2 呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出
私が学んだ教科書でもそうだったが、最近の教科書でも「日帝は土地を奪うために…」という文言から書き始められている。
日本統治下での土地問題を学ぶにあたって、生徒たちが最初に頭に入れなくてはいけないのは、「土地調査事業は日帝が土地を奪うために行なったものである」と意味づけられた一つの観点である。
その上で、次から「現実の諸関係はどうだったか」を見ていく、という流れになる。
生徒たちが学ぶのは何よりもそうした一つの観点なのである。
つまり、歴史についての「唯一の正しい観点」を学ぶことが、韓国では歴史を学ぶことである。
そして、その観点から歴史的なさまざまな物事を理解していこうということになる。
ようするに、生徒たちはその唯一の観点に立って、そこから足を踏み外すことなく、
歴史的な物事のあり方、性格、推移などを位置づけていく力を養いなさい,ということになる。
そういうわけだから、その唯一の観点とは別の観点で歴史を見ていくことは、歴史に対する見方の踏み外しだということになる。
個々の歴史事象については、その学び取った観点から光を当てることによってだけ意味をもつものとなる。
したがって、「土地所有を近代的に整理する」という朝鮮総督府の政策は、「土地を奪うための口実」として意味づけられることになる。
「日帝は土地を奪うため」が土地調査事業の真意なら、その「収奪」はとてつもなく過酷なものでなくては意味をなさなくなってくる。
そうであれば、朝鮮総督府の資料に基づいて知られる「朝鮮総督府が接収した農地は全耕作地の3%」という数字は余りにも少なすぎるため、とうてい採用することはできない。
採用すれば観点そのものが崩れてしまう。
そこで教科書では「40%の土地を奪った」とするのである。
この数字の根拠は不明で,「日帝は土地を奪うため」という観点との整合性をもたせるための数字だというしかない。数字の出所や計算方法は、教科書ではまったく示されていない。
反日教育は反日民族主義教育として本格化される。その第一の前提におかれるのが、「生来の野蛮で侵略的な資質をもった日本民族」である。
この日本民族の性格は、日韓関係の歴史を次のようにとらえる歴史観から導き出されるものだ。
韓国は文化も何もなかった時代の日本に、儒教・仏教・技術をはじめとする高度な文化を伝えてあげた。
にもかかわらず日本はその恩を忘れ、古代には「神功皇后による三韓征伐」や「任那日本府(日本による朝鮮の植民地)」があったなどの捏造記事を国史に記載し、
中世には豊臣秀吉による朝鮮侵略が行なわれ、近世末には国学者らにより韓国征伐論が唱導され、
明治初期には政府内に征韓論が火を噴き、韓国の江華島に砲撃を加えて戦争を仕かけ、明治末に韓国を併合して36年にわたる暴力的な支配を行なった―。
このように歴史を連続させ、この流れを一連のものとみなして、その根本的な原因を「日本民族の野蛮で侵略的な資質」に求めるのが、韓国の反日民族主義史観である。これが反日教育の柱となる。
日本民族というのは、そもそもからして野蛮な侵略者だったという考えが、なぜ出てくるかというと、古くからの朝鮮半島諸国には、日本を蔑視していた歴史があるからである。
なぜ日本を軽蔑したかというと、朝鮮半島諸国が奉じた中華世界では、華夷秩序(かいちつじょ)が正しく善なる世界システムだからにほかならない。
世界の秩序は「文明の中心=中華」と「その周辺の感化・訓育すべき対象としての侵略的で野蛮な夷族」で構成される、というのが華夷秩序の基本的な世界観である。
中華世界の中心にあった中国とその忠実な臣下だった歴史的な朝鮮半島諸国は、日本という国を千数百年にわたって、「その周辺の感化・訓育すべき対象としての侵略的で野蛮な夷族」とみなし続けてきた。
韓国の日本観の根本にあるのは、こうした歴史的・伝統的な意識体験に由来する侮日観なのである。
シナ皇帝の使者を属国朝鮮として迎えた「迎恩門」。日清戦争後の日本が清から独立させると取り壊され、代わって「独立門」が建立された
道徳的に優れた上の者が、道徳的に劣った下の者を、常に訓育・感化していかなくてはならないという儒教の考えが侮日観を形づくっていて、これが韓国の対日民族優越意識の根本にある。
