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ネズ・パース族、またはネ・ペルセ族は、アメリカインディアンの一部族

2022-02-07 18:19:54 | 日記

 

ネズ・パース

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ネズ・パース族の戦士 (1907年)

ネズ・パース族、またはネ・ペルセ族は、アメリカインディアンの一部族である。 

彼ら自身はニミプー(nimi'ipuu、nimipu)、またはカムイヌ(Kamu'inu)、チュトペリ(Tsútpeli)とも自称する。

アメリカアイダホ州を中心に、ワシントン州オレゴン州北東部、モンタナ州などのロッキー山脈付近のコロンビア高原の高原地帯に定住し、ネ・ペルセ国立歴史公園(Nez Perce National Historical Park) 内に住み、幾つか保留地(Reservation)がある。

アイダホ州には北部ネ・ペルセ族と南部ネ・ペルセ族の部族に分かれて約600人が現在でも暮らしている。 ペヌティ大語族サハプティン語族英語版の言語ネズパース語を話す。

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目次

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文化[編集]

  • ネズ・パース族は主に狩猟民族で、バッファローシカなどを狩ったり、を捕獲し、ベリー類などの野生の果物、農業ではトウモロコシなどの野菜を栽培しながら暮らしていた。
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  • 非常に白人とは友好的な部族で、かつては白人達を他部族から護衛したり、庇護を求めて逃げ込んだ白人を保護した。ネ・ペルセ族は白人と戦争したことは一度も無い。
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  • 彼らが初めて白人と接触したのは、1805年、ルイスとクラークの探検隊が立ち寄った際である。
  • ルイスは、「今まであったことがないほど気立てが優しく、穏やかで落ち着いた部族である。激情に流されるようなことはめったにない」と書き残している。
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  • 「ネ・ペルセ」は、フランス人猟師が命名した名前で、フランス語で「穴をあけた鼻」(nez percé )を意味する。当時、彼らが鼻に貝のピアスをしていたためそう呼ばれた。
  • 大きく高地ネ・ペルセと低地ネ・ペルセの二支族に分けられる。
  • の飼育に長けた部族として知られており、アパルーサという品種を生み出している。
  • ブラックフット族(シクシカ族)とは犬猿の仲だった。
  • を崇めたネ・ペルセ族は現在、アイダホ州北部及びモンタナ州の依頼で、すでに野生界では絶滅した狼の自然界復帰計画を進めており、狼を放った森林地帯で、監視などの管理を行っている。(「狼の教育と調査センター=WERC)
  • しかし、牧場主やハンターは狼の駆除の圧力州と連邦政府に対して強めており、計画の先行きは不透明である。

白人との歴史[編集]

 
  • 1855年、白人はネ・ペルセに保留地に入るよう要求。不公平な条約を結ばされ、保留地に入る。
  • 1860年、保留地内で金が見つかり、ゴールドラッシュが起こる。条約を破って白人が侵入。ネ・ペルセは友好的に接し、金が掘りつくされるのを待ったが、金が尽きても白人は居座り、軋轢を生み始める。
  • 1863年、白人は2万6千平方キロメートルのネ・ペルセの保留地を没収し、ほぼ1/10の面積の2千6百平方キロメートルに縮小する条約を提示。高地ネ・ペルセはこれを受け入れるが、ジョゼフ酋長(息子)の低地ネ・ペルセ(チュトペリ)は断固これを拒否。やがて呪い師スモーハラの興したドリーマー教に傾斜していった。

赤いナポレオン・ジョゼフ酋長とネ・ペルセ族の逃避行[編集]

