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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】葵祭二〇二五,OCNブログ時代gooブログ時代とそのさきに

2025-06-04 20:00:58 | 日記
■gooブログ時代
葵祭の写真と共に雑談を。

AIが危機をもたらす、スマートフォンが負担を増やす、こう思うのは昨今のAIの描画能力の高まりと、そしてスマートフォンの制裁だけれどもデータ容量の大きな画像データや動画データです。これ、個人がアップロードするデータ量の増え方が急加速している。

OCNブログ時代、北大路機関のデータ容量は30MBまで、と言うと驚かれるでしょうか、おどろかれるでしょうね、30MBなんて要領はいまのRAW画像だと数枚でもう一杯になってしまう、そもそもSDカードでも最近は30MBなんて容量は見ない。

300MBに増えたのは数年後でしたか、それでも結局データ容量を増やすために有料プランに移行したのが、2009年だったように記憶します、あのころはフォトアルバムサービスがあって、行事の写真ファイルをサイドバーに並べていました。

OCNブログの廃止とgooへの移行のさいにフォトアルバムは移行できないというやむを得ない理由で消えてしまいましたが、東北方面隊記念行事が一番上にあったフォトアルバムの北大路機関画面構成、覚えておられるのはかなり古い読者の方でしょう。

TwitterというかXは、いま動画とあと写真を最大4枚までアップロードできますが、iPhoneで撮影した高画質の写真は一枚6MBくらいのものがありますから四枚貼れば24MB、最初のOCNブログの時代ならば、もう大半が四枚で埋まる。

AIの特に生成系AIによる描画、アニメーションキャラクターの描画などは一瞬で、いうほど項目指定は簡単では無いようで慣れるまでは数時間かかるそうですが、慣れてしまうと手書きより遙かに描画が早い、短時間でたくさん作成できるのです、おどろくほどに。

無料でデータをかなりの容量、アップロードすることができまして、TwitterといいますかXについては一定以上経過したデータを自動消去するような機能があるといいますが、YOUTUBE等を含めるとかつてとは考えられないほどのデータが行き交う。

HDの容量、というよりも北大路機関創設当時のPCがHDD容量で20GBしかなく、いまはカメラのSDカードが256GBありまして、1TBがパソコンのほぼ標準的な容量でHD容量という単語さえ死語となりストレージ容量とよばれる時代ですが。

AIについては、基本的に様々な分野を自動化するため、省力化が逆に雇用を奪う、こう危惧されていた一方、それよりもこれまで描画をしなかった方々が大量のイラストなどを投稿する時代となり、これも様々な負荷を与えることとなるのではないかな、と。

リソースは有限ではなく拡張されているというのは、PCのHD容量というかストレージ容量をみていますと納得します、いや、正確にはストレージ容量はHDDからSSDへの転換で速度重視により容量はたしかに一時的に低下はしていますけれども。

写真と云いますか、個人が映像や画像を投稿する手段は増えていますが、増え方がどのくらい急なのか、スマートフォンの普及で誰もが高画質の写真を、生成AIの影響で誰もが秀逸なイラストを大量に投稿できる時代が定着して既に数年を経ているのですが。

既に掲載した写真をどのようにWeb上に残すかがしくはくしている一方、大量の画像データが行き交う時代に、負担というものはどうなるのか、Weblogを19年維持している身の上からしますと19年後の2044年を考えてしまうのですよね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
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【京都幕間旅情】葵祭二〇二五,賀茂神社への斎王行列は斎院と斎宮と葵の上と六条御息所

2025-05-28 20:25:02 | 日記
■斎院と斎宮
 斎王行列と共にひとつその歴史を思い浮かべてみる事としました。

 斎王、伊勢神宮の斎王が有名ですが朝廷は賀茂神社にも斎王として内親王を差し出していました。伊勢神宮の斎王と区別するために、賀茂神社のほうへさし出されます斎王は斎院とよばれていました。

