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少子高齢化対策を模索する日本

2020-01-13 17:52:57 | 日記
韓国経済.com

韓国経済を中心に北朝鮮・中国・台湾・日本そしてアメリカの経済状況を説明するサイトです。

少子高齢化対策を模索する日本


2020年1月6日、中国社会科学網は、日本の少子高齢化対策について論じる記事を掲載した。

記事は、昨年12月24日に厚生労働省が発表した2019年の出生者数は86万4000人の予想で、18年比で5万4000人減となり、1899年の統計開始以来、初めて出生者数が年間90万人を下回ったと紹介。

一方、65歳以上の高齢者は、昨年9月の総務省の発表によると3588万人で、人口に占める割合は28.4%と、世界一であると伝えた。


日本では人口が自然減少しているが、その主な理由として記事は、「晩婚・高齢出産」、「結婚しない、出産しない」人が増えていることにあると分析。

2018年の結婚数は58万6438組で前年より2万組以上減少して戦後最低となり、合計特殊出生率も2018年は1.42にとどまり、目標の1.8には遠く及ばないと指摘した。

出生者数の減少は若者の減少となり、人口がますます減少していく悪循環になるため、日本政府は出産奨励策として昨年10月から幼児教育・保育を無償化したと記事は紹介。

しかし、日本メディアからはさらなる積極的な対策が必要であるとの意見が出ていると伝えた。

また、高齢化の問題も日本政府にとっては頭の痛い問題だと紹介。

2018年、在職の65歳以上の高齢者は862万人で就業者数全体の12.9%を占め、「労働力が不足している日本では、高齢者がすでに重要な社会労働力となっている」と指摘した。

そして、将来的には年金だけで生活するのは難しくなることが予想されるため、人生100年時代の超高齢化社会を見据えて、計画的に資産を増やし管理するよう国民は勧められていると伝えた。

さらに、少子高齢化の問題は社会生活の多くの面に影響を与え、「これには高齢者の自動車運転という問題も含まれる」と記事は分析。

2018年に内閣府が行った調査によると、75~79歳のうち45.7%が運転をしており、80歳以上でも26.4%が運転していて、60歳以上の67.4%の人がほぼ毎日運転すると回答していたと伝えた。
https://www.recordchina.co.jp/

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高齢化社会を迎え、高齢者比率は高まり、事故発生比率においても当然高齢者比率が高い分、事故発生がピックアップされるようになる。

高齢者の免許返納などを呼びかける記事が増えているが、全体に占める比率が高いことが理由にある。

単に高齢者だから事故を起こすというのは、高齢者全体には当てはまらない。

何歳まで運転できるのかと言う判断は難しい。

年齢制限と言うガイドラインも必要だろう。また高齢者向けの車と言う部分も考慮する必要がある。

安全装置のみならず、判断や予測などをカバーし、暴走運転にならない車の開発と販売は、今後の課題と競争加速と消費拡大につながるとみる。

単に事故をピックアップするのではなく、車にもガイドラインを設け、目で見てわかるようなナンバーなど、システムも車の改革も必要だ。

そもそもブレーキとアクセル間違いなど、安全対策で対応できるわけで、車検でや自動車各種保険でも監視強化する必要がある。

年齢に応じた車選びと言うか、安全装備がすべての車に切り替わるまでは、順次システム改革で対応するべきことだろうと考える。

特攻隊員になった朝鮮人

2020-01-13 17:30:17 | 日記
特攻隊員になった朝鮮人

2015年07月23日 公開

早坂隆(ノンフィクション作家)


早坂隆


光山文博の切なき歌声

大東亜戦争下、「航空機による特攻」で戦没した日本軍将兵の数は4000人を超えるが、その中には20名ほどの朝鮮人も含まれていた。


その内の一人、卓庚鉉は1920年11月5日、朝鮮半島の慶尚南道泗川市にて生まれた。後の日本名、光山文博である。

卓庚鉉が生まれたのは、日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたる。

卓庚鉉の誕生時、一家の暮らしは裕福な方だったとされる。

しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。

そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、生計を一から立て直すという道だった。

卓庚鉉がまだ幼少だった頃の話である。

訪日した彼らは、京都府に定住した。

当時の京都には、1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。

併合以降、朝鮮よりも賃金条件の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。

結局、卓庚鉉の父・卓在植は、京都市内で乾物商を立ち上げた。

こうして彼らは、所謂「在日」となった。

決して「強制」や「徴用」によって日本に来たわけではない。

この歴史的背景をまず適確に押えておかなければ、卓庚鉉の生涯の輪郭に触れることはできない。

一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。

当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。

卓庚鉉の一家もこの例に当てはまると考えられる。

光山文博は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。名門中学への進学は、彼自身の十分なる能力の高さを証明するであろう。

