) など
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