 伊勢神宮に差し出される斎王は斎宮といわれていまして、実のところ斎院と斎宮とをあわせた総称が、斎王という呼び名であったりするのです。その存在は既に日本書紀にも記されているもの。

 21世紀の斎王はもう皇女というものを差し出せるような公序の時代ではありませんので、オーディションで選ばれるという。下鴨神社と上賀茂神社で隔年交代という制度を採っていたりするのですが。

 賀茂神社への斎王行列、しかしもともとの祭事は、五穀豊穣のために悪天候をどうにかして欲しいという国家行事でしたので、その主役はどうにかしてもらいに行く勅使のほう、ということになります。

 葵祭の主役は斎王であるとともに始まりの頃の主役は勅使の方である、こう既述しましたけれども、歴史装束に身を包んでの行列は平安朝のころから、なにか変化を求める人々の注目を集めていたという点は同じ。

 源氏物語にもその様子がえがかれているという事も既述の通りです。ただ、行列を見物するために場所争いというのは、いまでは京都府警が止めてくれますが、平安朝の頃はけっこう派手にもめ事があったといいます。

 光源氏は桟敷席から紫の上と行列を眺めるときは、それはもう桟敷席を構築する段階出場所撮りのもめ事は解決しているわけですので、光源氏自身はドンパチに巻き込まれることはなかったのでしょうけれども。

 葵の上と六条御息所、牛車の中から見物するという、身分の高い方々がどうしても祭事を見たいときには下車よりも牛車から眺めることが流儀とされて、源氏物語の作中で車争いの描写があるという、助けて検非違使、と。

 平安朝の頃から今日に至るまで、日本ではこの種の祭事は変化のない日常に変化を、ということもありまして行列見物は数多かったようです、実際、桟敷席は勿論のこと櫓まで組んで見物するというかたも。

 櫓を組んで、といいますと昨今では脚立を持ち込んでいるような感覚に思われるかもしれませんが、実際には商売用に客を乗せる櫓であり、歴史絵巻には櫓も、人が乗りすぎて倒れる様子なども描かれて至ります。

 宮内庁、葵祭の祭礼衣装は宮内庁から貸し出されて戦後、戦後といっても応仁の乱ではなく第二次世界大戦、祭事が再開したという歴史がありまして、それだけに文字通りほんものの宮中行事であることがわかります。

 源氏物語にも、とまあこう記載しましたわけですが、華やかな王朝文学とともにその優美な平安朝の歴史を示す中にあっても、祭礼行列のようなきらびやかな瞬間は、そうそう見られなかった事を示している。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】葵祭二〇二五,五穀豊穣願う国家行事は今の時代のコメ高騰時代に通ず

2025-05-28 20:00:33 | 日記
■葵祭二〇二五
 私事なのですけれどもコメの買い置きがそろそろ買い足しに行かなければならない最中に。

 葵祭が五穀豊穣を願うならば、そう、五穀豊穣というものは決して余所事ではなく、令和の時代に在っても、特に昨今のコメ不足、ではないもののコメ高騰の時代に在っては大きな関心事の筆頭ではある。

 筆頭、一つではあるとPOMERAで書いたものの誤植で筆頭とするほどには本心では大きな問題であると認識しているようで、さて、減反政策が続けられて一方で漸く農業従事者の能力が実った程度の時代だが。

 六月がつぎの日曜日に迫っている中で、十年前二十年前を考えると五月下旬はこのくらいの暑さだった、けれども数年間を考えると五月中旬の千僧駐屯地祭では暑くて上着を着るのが大変だったよう記憶して。

 気候と農業は不可分のものですので、この数年間、夏は暑いではなく夏は熱いの時代が続いていまして、稲作も品種改良により酷暑に対応できる品種に切り替えられているのですが、今年も熱いのだろうか。