いずれにせよ、光山は人生の大半を日本で過ごしており、朝鮮に関する記憶は殆どなかったと思われる。

光山は日本の教育を受け、日本語を使いながら育った。その後、光山は京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進学した。

昭和18年(1943年)9月、同校を繰り上げ卒業となった光山は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。

見事、試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。

愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空要員を養成することが、同制度の目的であった。

併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。

しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。

日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると彼らは主張した。

昭和12年(1937年)、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。

翌昭和13年(1938年)、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められるようになった。

日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。

かかる時流の中で、光山は陸軍特別操縦見習士官への道を志願したことになる。

ちなみに、朝鮮人への徴兵制が施行されたのは後の昭和19年(1944年)4月、実際に徴兵が適用されるようになったのは同年9月以降のことである。

即ち、日本は欧米列強と比べても、「植民地人の軍事利用」には概して消極的であった。イギリス軍は東南アジアの戦線において、インド人兵士やグルカ兵(ネパールの山岳民族)を最も危険な最前線に投入して戦局を組み立てたが、日本軍はそのような体制は構築しなかった。

昭和18年10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した光山は、この地で航空兵としての基礎的な訓練課程へと入った。

そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、昭和4年(1929年)に女主人・鳥濱トメが開いた店である。

知覧分教所の開校は昭和16年(1941年)12月だが、同店は翌昭和17年(1942年)1月以降、陸軍の指定食堂となった。うどんや蕎麦といった麺類の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏にはかき氷も好評だったという。

光山はトメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいることの多かった光山だが、トメとはとりわけ親しくなった。

光山はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人であるという事実を告げたという。

当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいたことは、否定し難き事実である。

そんな背景を知悉していたトメは、光山に対して殊に気を使って接した。

光山は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。

トメの夫・義勇は南薩鉄道のバスの運転手だったが、二人の間には長女の美阿子、次女の節子という二人の娘があった。

当時、美阿子は17歳、次女の節子は13歳だった。光山はこの二人とも程なくして仲良くなり、共に連れ立って近くの麓川の土手などをよく散歩した。

光山には妹が一人いたが、トメの娘たちの姿に実妹の面影を重ねていたのかもしれない。

そんな光山だったが、昭和19年(1944年)7月、栃木県宇都宮市の教育隊へと転属。

トメたちとも別れることとなった。その後、光山は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山はしばしばトメに、

「知覧のおばちゃん、元気ですか」

などと綴った葉書を寄せた。

昭和19年10月、光山は陸軍少尉を拝命。

順調な昇進だったが、翌11月、そんな彼を思わぬ不幸が襲った。

京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、

「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」

という内容のものだった。

やがて、父もまた同じ気持ちであることを知った光山は、特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続いた時期であった。

周囲の戦友たちも、次々と特攻を志願していた。

上官の一人は、光山が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。

しかし、光山の決意は固かった。上官は光山の強い意志に心を動かされた。

こうして光山の特別攻撃隊への配属が決定した。

昭和20年(1945年)3月、光山は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。

同月29日、明野教導飛行師団の主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成された。

その内の一つである第51振武隊の隊員の中に、光山の名前はあった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。

第51振武隊は山口県の防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。

光山はこうして再び知覧の地を踏むこととなった。当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。

光山は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。

「おばちゃーん」

店の引き戸を開けて入ってきた光山の姿に、トメが驚く。

「まあ、光山さんじゃないの」

トメは温かく彼を迎えた。

光山の相貌は以前よりも逞しくなっているように見えた。

そして、トメはすぐに光山が特攻隊員であるという事実を悟った。

何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。

トメの推察と不安は、光山から発せられた次の言葉によって裏付けられた。

「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」

約半年前に実母を亡くした光山にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。

久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。

以降、光山は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由に認められていた。

アリランの歌

光山は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だろうと判断して促した結果であった。

そんな光山にも、確実に出撃の日が迫る。

いよいよ迎えた出撃前夜の5月10日、光山はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。光山はトメと彼女の娘たちを前にして、こう口を開いた。

「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ」

光山が心中を吐露する。

「長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たことがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていうことを忘れそうになるんだ。

でも、俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」

光山の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。

それらは、トメや娘たちが彼に贈ったものだった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊に大切にしていたという。

トメが目頭を押えながら俯いていると、光山が、

「おばちゃん、歌を唄ってもいいかな」

 と切り出した。トメは思わずこう答えた。

「まあ、光山さん、あんたが唄うの」

トメには光山の言葉が意外だった。それまでの光山は、他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時でも、一緒に声を合わせるようなことは殆どなかったのである。