さらに韓国には、自らこそ中華の正統なる継承者であるという小中華主義の誇りから、潜在的なエスノセントリズム(自民族優越主義)がある。
そのため、対日民族優越意識がいっそう強固になっているといってよい。
竹島問題にしても、靖國神社をめぐる問題にしても、慰安婦問題にしても、我々が文化を与えてきた、本来は我々の下に立つべき日本人が、我々を下に見て、我々をばかにしていると、そういう感覚からの反発が第一となっている。
そもそも民族主義とは、戦後に独立したアジアやアフリカ諸国の民族主義をみても、まずはエスノセントリズムから出発したといえるかと思う。
かつての西洋にも、これを拡大した白人優越主義があった。我が民族は他民族に優越する優秀な民族だというエスノセントリズムは、民族国家の出発に際しては多かれ少なかれどこにもあったものだ。
それを秘かに思っていようと、常に公言していようと、初期の民族主義成立にはそういう自民族優越主義の要素が不可欠だったと思う。
しかし韓国の民族主義はそこから一歩も進まない。
なぜかというと、民族主義の内容が反日と結びついた反日民族主義だからである。
反日なくしては韓国の民族主義が成り立たない。反日の理念を核に国民国家の意識を形成してしまったのが韓国である。こんな国は他に例がない。
結局のところ、韓国の反日民族主義の根は日本を蔑視してきた歴史にある。
日本統治時代への恨みが反日の根拠となっているのではない。日本が韓国を統治したというのは、そういう蔑視すべき民族がもたらした結果であって、日本統治を原因として日本蔑視の反日民族主義が興ったのではないのである。
来日2、3年目にぶつかる壁
学校教育で身に付いた、反日感情に裏打ちされた反日意識は、成長するに従い、社会的・国民的なコンセンサスとしてあること、韓国人ならば誰もがもつ常識であることを自覚する。
異議・異論と一切出会うことがない社会環境で、疑問の余地なく韓国人としての自分のアイデンティティとなっていく。
こうして私は、「反日心情・侮日観」と「唯一の正しい歴史認識・反日民族主義」の混合体を強固に抱えもつ、「新世代の韓国人」へと成長していった。
私は小さい頃から、島から半島へ、半島から世界(欧米)へという志向が人一倍強かった。
男尊女卑の強い韓国社会を脱して世界に羽ばたきたかった。
そこでアメリカへ留学したいと思ったが、当時の韓国ではアメリカのビザ取得はきわめて困難だった。
そのため、まず何人かの親戚も生活する日本へ留学し、日本を足場にアメリカへ渡ろうと思った。三十数年ほど前のことである。
日本へ留学する数カ月前、たまたま機会があって、韓国のキリスト教教会の関係で、日本の老人ホーム慰問団の一員として初来日を果たした。
1982年12月から翌年の1月にかけての短い期間だったが、そのときに私が体験した日本は、韓国にいるときにイメージしていた日本とはまるで違っていた。
日帝時代を頑迷に反省しない日本人―決して許してはならないと強く思っていた私は、どこへ行っても優しく親切な日本人に触れて、大きく肩透かしをくった感じがした。
わずかに触れた日本の生活風習も、私にはとても好感のもてるものだった。
駆け足での体験とはいえ、滞在した一カ月の間、悪い印象はまったくなかったことは大きなショックだった。きわめて驚くべきことであった。
イスラム過激派に拉致・殺害された邦人男性の父親は取材を受け「皆さまにご迷惑をおかけしました」とまず詫びた。この冷静な態度を称賛したり、理解しがたいとしたりする声が韓国で上がった
私がはじめて知った日本は、そのようにとても印象のよいものだった。
反日意識に変わりはないが、「これなら、それほど緊張することなくやっていけそうだ」という感じをもてた。
いや、表面だけではわからないぞ、とも思うのだが、帰国した私は気を昂らせながら日本へ渡る留学手続きに奔走した。
留学生ビザを手に日本にやって来たのは1983年7月のことだった。
留学生として、また仕事関係で日本に長期滞在する場合、ほとんどの外国人、とくに韓国人や中国人は、来日1年目はとてもよい印象をもつものである。
韓国人には多かれ少なかれ、日本人=未開人、野蛮な人たちというイメージがある。
しかし、実際に日本人と付き合ってみると、誰もが親切で、優しくて、思いやりがあって、未開人的な、野蛮人的な日本人はどこにもいないではないか、日本はなんて素晴らしいのか、ということを誰もが感じる。