 五穀豊穣というわりには稲作以外、麦はまだ国内で商品作物としての地位を持っていますが、粟や稗という気候変動に強い雑穀は、寧ろ少なすぎて希少価値を持ってくるほどの時代、稲作が重要となります。

 気候変動は、日照りや水不足というものはここのところの常態化した異常気象というもの、熱い季節こそが平常ではないかという時代が数年続いた中で、普通の気候に戻った場合、稲作は例年通り成り立つのか。

 高騰する米価、いっそ今のうちに緊急輸入を行ってはどうか、第一次トランプ政権時代には九州のジャガイモが不作という報道があると、直ぐにトランプ大統領が安倍総理に電話会談を申し入れた事があったが。

 緊急輸入というと平成の米騒動という1992年の、あれはフィリピンのピナトゥボ火山噴火による冷夏が不作を招いた、ここ数年だとトンガのフンガトンガフアパイ火山の破局噴火が合ったことを思い出す。

 破局噴火、日本へは大気圧変化による津波が押し寄せましたが、火山は気候に影響を及ぼす。そして食糧は10%足りないと認識されると市場価格は二倍に跳ね上がる、こうした市場原理があります故に心配が。

 農水省はコメが充分足りているという視座をほんの一ヶ月前まで堅持していましたが、実測収穫量ではなく、サンプル調査により収穫量を推測している実情が、実際の収穫量を反映していないという批判もある。

 5kg5000円前後という実情を、新しく農水大臣に任命された小泉農水省は、政府備蓄米を古米なので5kg2000円を目指すとして、トップダウンによる市場安定化に東奔西走しつづけているのですが。

 葵祭は五穀豊穣を願う祭事ですので、今の時代に、飢え、というものは過去の認識のように思われていますが、昨年の南海トラフ地震臨時情報に伴う買い置き以降、なにか箍が外れたような不安があるのですね。

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【京都幕間旅情】葵祭,はじまりは欽明天皇の時代-国家危機としての悪天候と飢饉予兆への祭事

2025-05-21 20:25:17 | 日記
■勅使の祭礼行列
 京都における葵祭の歴史はとても長くまたはじまりもなんとなく的に始まっているのです。

 国家行事としての祭礼、日本の場合は国家としての歴史が非常に長く、奈良時代の律令制度として国家のかたちが一応形成されますと、その制度は幾多も改編を経ているのですが統治機構が継承されたことに驚く。

 欽明天皇の時代、POMERAで欽明天皇という変換が直ぐに出たことに驚くのですが、西暦にして567年のころ、この年は悪天候により稲作は勿論、五穀いずれもこれ実らずという状況であったため、国家的危機となる。

 葵祭の始まりはこの欽明天皇の時代、大飢饉の予兆になんとかしなければならないという気運とともに朝廷が調べたところ、賀茂の神の祟りだと云うことが分かったという、神との戦いと安易に進めるのは今の感覚だ。

 若日子というかたがここで賀茂の神々に許しを請う祭事を執り行うよう、朝廷から命じられ、その勅使となって若日子がいまの上賀茂神社の方に向かって祭礼の列を組んで巡幸したのは、この祭事の始まり、という。

 猪頭をかぶった御者たちによる歴史行列、なにか鬼でも滅しそうな刃をもっていないか不思議になるような出で立ちだったともいわれています祭事の行列は、そのまま馬の駆け比べなど神楽に代えた祭事の奉納を行い。

 競馬、くらべうまとよむもの、カサマツとかのケイバとか馬娘とかは関係ないくらべうまの神事というものも、つまり五月初頭の賀茂競馬ももともとはこの葵祭が起源ということですので、歴史の長さが分かるのですが。

 勅使の祭礼行列をおこなった欽明天皇の時代の祭事が、この葵祭の始まりという。どのくらい神楽を舞ったのかは、逆にわたしが知りたいところなのですが、とうとう悪天候が収まり五穀にも芽吹きがでたという。