「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」

「いいわよ、どうぞ、どうぞ」

薄暗い座敷の中で、光山が言う。

「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」

光山は床柱を背にしてあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直した。

トメと二人の娘は、正座をして光山が唄い出すのを待った。

光山はしばらく目を閉じていたが、やがて室内に大きな歌声が響き始めた。それは、朝鮮の民謡である「アリラン」であった。

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
私を捨てて行かれる方は
十里も行けず足が痛む
アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
晴々とした空には星も多く
我々の胸には夢も多い

彼の声の震えや鼓動、胸中に灯った心模様を想う。

哀調を帯びたその節回しが意味する歴史の重層性を、我々は真に理解できるだろうか。

この歌を知っていたトメは、光山と一緒になって声を揃えた。

トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。

それから、光山は形見として、トメに自らの財布を手渡した。

「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」

その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、

「これ、持ってって」

と差し出した。光山は、

「そうかい、おばちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」

と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら去って行ったという。

翌11日、第七次航空総攻撃の実施により、光山は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。知覧飛行場の滑走路から勢いよく出撃した。

光山の搭乗機は、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。

やがて、航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。

しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。

この戦闘において、光山も散華。享年24である。

彼は「犬死に」か

知覧町には現在、富屋食堂を復元した資料館「ホタル館」が建っている。出撃前夜に光山がトメに託した形見の財布は、ここで大切に保管されている。

色褪せたその巾着の財布には、彼方此方に深い染みが浮かんでいる。

小さな袋の内部には、虚空が収められているようにも感ずる。永劫の寂寞が時間と溶け合っている。

光山はその生涯の最期まで、朝鮮人としての矜持を忘れることなく、且つ日本軍の歴とした一員として南溟に命を散らした。

では、彼が己の命と引き換えに守ろうとしたものは何だったのであろう。

朝鮮人という意識と血肉への誇り、自らが育った日本の平和や安寧、それとも睦まやかな日本と朝鮮の友好か。

――或いは無念しかなかったのか。

単純なる散文への描写や、安易な推察は留めるとしても、光山が日本への呪詛や罵りの言葉を一片も残していないことは、軽視すべからざる事実として記しておきたい。

先の大戦中、特攻に限らず多くの朝鮮人が日本人と共に戦った。

それら全ての行為を「強制」という平面的な表現で括ることは、光山を含む先人たちの生き様に対する重大な冒涜と不遜であろう。

現下の韓国は、自国を「戦勝国側」「侵略戦争の被害者」と位置付けているが、実際は「日本と共に戦った」のが真実である。

あくまでも韓国は「日本側」であった。韓国は都合の良い歴史の歪曲を改め、史実を冷静に咀嚼する必要がある。

そして、戦後の韓国において「反日」という奔流が理性の堤防を決壊させる中、光山は「対日協力者」「親日派」として、あろうことか「国賊」「売国奴」などと罵倒されるに至った。


平成20年(2008年)5月には、とある日本人の働きかけにより、光山の故郷である泗川市に「帰郷記念碑」が建立されたが、これに地元団体が激しく抗議。

結果、除幕式が中止に追い込まれる事態にまで発展した。

泗川市の議員の一人は、「出撃前にアリランを唄ったなどという話は、とうてい信じられない」「日本軍に志願した人間を、この国の貢献者のように扱えるものか」と言い放った。

結句、記念碑は市によって撤去された。

日本側の慰霊の気持ちを、韓国側が拒否するという歪な結末であった。

現在、光山の遺影は靖國神社の遊就館に民族の別なく飾られているが、韓国側にはこれに反対する声も多い。

韓国側の歴史認識は、朝鮮人特攻隊員の御霊を無惨に毀傷している。

これは韓国人に根強く存在する「在日への差別」の断片とも言えよう。

このような韓国側の態度こそ、まさに「ヘイトスピーチ」「ヘイトアクション」そのものではないか。

韓国側の視座には、朝鮮人特攻隊員たちの心の底にあった気位や沽券、自尊心などへの洞察が著しく欠落している。無論、光山らが抱えた懊悩や葛藤の揺らぎは、日本人以上であったかもしれない。

だからこそ、日本側はその死を心から悼もうとしている。特攻を仰々しく美化する必要はないが、御霊を弔いたいという心情にまでなぜ彼らは反発するのか。主義や情念に従属した愚行である。

「売国奴」の如き軽薄な常套句を使用した刹那、アリランの調べに内包されていた光山の自負と憂悶の混和は、途端に見えなくなってしまう。それでは、歴史から学ぶことにはならない。