なんといっても、日本は自然が美しい。そして、空気がきれい。しかも、治安がすこぶるよい。
とくに反日意識が刺激されることもなく、こうした日本の良さを感じながら、最初の一年は楽しく過ごすことができるのが普通だ。
しかし1年が過ぎて、もう一歩踏み込んだ付き合いをすることになる2年目、3年目になると、多くの韓国人は日本人がさっぱりわからなくなる。
価値観が違うし、善悪の考え方も違う、日本人の精神性、メンタリティーがどうにも理解できないことになってしまう。人によって、程度の差はあるけれども、だいたい2年目、3年目で落ち込んでしまう。
もはや日本人は人間ではないとまで思う人たちもいる。私もそう感じて深刻に落ち込んでしまった。
同じ人間なのに、日本人はなぜこうなのか、日本は人間が住む社会ではないとまで私は落ち込んでしまった。日本人は我が国を貶めてきただけに、やはりおかしな人たちだったのだと思うようになっていく。
実際には、本格的な異文化体験がはじまったということなのだが、異文化ゆえの異質性が、根にある反日意識と結びつき「人間としておかしい」といった感覚的な判断を生じさせてしまうのである。
その典型を、日本に2年半滞在して韓国に戻った韓国人の女性ジャーナリストに見ることができる。
彼女は、帰国して書いた本で「日本に学ぼうという声が高いけれども、日本のような国には絶対学んではいけない」、なぜかといえば、日本人は異常な人たちだからだ、というように書いている(田麗玉「日本はない」、日本語版「悲しい日本人」)。
どんなことから、彼女は日本人は異常だというのか。たとえば彼女は、「日本人の割り勘は、その場限りで人間関係を清算しようとする冷たい心の現れだ」と書いている。
ことごとくが、2年目、3年目でぶつかった、異文化ゆえの習慣の違いや価値観の違いに関わることなのである。
それが反日意識と結びつくため、すべて日本人の「悪意の現れ」としてしまうのだ。
私も2、3年で韓国へ戻っていたら、彼女と同じ考えのままだったと思う。
そこには、自民族の文化を価値規準にして、他民族の文化、生活習慣、思考様式、行動形態などを、みっともない、不合理だ、間違っている、劣っているなどと否定する傲慢な態度がある。
自文化の価値体系こそがどこよりも正当なものであり立派ものだと頭から信じられている。
その弊害は、自分に都合のよい空想をもって現実を見ようとはしないさまざまな面に現れてくる。
韓国の「反日」は「反日心情・侮日観」と「唯一の正しい歴史認識・反日民族主義」の混合体である。そのように完成された一つの固定した考え、揺るぎのない考えである。
一つの固定した考え、完成された考えにはその先がない、未来がない、そこが終局の地点となっている。だから相手の考えを耳に入れる余地がない。
多角的な視点から物事を見て判断することができない。自分のいやな事、知りたくない事、興味のない事を無視しようとする。
そういう相手には、いくら誠意をつくして話しても、わかってもらえることがない。
なんとしても「話せばわかる」ことにはならないのである。
ようするに「反日」は一つの硬直した固定観念であり、それが養老孟司氏がいうところの、自分の思考を限界づける「バカの壁」となっているのだ。
そのため話が通じないのである。来日2年目、3年目にぶつかる壁が「バカの壁」だとは、誰も容易に気づくことができない。
そこで私のように落ち込んだり、「日本人は人間ではない」とまで思うことになってしまうのだ。
大邱地下鉄放火事件で政府高官に食って掛かろうとして取り押さえられる遺族。韓国では事故や事件などで激しく取り乱す遺族が少なくない
「反日」を脱するとは、この「バカの壁」を超えることにほかならない。簡単にいえば、柔軟に、多角的に、相対的に物事を見て判断する、といったことになるだろうが、これが韓国人には実に苦手なのである。
たとえば、人は現実社会のなかで、家族関係、友人関係、先輩・後輩関係、集団関係など、さまざまの実際的な人間関係の体験を通して、自分なりの物事への対処の仕方を身につけていく、という考えがある。
それに対して、人には本来的な人間のあるべき姿があって、これを目標に社会のなかでさまざまな物事を体験することによって、正しい物事への対処の仕方が自分のものになっていく、という考えがある。