 五穀豊穣、いまでこそ商売繁盛というようなものとか学業成就というものを考える余裕がありますが、それは食べるものがあって初めて成り立つもの、この祭事を経て五穀豊穣が成ったことが朝廷で記録されたとされる。

 弘仁年間の弘仁10年こと西暦819年には、五穀豊穣を祈る国家行事ということで調停の律令制度恒例祭事という取り扱いが為されることとなり、この平安朝中期に当たる時代も日本は飢饉と闘っていた事を示します。

 中祀、という祭事の位置づけとなりましたこの現代の葵祭ですが、歴史文学にもその様子が示されていまして、源氏物語、NHK大河ドラマでおなじみとなった源氏物語にも幾度かその様子が紹介されているほどで。

 源氏物語では、光源氏が細君の紫の上とともに桟敷席からこの歴史行列を眺めている様子が描かれると共に、光源氏自身が勅使の役を仰せつかったこともある、と言うように祭事そのものが描かれています。

 光源氏の桟敷席、平安朝の頃から、あのころは勝手に桟敷席を構築して料金を取っていたようですが、今の京都市が設置する有料席につながるようなもので、昔からやることは同じなのだ、とちょっと笑ってしまいますね。

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【京都幕間旅情】葵祭,賀茂祭-平安朝の頃は祭といえばこの祭事を示した-国家行事の形式をそのまま祭事として継承

2025-05-21 20:00:10 | 日記
■賀茂祭
 葵祭の様子です。

 国家行事の形式をそのまま祭事として継承して毎年おこなっているものは、この葵祭くらいではないか、こういわれて国家行事、神社の行事ではなく政府の行事が祭事化されたものを考えるが、思い至らない。

 政府というよりも朝廷というべきなのでしょうけれども、そういった祭事を歴史絵巻として継承されて今年も執り行われているということを実際にけんぶつするというのは、なにかこう奥ゆかしさを感じる。

 葵祭、賀茂祭という。加茂街道、撮影したのは鴨川沿いの加茂街道にて、時刻は午後もかなりすぎたところで、しかし考えると五月中旬にしては例年になく冷涼というかまだ暑くないことに救われます。ここから京都は暑い季節を経て熱く。

 歴史行列が目の前を行きますこの祭事は、平安朝のころには祭事、京都で祭りといえばこの葵祭を示したといいまして、しかし下鴨神社を下加茂と変換したりまだまだコンピュータ時代も過渡期だという事を痛感しつつ時代行列の写真を見ます。

 北祭、北大路機関祭りではないのですけれども、かつては京都を代表する祭事であったとともに、南の石清水八幡宮、弓のカミサマという石清水八幡宮の祭事を南祭と分けまして、北祭と呼んだ時期もあるという祭事です。

 木曜日に行われました葵祭は、どうでなら観光客を呼び込むためにどどんと日曜日にやればいいのに、こう思われる方も少なからずいらっしゃるようですけれども、実際のところ行う日にちが決まっているという実情があったりする。

 陰暦四月の酉の日、つまりいまの太陽暦ですと五月十五日に執り行われる祭事で、515というと515事件を思い出す方も多いでしょうが、たぶん、犬養首相がやられたあの日も、京都ではこの祭事をおこなっていたはず。

 祇園祭と葵祭の時代祭、いま京都では京都三大祭りをこう並べます、いや最近は、というよりも昭和の頃からはここに五山送り火を加えまして京都四大祭りと呼んだ時代もあったようですけれども。

 京都三大祭り、この祭事にあって葵祭は、朝廷が執り行った祭事という点で大きな意味があります、それは祭事のなかでも公式行事として執り行われたものが、形式的とは成ったものの継承されているという意味で重要です。

 祇園祭、日本三大祭りとして数えられるこの祭事については、そう、考えればもう祇園祭の始まりまで一ヶ月とちょっと、というところですが、こちらは庶民の祭事としてはじまった歴史がありますので、葵祭との違いといえて。