知覧特攻平和会館の敷地内には多くの慰霊碑が建つが、その中には「アリランの鎮魂歌碑」という石碑もある。

同碑は日本人の篤志家の寄付によって建立された。碑の前面には、

アリランの歌声とほく母の国に
念ひ残して散りし花花

という文字が刻まれている。

羞恥すべき「反日ナショナリズム」の悲哀と、それに伴う日韓関係の迷走に、光山も落涙しているのではないか。



89歳の妻を1人で……財津一郎85歳が語る“老老介護”の現実「大事なのは絶対に暗くならないこと」

2020-01-13 17:08:32 | 日記
89歳の妻を1人で……財津一郎85歳が語る“老老介護”の現実「大事なのは絶対に暗くならないこと」

「明るくキビシ~ッ老老介護」

「週刊文春」編集部

source : 週刊文春 2019年12月26日号

genre : ライフ, ライフスタイル, ヘルス, 芸能

 いつまでも1人ではやれない、でも僕がやれる間は僕がやる――そう決意を語る名優。

夫85、妻89という「老老介護」に奮闘する中で見えてきたものは何か。

同じ道を歩むであろう人に送りたいアドバイスは? 俳優・財津一郎が、自身も病と付き合いながら、妻の世話をして暮らす日々を明かす。

◆◆◆

文春さんが来てくれるなんて、人生最後のインタビューかもしれないねえ(笑)。というのも、2年前に脊柱管狭窄症を患いまして。

今は芸能活動も休止して、自宅療養中なんです。骨折した妻の世話をしながら、仲良く暮らす毎日。


◆◆◆

 東京都内にある閑静な高級住宅地の一角。モダンな一軒家から笑顔で出てきたのは、俳優・財津一郎(85)だ。

◆◆◆

今、僕ら夫婦の生活を支えているのはCM契約料

脊柱管狭窄症を発症すると、腰、ひざ、足首、消化器まで、みんな痛くなってね。懸命にリハビリして今に至っています。

仕事からは何年も遠ざかってるね。遺作のつもりで主演したのが、ハンセン病の元トランペッターを演じた「ふたたび SWING ME AGAIN」という映画。2010年だから、9年前だね。

今、僕ら夫婦の生活を支えているのは、年金と、「タケモトピアノ」のCM契約料。「ピアノ売ってチョーダイ!」というあれ、20年も流れてるんですよ。

 途中、若い人を起用してリメイクするという話も出たそうですが、(タケモトピアノの)会長さんの意向で、僕を使ってくれています。ありがたいことです。「赤ちゃんが泣きやむCM」と言われて。僕の声が、赤ちゃんの耳に心地よい440ヘルツなんだとか(笑)。


財津一郎さん

財津一郎さん

この記事の画像

◆◆◆

財津は1934年生まれ、熊本県出身。名門・済々黌高校を卒業後、上京し、帝劇ミュージカルの研究生となった。

64年に吉本新喜劇に参加。その後はコメディ番組「てなもんや三度笠」に故・藤田まことらと出演し、「非っ常にキビシ〜ッ!」や「許して……チョーダイ!」などのギャグで一世を風靡した。

ドラマ「3年B組金八先生」(79年)、映画「連合艦隊」(81年)など、俳優としての評価も高い。

◆◆◆

 タケモトピアノの撮影現場へ行くとダンサーたちがいて、振付師に「財津さん、一緒に踊ってください!」と言われたんだけど、僕は95年、61歳のときに脳出血をやりましてね。

急激な動きはできないと断ったんです。それで、皆さんがご覧になっているあの形のCMになった。

それから数年間は何とか元気に仕事もしていたんですけど、70歳のときに肺の前がん病変と診断された。

「財津さん、放っておくとあと2、3カ月で肺がんになる」と告げられて、左肺の下半分を切除した。

退院したら、息が苦しくてねえ。今は、主に右の肺で呼吸しています。

呼吸法を腹式呼吸に変えて、生き延びた。そういえば、渥美清さんも肺を切っておられたよね。

去年は心臓に水が溜まって入院ですよ。これは点滴で治療した。昨日も循環器内科に行ってきて。ちゃんと通院して、一包化された薬をもらっています。

今は状態が安定しているので、2カ月に1度くらいの検査ですんでいます。
◆◆◆

財津の体調がよくなってきた矢先の今秋、妻のミドリさん(89)が怪我に見舞われた。

◆◆◆

スロープにしておけばよかったと後悔

ママ(ミドリさん)が家の中で転んだんですよ。和室で昼寝していて、フローリングの居間へ来ようとしたときにドーンと倒れた。「ママ! 頭打ったか?」って。慌てたね。頭は打たなかったけど、右手首を骨折してしまったんです。