日本人の多くは前者のように考え、韓国人の多くは後者のように考えている。
仮に前者を実際主義、後者を理念主義と呼べば、実際主義では「現実的な人間関係」が先にあり、理念主義では「理想的な人間像」が先にある。この「理想的な人間像」が「バカの壁」となっているのが韓国人である。
また、多くの日本人は、善悪・正邪は相対的なものだという。
しかし多くの韓国人にはどんな場合も変わることのない絶対的なものである。だから、善悪・正邪は時々で異なるものだといった日本人は「人間ではない」とまで思えてしまうのだ。
倫理・道徳も韓国人にとっては相対的なものではない。人間ならば絶対に守らなくてはならない真理である。
しかし多くの日本人は、倫理・道徳は大切ではあるけれど、それは「時・場所・場合」によるもので、普遍的にあてはめて説くべきものではない、倫理・道徳を説く理念は立派なものだが、それは第一に優先されるべきものではない、と考えている。
韓国人の場合は、「倫理・道徳」は完璧で揺るぎのない「バカの壁」となり、自分自身の心を縛ってしまうのである。
多数の韓国人が、来日2、3年でぶつかる壁を越えられない。
だが、そこをなんとか乗り越えて、5年ぐらい居座っていると、異文化としての日本が見えてくる。
だいたいは日本のよさが理解でき、日本が好きになっていく。私もそうだが、そういう韓国人が多いのは確かである。
それでも「反日」だけは抱え続ける人もいる。
そこでは反日意識と親日感が同居する。「公的(理念的・外面的)には反日、私的(実際的・内面的)には親日」というようになっていく。
現在のように情報が自由に飛び交い、日韓交流が盛んな時代では、韓国に居ながらにして「公的には反日、私的には親日」という人が大部分といってよい。
「反日」をひとたび棚上げにしさえすれば、韓国人の誰でも日本人と親密に付き合える。
国交という面でいっても、かつての日韓関係でも日中関係でも、できる限りそう処して付き合おうとしていた時代があった。
しかし、そのままではやがては限界がくる。現在の最悪ともいえる日韓関係が如実に物語っている。
物事への相対的な視線の大切さ
知識人であればあるほど、「反日」から抜け出ることが難しいようだが、人それぞれの脱し方があると思う。私の場合を振り返ると、そこには大きく三つの契機があった。
一つには、来日3年目で最も落ち込んでいた頃、「郷に入れば郷に従え」を徹底的に実践してみようと思い立ったことである。
たとえば、日本人好みの渋みある茶碗。「あんなもののどこがそんなにいいのか」と蔑む気持ちがあった。そこで「韓国人好み」をひとまずカッコに入れて、そうした茶碗を次々に買い求めていくことにした。
そのうち収集が趣味ともなって、大きな楽しみになっていった。習慣・価値観・美意識などを含めて、そうしたことをやっていった。
直接「反日」とは関係ないが、先に述べた「日本人は人間としておかしい」という感じ方が崩れていく大きなきっかけとなった。
二つには、日本人ビジネスマンに韓国語を教え、韓国人ホステスやビジネスマンに日本語を教える語学教師を数年間やったことである。そこでは、否(いや)が応でも日本人からは韓国人との行き違いの悩み、韓国人からは日本人との行き違いの悩みを、さんざんに聞かされるのである。
韓国人ホステスたちの悩みは、日本人の彼氏との悩みが多く、また結婚している人もいて、彼女たちは日本人家庭での嫁姑の問題で悩んでいる。日本人ビジネスマンの悩みは、会社を背負って韓国に仕事に行ったが、どうにも勝手が違うので交渉事がはかどらない、仕事の手順が合わない、といったものが中心だった。
聞けば聞くほど、私が悩んでいたことそのままである。嫁姑の問題やビジネスの問題を超えて、そこには共通の日韓の「行き違い問題」が伏在していることを知った。
韓国人は、自分の行動や思考をよしとする一方で、日本人をおかしな人たちと見ている。それにまったく匹敵する程度で、日本人も同じように韓国人をおかしな人たちと見ている。日本人と韓国人は、実に合わせ鏡のような相互関係にある。いや、あるというよりは、そこへと無意識のうちに落ち込むのである。
私が美しいと思えないものを、なぜ日本人は美しいと思うのか―。それは私のテーマであり、また私の語学教室の韓国人生徒たちの切実なテーマでもあった。