  • 1877年、白人から「ジョゼフ」と呼ばれたヒンマラー・トーヤラケット(「山上を鳴り渡る雷」という意味)酋長は、ラプワイのキャンプで部族民の一派が白人を襲撃したのを知り、その報復を恐れて弟オリクートとともに一族を率い、カナダへの108日間、2700キロに及ぶ絶望的な逃避行を企てた。
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  • この逃避行における、彼の勇気と知略に富んだ指導力から、白人達は彼を「赤いナポレオン」と呼ぶようになった。
  • 結果的にジョゼフたち149人は捕らえられ、ワシントン州コルビルの保留地に幽閉された。彼は死ぬまでアイダホへの帰郷を懇願したが、白人はこれを許さなかった。
  • 「私は、インディアンに一ヶ所に留まれと命令する権利を、一体誰が持っているのかと白人の酋長達に聞いた。だが、誰もそれに答えられなかった」とジョゼフ酋長は言葉を残している。
  • 彼は故郷に戻ることなく死去し、白人の医師はカルテに、彼の死因を「傷心による死」と書いた。

アメリカインディアン、アパッチ族のシャーマン

2022-02-07 17:49:02 | 日記

ジェロニモ(Geronimo、本名:Goyathlay、1829年6月16日 - 1909年2月17日)は、アメリカインディアンアパッチ族シャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、実際は酋長ではなく部族の「指導者」でもない[要出典]

メキシコ軍に家族が虐殺されたのを機に、アパッチ族の戦士たちとともに対白人のゲリラ戦に従事した。ちなみに戦士集団だったアパッチ族には「酋長に戦士が服従する」という義務も風習もない。戦士は結束はしてもすべて個人行動で動くものであって、戦士たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦をともにしたのである。ジェロニモが軍事的な指導をしたこともない[要出典]

ジェロニモの名[編集]

ジェロニモとはスペイン語を母語とするメキシコ人のつけたあだ名「ヘロニモ」の英語読みで、英語では「ジェローム」に相当する名前である。アパッチ語の本名は「あくびをする人(眠たがり)」を意味するゴヤスレイ(Goyathlay)(文献によってはゴクレイエゴヤクラなど)である。

アパッチ族などインディアン民族には、他人が実名を呼ぶことを避ける習慣があり、家族以外に決して教えない「神聖な名前」を持っており、ジェロニモの場合も当然、これは部族外には伝わっていない。また、インディアンは伝統的に生涯に何度も名を変える風習があるので、「ジェロニモ」も、彼の本名の一つと言える。

人物・来歴[編集]

 
1886年、アパッチ戦士とともに立つジェロニモ(右端)
 
1905年の写真。エドワード・S・カーティス撮影

ネドニ・アパッチ族のベドンコヘ・バンドの酋長を祖父に持つ。祖父はネドニ族から離れ、ミンブレス・アパッチ族の女と結婚したため、ジェロニモはネドニ族の酋長相続権を失った。

インディアン社会のチーフ(酋長)とは、交渉の矢面に立つ「調停者」のことであって、「指導者」や「首長」ではない。合議制社会であるインディアン部族首長制ではなく、アフリカの部族に見られるような「部族長」は存在しない[要出典]

マンガス・コロラダス酋長の属する「ミンブレス・アパッチ族」で、ジェロニモは山岳戦士としての訓練を積んだ。不眠に耐える訓練、水を口に含んだまま、これを一度も吐き出さずに往復6キロを超える山岳地帯を走る訓練、弓矢や投石機の扱いの習得などを経て、メキシコに遠征しては部族の生業である略奪に励んだ。アパッチ族にとって、策略は勇気に勝るとされ、夜陰に乗じて牧場から牛や馬を攫うという手法は部族の美徳とされていた。

1848年、17歳でジェロニモはアロペと結婚する。のちに彼女との間に3人(4人ともされる)の子供を授かる。

1858年、チワワ州が略奪部族ミンブレス・アパッチ族に対して「和平協定」を申し出た。その内容は「年4回、軍駐屯地において、毛布、布地、トウモロコシの粉、メスカル(アパッチ族の大好物である)を支給する」というものであった。

これに先駆けてメキシコは1837年から、アパッチ族の頭の皮一枚に対し、男で100ペソ、女なら50ペソ、子供なら25ペソの賞金を懸けていた。このため、アパッチ族はこの申し出を疑ったが、マンガス・コロラダスたちは合議の結果、一隊の派遣を決め、運搬手伝いに女子供も同行することとなった。ジェロニモは妻のアロペ、老母、幼い子供たちの家族総出でこれに加わった。しかしメキシコ側では、ソノラ[要曖昧さ回避]の軍政長官ホセ・マリア・カラスコ将軍がこれを好機とアパッチの皆殺しを図っていた。