原因は、和室と居間の間にあるちょっとした段差だった。

高齢者は気を付けないといけないねえ。わずかな段差でも、つまずくと危険。ママも家の中だから油断したんだと思う。

今は段差をテープで埋めたけど、彼女は怖がるようになってしまった。

玄関を出ると階段があるんだけど、それも降りられない。たった数段なんだけどね。

「夕陽がキレイだから、一緒に外へ行って見ようよ」って誘ってみるんだけど、

「窓から見えるから」って言って、出てくれないの。キビシ〜ッ(笑)。スロープにしておけばよかったと、今さらながら後悔している。

区の職員に相談したら、スロープを作るにはもう少しスペースが必要と言われてね。本格的にやるのは費用もかかるし、迷ってる。


財津一郎とミドリ夫人

財津一郎とミドリ夫人

転倒しやすいスリッパは危ない

僕は今、要介護2なんだけど、介護保険を利用して月に320円で車椅子をレンタルし、使っている。

でも、最近はママが僕の車椅子にかじりついて離れやしない(笑)。家の中でも車椅子が多い。

先日、ママの要介護認定の調査をしてもらって、結果を待っている状態。判定が出たら、彼女の介護保険を使って借りることも考えています。

皆さんに気を付けて欲しいのはスリッパ。

転倒したときママはスリッパを履いてたんだけど、フローリングだと滑って危ない。

それで介護シューズを買ったけど、それも靴下のようなタイプで底がツルツルだから、ママは怖がってさ。やっぱり家の中では滑らない履き物を使ったほうがいいよ。

◆◆◆

高齢者の事故を防ぐ手立てについて、暮らし・介護ジャーナリストの太田差惠子氏が解説する。

「高齢者の事故発生場所は、7割以上が住宅内といわれます。

自宅ということでつい安心して、転倒するケースが多い。特にスリッパは危ない。

段差の解消やスロープの設置は、介護保険で1人20万円まで、一般的な収入ならその9割分が支給されます。

財津さんの場合、奥様の要介護認定が下りたら、お二人で40万円まで、自己負担4万円で住宅改修できる。まずはケアマネジャーに相談するといいでしょう。

 あと、お2人一緒にデイサービスなどを利用すれば、介護のプロが家から出る手伝いをしてくれますし、気分転換にもなります」

◆◆◆
ママの怪我以来、僕自身もベストの体調じゃないけど、食事、ゴミ出し、外の枯れ葉掃除……今は僕が全部やっている。いわゆる老老介護です。

2人の朝飯を準備するだけでフラフラ

ようやく気づいたのは、家事ってのは、今までママにやってもらってたけど、目に映る全てが仕事だということ。

一番大変なのは食事。簡単なものしか作らないけど、寝てても献立を考えるね。朝、2人の朝飯を1時間くらいかけて準備するだけでフラフラになる。

毎日買い出しに行くけど、お米なんて重くて持って帰れない。

だから、免許不要の三輪の電動バイクあるでしょ? 時速6キロしか出ないヤツ。あれを介護用品のレンタル会社から借りて、それで出かけてます。

それでも人とぶつかりそうになって危ない。自転車も大きな音もなくシャーッとくるでしょう。年をとると鈍ってくるから避けられないよ。だから、十二分に、いや十三分に用心して運転してます。

 ママが少しでも元気になって、また飯でも作ってくれるようになるまで回復すればいいなと思って、日々やってます。

財津一家(1967年)

財津一家(1967年)

◆◆◆

財津宅は二世帯住宅。息子夫婦もいるが、なるべく自分の力でやるようにしているという。

◆◆◆

何十年もお世話になったママへの恩返し

息子は日本テレビで働いててね。もう60近いんだけど、海外へ出張したりして、とても忙しいんだ。嫁も仕事をしているしね。だからまだ、手伝ってもらおうとは思っていない。

今のところ、ママをお風呂入れるところまで、全部1人でやっている。もちろんいずれは介護サービスも頼まないといけないし、施設への入居を考えなくちゃいけない。

でも、他人様がうちに入ってきて、ママをお風呂に入れたりすることが切ないんだよねえ。

ただ、先日読んだ文春がね、身につまされた。

「自力介護の『やめ時』」(2019年12月12日号)ってやつ。自力での介護は限界があるって話。

福井県の事件もあったでしょう。90歳代のお義母さんとお義父さんと、足が悪い自分の旦那さんを、奥さんが殺してしまったという。

奥さんが3人を看ていたんでしょ。1人でも大変なのに。睡眠薬飲んで、自分も死ぬつもりだったんだろうね。切ない話だね。

僕も、ママが倒れたから一生懸命介護らしきことをやっているけど、いつまでも1人でやれないことはわかっている。

ただ「僕ができる間は僕がやる!」と思ってます。何十年もお世話になったママへの恩返し。人生最後のご奉公のつもりなんだ。彼女は来年90歳だけど、100まで生きてもらいたいんだよ。