 日本三大祭りは神田祭と天神祭に祇園祭、東京と大阪と京都、という並べになっていますが、もともと祇園祭は疾病はらいの神事にさいし、御旅所から八坂神社までの神幸行列に町衆が幟を立ててついていったのが始まり。

 宮中行事である葵祭は、斎王行列として上賀茂神社、当時は賀茂神社、そこへと至る斎王行列という神事を、この斎王という制度が朝廷を奉護する存在が神々から武家にかわったことで形骸化したのちも続いたものです。

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【京都幕間旅情】葵祭,斎王行列歴史絵巻今に伝える京都三大祭事撮影位置選定顛末記

2025-05-19 20:00:43 | 日記
■葵祭
 葵祭ああ葵祭という話題を一つ。

 葵祭、今年はどこから撮影するか、ということを考えるよりも、今年はどの時間帯ならば撮影に行けるのか、ということからその時間帯にどこに行列が進んでいるんだろう、という逆算から撮影場所を考えなければ成りません。

 北大路機関なのだから北大路通で撮影しよう、こう考えたわけではないのですけれど、結局午後からしか撮影時間を確保出来なかったので、必然的に北大路通から撮影することとなり、グリルはせがわ付近で、さてさて場所を物色し。

 われの装備は18-200mm、それほど長いレンズは用意できませんでしたし、なにより脚立も携行できませんでしたので、撮影できる場所を工夫しなければ失敗してしまいます。200mmでもAPS-Cなので320mm相当だが。

 鴨川付近、橋梁は見通し線をとおくとれますので撮影場所と考えるのですが、橋梁上は通路であり撮影に陣取ることができないこともあります、すると望遠レンズで橋梁を見通せる北大路通沿いということをかんがえたんおですが。

 撮影位置には予定より早く進出できたのです、すると、ちょっと軽食をいただいて次の展開を考える余裕があったのですが、葵祭の行列は長距離を移動するために撮影適地が無数にある、最前列ががらがらの場所も無数にありました。

 堤防あたりで、ちょっとゆっくり行列を待とう、一時間半ほど行列がやってくるまでに時間があり、それならばもう少し前進して下鴨神社付近まで進出することも企図しつつ、混雑状況から無理に移動しない方がいいとも判断し。

 緊要地形は、屈曲部となるのですが、さすがに道路の屈曲部の突出部分は、目利きする方に先に占領されていました。ただ、橋梁を見渡せる地点は幾つか空きがありまして、ここを予備陣地候補として、主陣地とそして前地とを選定し。

 北大路通から陣地変換を決心しました。堤防付近、このあたりを陣地占領した際、おもったのはここで一時間半持久するということで、補給の難点を少し憂慮しましたが、一方ここは見通し線もある程度とれて樹木の下は日陰である。

 加茂街道、ここが今回の葵祭撮影の天王山だ、こう決心しますと陣地占領です。街道の東側か西側か、東側ならば橋梁を通行中の列を撮影できるのですが、西側だと比叡山を借景とできる、順光でもある、西側を陣地占領します。

 補給よりも木陰で消耗を防ぐことが出来るというのは適地ということですし、離脱する際の経路が混雑する北大路通を避けることが出来る、そして撮影位置の陣地変換の際にも堤防以外の道路を利用できるという点は重要でした。

 橋梁を渡る行列を撮影するために再度接近経路を考慮しますと、一カ所で撮影は出来ず陣地変換は必至、堤防を避けて迂回できる点は動く行列を撮影する際に陣地変換しなければ成りませんので、重要です。

 お祭り、時代行列、祭事は色々あるのですけれども、どのあたりから撮影するのかという事と、そもそも撮影に行く時間はあるのかという今その時点のお仕事との駆け引きが、わたしには祭事を撮影する際の楽しみであったりするのです。