メキシコ北部のヤーノス村に到着したジェロニモらは、用心深く郊外に野営し、町へ向かったが、そこで大歓待を受けた。すっかり油断した彼らを、カラスコの軍が襲ったのは三日後だった。カラスコは野営を完全包囲した後、これを皆殺しにした。カラスコはのちに、「わが軍は130人のインディアンを殺し、婦女子90人を捕虜にした。チワワ州のメディナ大佐はこれに怒って政府に告訴したが、しばらく待たされた後、この軍事行動は是認された」と語っている。

こうして家族すべてをメキシコ人に殺されたジェロニモは、遺品をすべて野辺送りにして焼いた。温厚だった彼の性格は暗く怒りっぽく変わり、メキシコ人への終生の復讐を誓う獰猛な戦士と変貌した。マンガス・コロラダスたちが復讐戦を決定すると、ジェロニモはアパッチの各支族から戦士を募る役目を引き受け、彼はチリカワ・アパッチ族のコチーズ酋長の元を訪ねた。このとき、チリカワ族に対して以下のように演説を行ったと、のちにジェロニモは述べている。

「同胞諸君、メキシコ人の不当な行為に関しては既にお聞き及びのことと思う。我々もメキシコ人も同じ人間のはずだ。だから今度は、彼らがしたことを我々がやり返してもいいはずだ。さあ行こう、奴らの住処を襲うのだ。来てもらえるだろうか? よろしい、さあ、どうかみんな参加してもらいたい」

ジェロニモは次にシェラマドレ山脈の、かつての母族ネドニ・アパッチ族のジュー酋長を訪ね、メキシコ襲撃の賛同を得た。アパッチ連合軍は、まずソノラ州の富裕な町アリズペを標的と決めた。襲撃は「ヤーノスの虐殺」の翌年に行われた。

アパッチ族は白旗を持って出迎えた騎兵8人を殺し、メキシコがアパッチにかけた懸賞のお返しに、彼らの頭の皮を剥いだ。こうしてのちのち長きに亘るアパッチとメキシコの戦争が、このとき始まった。ジェロニモは銃弾の雨の中をものともせずにナイフを片手に戦場で暴れ狂い、その様を見て畏敬に駆られた一人のメキシコ人が、守護聖人の「ジェロニモ!」の名を叫んだ。これに呼応して、人々が口々に「ジェロニモ!」と叫んだ。こうして、この日このときを境に、彼の名は「ジェロニモ」となった。

この戦の後、ジェロニモはチリカワ・アパッチ族の女を妻に迎え、コチーズ酋長の計らいで、チリカワの戦士となった。その妻は生涯のうちでチーハシュキシュ、ナナサスティス、ジヤー、シェガ、シュツハシェ、イーテッダ、タアイズスラス、アズールと数人におよび、それぞれに子供をもうけている。

 
自動車に乗るジェロニモ
 
晩年は米軍の虜囚として過ごした(1909年)

メキシコとアメリカ双方は、アパッチの略奪に頭を悩ませ、何度も遠征をおこない掃討戦を試みた。しかし山岳ゲリラとも言うべき彼らの戦いは変幻自在で西部大平原のスー族と並んで、アパッチ族は最後までアメリカ合衆国に抵抗したインディアン民族となった。数々の戦いの中に、ジェロニモの姿があった。彼は雄弁に白人への抵抗を呼びかけ、白人と戦い続けた。ジェロニモの抵抗戦は、情報操作されて東部白人社会に大げさに伝えられた。数人殺された白人の数は、数十人、数百人となって報じられたのである。

 
オクラホマ州のジェロニモの

1886年に投降して以後、ジェロニモは生涯米軍の虜囚として扱われた。その間、1904年のセントルイス万国博覧会などで人間動物園として展示されるなどした[1]。生まれ故郷のメキシコ国境へ帰りたいというジェロニモの願いは叶えられず、オクラホマのシル砦でその一生を閉じた。ジェロニモの墓はシル砦にある。