◆◆◆

いつまでも1人でやれない――。冷静に胸中を語る財津。だが、中にはそう思うことができず、なかなか家族や周囲の言葉に耳を傾けないケースもあるという。

「そういった場合、かかりつけ医さんやケアマネジャーなど、第三者から介護保険のサービスを勧めてもらいましょう。

老老介護の場合、介護者が先にダウンしてしまうことも少なくありません。元気なうちに一緒にショートステイやデイサービスへ出かけるのもいい。デイだとお風呂にも入れてもらえます。介護者がお風呂へ入れると、転倒の危険性もあります。
 
色々なサービスをお試しで受けると、外出への意欲も湧く。相性が悪ければ止めてしまってもいいのですから」(太田氏)

◆◆◆

老老介護で大事なことは「絶対に暗くならないこと」
 
僕は脊柱管狭窄症になったとき、朝も起き上がれなかった。要介護認定も最初は要介護3だった。

ただ、毎朝20分くらい体操をやっているんだ。まず亀の子タワシをふたつ持って、心臓から遠いところよりこすっていく。

足の先からね。

そしてストレッチをやって、体操。病気のせいで足首とひざが固くなっているから、ストレッチで体を伸ばして温めないといけない。

これは「生きているかぎりやる」と決めている。朝5時半くらいに起きてね。

すると、要介護度が2に下がった。朝の習慣のおかげだと思っています。体を動かすことは皆さんにお勧めしたいね。


右は「てなもんや」の盟友・藤田まこと(1994年)

右は「てなもんや」の盟友・藤田まこと(1994年)

あと、スコアを気にしない“健康ゴルフ”。何日も前から入念にストレッチして体操して、ようやく行ける。

こういう楽しみがないといけない。帰るときはママが心配だから、風呂も入らず、逃げるように戻ってくる。帰りながら、晩飯のことも考える(笑)。

皆さんにお伝えしたいのは、老老介護で大事なのって「絶対に暗くならないこと」なんだ。

僕は、ゴルフをやると明るく、元気になれる。

家を空けてママに迷惑をかけるときもあるけど、自分が明るくなれるものがないと、介護なんてできない。

やはり根アカで生きないと。

これは明るいとか華やかということだけじゃない。ピンチのときこそ志を持つ、ってことだと思っている。

年明け2月には、僕も86。人生最後のホームストレッチに差しかかっている。

競走馬やアスリートは全速力で駆け抜けようとするけど、僕は一日一日焦らずかみしめてね、ゆっくり一歩一歩ゴールに向かっていくような心境なんです。

皆さんも、花も嵐も踏み越えて、がんばってチョーダイッ!

半導体材料だけじゃない! スマホに必須の「あれ」も日本の独壇場だった

2020-01-13 17:00:56 | 日記

半導体材料だけじゃない! スマホに必須の「あれ」も日本の独壇場だった

中国

2019-09-04 05:12
 
中国メディアの快資訊はこのほど、日本には半導体材料よりも「さらに強い分野がある」と紹介する記事を掲載した。

日本と中国のシェアの格差に焦りを見せている。

記事が指摘したのは、スマートフォンやデジタルカメラに必ず搭載されている「CMOSイメージセンサー」だ。

この分野で世界トップのシェアを誇るのはソニーで、実に50%以上のシェアを占めているという。

まさにソニーの独壇場と言っても良いだろう。

記事は、日本がいかにCMOSセンサー分野で強いかを紹介。

ソニーに続いて世界第2位のシェアを占めるのが韓国のサムスンだが、20.5%とソニーの半分にも届かず、

3位は11.5%で米オムニビジョン、4位は5.6%の米オン・セミコンダクター、5位は2.6%の韓国SKハイニックスとなっている。

上位5位で世界シェアの9割以上を占めており、「中国はわずか3%ほどにとどまっている」と、ほとんどを輸入に依存している現状に焦りを示している。

世界のスマホ市場は伸び悩んでいるものの、高級・中級機種を中心に3、4個の背面カメラ搭載が主流になり、センサーの大型化は今後も続くと思われる。

記事は、中国スマホ市場は世界で半分以上と最も大きく、中国人ユーザーのカメラに求める質も高くなるばかりで、このままでは中国メーカーが性能の高い新型スマホを発表するたびに、「ソニーのCMOSセンサーに栄誉を与えてしまう」と危機感を示している。