韓国人ホステスたちと日本人ビジネスマンたちの時間の都合から、私は主に、昼は韓国人に日本語を、夕方からは日本人に韓国語を教えた。この行ったり来たりが、おそらくは日韓をめぐる物事への相対的な視線を養わせたのではないかと思う。
「反日」からの脱出
三つには、日韓ビジネスコンサルタント会社でアルバイトをしていた関係で、仕事で韓国とつながりをもつ人たちが行なっていた勉強会に参加したことだった。メンバーは、大企業の幹部社員、弁護士、弁理士など、そうそうたる第一線のビジネスマンたちだった。
勉強会では、まずはみなでそれぞれ自分の韓国での体験を話す。最初は一様に韓国のよさをほめている。
しばらくすると、しだいに韓国の悪口が出はじめ、会のなかごろからはいっせいに韓国と韓国人への猛烈な批判が展開されるようになる。
彼らの舌鋒は私の存在にまったく頓着することのない、実に厳しいものだった。もちろん歴史認識の問題についても、領土問題についても、靖國問題についてもである。
私はしだいに腹が立ってくる。しかし「感情むき出し」といわれる韓国人の弱点はみせまいと、必死にがまんをして、できるだけ冷静に反論するようにしていた。
それでも時折、大声を張り上げて反撃することは少なくなかったと思う。
現在からすればとても信じられないかも知れないが、私が日本にやって来た1980年代当時は、韓国に厳しいことをいう日本人はきわめて少なく、総督府の朝鮮統治についても、韓国の主張と真っ向からぶつかるような議論はそうそう見られなかった。
日本の有力紙が、北朝鮮へのシンパシーを記事の中で示すのも珍しいことではなかった。朝鮮半島をめぐる言論環境は、当時と今とでは大きく違っていたのである。
そうした状況で、知韓派日本人から遠慮会釈もない徹底的な「韓国批判」を突きつけられることなど、あり得ない希有な体験だったと思う。
よくあるように、彼らが「日本人は韓国人にひどいことをしたね」とばかりいう人たちだったなら、間違いなく今の私はなかったと思う。
勉強会を通して、韓国では日本の朝鮮統治を、自民族に固有にふりかかった災難という観点だけでとらえ、人類史的なテーマとして植民地化の問題を追究する姿勢がまったく欠落していることを思い知らされた。欧米の研究者でも、日本の統治をおおむね「善政」とみなしている論者が大部分であることを知った。
マレー作戦成功でシンガポールの英軍に降伏を促す山下奉文中将(左から3人目)ら。大東亜戦争で多くのアジア諸国が欧米の植民地支配を脱した
欧米人のなかにすら、日本の戦争を、アジア諸国の植民地からの解放と独立に一定の役割を果たしたと評価する考えがあることを知った。韓国にいた時分の私は、世界にこれほど多様な観点があることなど、思っても見なかったのである。
この勉強会で私は、「これは真剣勝負なんだ」と自分自身にいい聞かせ、彼らと正面から向き合っていったと思う。その体験を通して、それまでの自分の歴史認識を見直していく方向への道が、しだいに開かれていったのは確かなことだった。
私の体験はかなり特異かもしれない。しかも三十年を遡る時代のなかでの体験である。
それでも「来日2、3年でぶつかる壁」は現在のものでもあり、この壁との激突の内に、反日からの脱出可能性が秘められていることは、示すことができたのではないかと思う。
現在の日韓関係がぶつかっているのも、まさしくこれと同じ性質の壁なのである。
お・そんふぁ
1956年韓国済州島生れ。志願して4年間の軍隊生活を送る。昭和58年大東文化大学に留学。平成6年東京外国語大学大学院で修士課程修了。同年から執筆活動を始め、日本で働く韓国人ホステスを取材した『スカートの風』がベストセラーに。新潟産業大学非常勤講師、拓殖大学客員教授を経て同大国際学部教授。『攘夷の韓国 開国の日本』で8年に第5回山本七平賞。日韓関係や韓国の民族性などについて客観的な論評を続ける。現在は日本国籍。客観的な論評が「反韓的だ」と19年以降、韓国から度々入国を拒否されている。『韓国併合への道 完全版』『「見かけ」がすべての韓流』『日本浪漫紀行 風景、歴史、人情に魅せられて』『漢字廃止で韓国に何が起きたか』など著書多数。近著に『「反日韓国」の自壊が始まった』(悟空出版)。
※別冊正論23号「総復習『日韓併合』」 (日工ムック) より転載