こうしてみると、日本メーカーは素材や部品の分野で相当な実力を持っていることがよく分かる。

ソニーは現在、長崎県諫早市の既存工場内に1200億円を投入してCMOSイメージセンサーの新製造棟を建設する計画が進行中だという。ソニーの快進撃はまだまだ続きそうだ。

(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)



【新春対談】緊迫する東アジア情勢 統一日報

2020-01-13 15:46:35 | 日記
【新春対談】緊迫する東アジア情勢

現状分析と未来への提言

韓半島をめぐる情勢が緊迫している。

緊張と混乱が続くなか、憲法と法治の形骸化をもくろむ文在寅政権によって、「国体の変更」が急速に進み、今年は国会議員選挙が行われる。

一方、背景には米国・日本などの自由民主主義陣営と中国・北韓などの全体主義国家との戦いがある。

昨年は歴史的な事態ともいえる香港デモが起こり、東アジア情勢も急激に変化している。

本紙新年号では、アジア情勢に詳しい下川正晴氏、三浦小太郎氏を迎え、東アジアの現状と未来について語ってもらった。

◆メディアの問題点

過去のフレームで固定した見方(下川)

現場に行かず終わってから取材(三浦)

――複雑化する世界情勢のなかで、メディアの役割がさらに重要になってくると思われる。しかし韓日両国とも正確な情報が報道されていないという指摘もある。
 
下川 現場の声を拾っていないことが一番の問題だ。曺国に関する報道もだが、日本の報道は世論調査の数字しかみていない。

韓国で発表される統計データはあまり信用できないということが言われているなかで、支持率何%、不支持率何%といったことしか報道されない。

もちろん数字の分析も必要だが、どういった人々が太極旗集会に来ているのかがまったく取材されていない。

三浦 トランプ政権の誕生を予測するメディアは少なかった。香港の総選挙も同じだ。香港については「デモ隊が過激化し民意が離れている」との報道もされた。

過激な行為に対する反発はあっただろうが、その人たちが中国共産党に対してどういう見方をしているのかも取材すべき。

結局、メディアは現場に行かないから、正確な情報がつかめない。終わってから取材して解釈するというのが一つの流れになっている。


下川 正晴氏
――日本での韓国報道は現政権寄りのものがほとんどだが。

下川 取材をしていないから、日本での報道は韓国の新聞の焼き直しになる。韓国のメディアは、政権との結びつきが強い。

全斗煥時代に朝鮮日報が行っていたことを今はハンギョレ新聞がやっている。

権力にくっつくメディアは腐敗する。また、ソウルの特派員は大学で韓国関連の勉強をしたことのある記者が多いが、学習した過去の韓日関係のフレームでものを考え、それに当てはめる。

韓国の民主化運動などを勉強してきた結果、文在寅政権は韓国の民主化が発展した段階と見てしまう。

三浦 過去のフレームでものを考えると、”太極旗集会は年寄りしか参加していない””過激な保守運動家しか参加していない”となる。しかし、いまの太極旗デモは李明博時代の保守の運動とまったく異なっている。日々、その質や性格が変わってきている。

下川 日々、移り変わっていく状況を取材してフォローアップしないといけないが、日本での韓国関連の報道は現実に起きているファクトではなく、過去のフレームから固定したものの見方をしたものが多い。

◆韓日関係

ジアの枠組で考えるべき(下川)

両国は運命的な連帯関係に(三浦)

――戦後最悪と言われる韓日関係のなか、在日同胞社会についてどう考えるか。
 
下川 対日感情がどういうふうに形成されてきたのかを検証すべき。日本と韓国との関係を歴史的に精査して再度考察すべきだ。在日の歴史に関してもきちんとしたものが書かれていない。

三浦 在日社会の通史が必要だ。いままで極端な例がすべてであるかのように語られてきて、それらが固定フレームを形成してきた。

『血と骨』という梁石日の小説があるが、在日社会の一面にしか過ぎないものが、すべてだと解釈されてしまう。

元朝鮮大学の教授だった朴慶植の本も在日社会や北朝鮮を考えるときの基盤を作った。

親北韓の立場から書かれた本は、日本からの輸出品として韓国の左派にも利用された。

下川 朴慶植が書いた著作物を考えるとき、彼がどういう人生を歩んだのかということを理解することも重要だ。それが検証できていないというのも問題。一方、過去のフレームをリノベーションしていかなければいけないなかで、現在の社会は急速に変わってきている。

在日外国人社会というものを考えても、中国、ベトナム、フィリピンなど在日外国人が増えて、在日韓国人社会も縮小してきている。

朝鮮籍がいまはもう3万人程度だ。多様化するなかで、2国間関係だけではなく、アジアのなかで日韓関係を捉え直さないといけない。

こじれた日韓関係を修復するためにも”アジアのなかの日韓関係”という視点は突破口になる。

2国間だけの狭い関係で考える時代ではなくなってきた。

――アジアという大きな枠で日韓関係を考えるべきとのことだが現在、そして今後の日韓関係をどう見るか。


三浦 小太郎氏
 
三浦 冷戦が終わったというのはヨーロッパの話。アジアでは冷戦は続いている。

文在寅政権は流れのまま行けば、中国側につくことは明確だ。

これは日本にとっては国益上、不利。

韓国の一般人が中国につきたいとは思わないけれど、今の政治の流れというのは非常に危険。

GSOMIAもその文脈で考えなければいけない。

日本では韓国と断交すべきという声も上がるが、どれだけ日本にとってマイナスになるかわかっていないから、そういう論調が生まれるし、逆に韓国での反日運動も、それは日韓関係が安定しているから言えること。

いざとなったら、それぞれの国が生き残るためにそんなことを言っていられなくなる。

好きとか嫌いとか関係ない。中国という国が今の体制である間は、日韓というのはなんらかの運命的な連帯関係にあると考えるべき。

下川 例えば、韓国には香港情勢の話があまり伝わっていない。

韓国にはアジアに関心のある記者が少ない。日本と中国とロシアと米国をなんとかすれば、というのが韓国の政権の考え方のように思うが、メディアも同様でアジアに韓国人情報ネットワークの拠点がないといえるのではないか。

企業や個人の進出は日本以上だが、あれだけグローバルにネットワークがあるのになぜか国内に情報が還流されていない。
韓国はアジアに進出したことがなく、この10年間で初めてベトナムに進出した「井の中の蛙」。

三浦 韓国では香港の運動を民主化運動、光州事件と結び付けて考える人もいる。左派が自分たちのフレームにいれようとしていて、左派に利用される危険性を含んでいる。

◆2020年展望

短期的展望が見通せない時代(下川)

北韓の核保有は危険なモデル(三浦)

下川 いまの時代は長期的な展望は見通せる。でも短期的な展望はしにくくなっている。韓国でいえば、次の大統領が誰になるかわからない。日本も同じだ。香港情勢や台湾情勢なども急速に変化している。変化が激しく読みにくい。

三浦 香港については習近平さえ、ここまでの抵抗が起こると考えなかっただろう。中国でのウイグル人弾圧の問題も、米国のウイグル人権法案もあって、2~3カ月の間で急速に周知されるようになるなど展開が速い。

下川 本来、メディアは多様であるのならば、多様な情報をきちんと集めて分析しないといけない。大量のデータを総量分析するなどすれば、予測が可能になる。

しかし、細かな情報を集めきれていない。多様化が多様化のまま放置されているのが現状だ。

韓国に目を向けると、韓国での民主化というものは左派が独占してきた。

あるイベントで左派は民主化、右派は自由を叫んできた、と言っていたが、80年代の民主派勢力の最終形が文在寅政権だとしたら、韓国における民主主義の発展というのはどういうものだったのか。

――北韓の動きについてはどう予測するか。
 
三浦 北韓の政治目的を一言で表現すれば、南を統一吸収すること。

そうでなくとも反米親北の韓国になってくれればいい。文政権の誕生でこういった一定の目的は達成されたと見られる。北韓は核保有国。「小さな国家でも核を保有すれば生き延びることができる」というメッセージを世界の軍事国家に発信した。非常に危険な独裁国家モデルができあがった。

下川 こんな状況が何年も続くのはよくないことは明らか。いまは、情報という血流が流れていない。

動脈硬化が起きたときに薬をいれて血液をさらさらにするように、メディアにも薬が必要だ。統一日報のような媒体がその役割を果たすべき。現場にいない私たち2人に話を聞くことより、現地の声を報道すべき。


下川 正晴:ジャーナリスト。元毎日新聞ソウル支局長・毎日新聞論説委員。近現代日本史、韓国、台湾、映画を取材、執筆活動。著書に『忘却の引揚史泉靖一と二日市保養所』(弦書房)など。
三浦 小太郎:雑文家。アジア自由民主連帯協議会事務局長。北朝鮮やアジア諸民族の問題に取り組む。「正論」「Hanada」などに執筆。著書に『ドストエフスキーの戦争論』(萬書房)など。