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【京都発幕間旅情】関ヶ原合戦祭二〇二四,鉄砲隊前へ!関ヶ原鉄砲隊笹尾山山麓に進出

2024-09-16 07:00:48 | 日記
■九月の砲声
 九月十五日は西暦一六〇〇年に関ヶ原地峡において日本の歴史を左右する関ヶ原の戦いがくりひろげられた日にちです。

 関ヶ原合戦記念日ということで、岐阜県関ケ原町にいってまいりました。関ヶ原会戦といえば、1600年、徳川家康と石田三成が全面衝突し、のちに日本における覇権を確立する上での徳川家康にとり要諦となる戦いで、関ケ原町は古戦場のまちとして知られて。

 決戦、歴史を左右する決戦というものは日本史においても幾度かありまして、天王山の戦い、明智光秀と羽柴秀吉が本能寺の変ののちに山崎で激突した戦いもまさにその一つですし、幕末の鳥羽街道の戦い、ミッドウェー海戦やレイテ沖海戦もこれにあたります。

 古戦場で鉄砲隊の演武がおこなわれる、こういう話を聞きまして、古式銃は黒色火薬をつかいますからかなりの発砲炎がでるものですから、なかなか巡り会ってこなかった撮影の機会、この際に火縄銃の知識以上の経験とか体験に接したいと思うものですが。

 宇治駐屯地祭か関ヶ原祭りか、土曜日と日曜日そして敬老の日というこの三連休、発砲炎を撮影するにはどこかなあ、ということで考えますと、宇治駐屯地祭は観閲行進や訓練展示は無いということでしたので、じゃあ火縄銃にしよう、と、いうわけでは無いが。

 蒼龍会、ちょっと迷った、この日に清水寺にいきますと蒼龍がいるという。この二十年に始まった清水寺の新しいお祭りえす。かなり大きな蒼龍はお寺の守り神ということでして、ただ、龍ということで水と関係があるのかこの日は悪天候の予報もでていて。

 清水寺で蒼龍、艦娘の蒼龍さんなら、火縄銃は今度でいいか、となるのですけれども、その蒼龍ではない、正確には青竜祭ということでしたので、それならば、歴史を学ぶためにも関ヶ原の方にいって空包射撃の発砲炎を狙おうでは無いか、となりますよね。

 鉄砲隊の空砲射撃が行われる、空砲と書かれていましたので空包ではない、撃たないのではと懸念しましたが、それなら口砲射撃でばーんばーんと書くだろうし、空砲と空包を混同する方も多い、そういうことでまあ、会場となります笹尾山へ向かいました。

 笹尾山の山麓、ここはJR東海道本線関ヶ原駅から、25分はみておいたほうがいい、緩い上り坂を登った先にある。25分というと迷ってしまいそうだけれどもそこは古戦場の街、笹尾山までの経路があって、駅の隣に古戦場博物館というものさえあるのですから。

 石田三成最後の陣地、といわれていますのがこの笹尾山でして、城郭なんてものは当時も造営されなかったのだけれども、指揮所と一目してわかる馬防柵で囲んだ陣地が常設されていまして、ここでまっていると鉄砲隊がこちらに向かってくる様子が見えて。

 CP!CP!、こちらササオヤマFO,前方旧小学校付近に敵歩兵部隊確認、こちらに前進を確認、指示を請う!、という状況ではないのですが、鉄砲隊の皆さん、陣太鼓とともに一列に向かってきてくれまして、そしてこうして構えてくれている。緊張の一瞬だ。

 時代祭をひっとうに火縄銃には見慣れていますし、城郭や歴史博物館を見学しました際には火縄銃をみることはできるのですが、胡桃材を使用しているのでしょうか、磨き上げられた銃床と鉄の見た目だけでもわかる質感は、伝統文化の守り手という感じ。

 空包射撃をおこなう、このために準備していますが、大垣城鉄砲隊とか、島津のまるじゅうを描いた射手もいます、これはいい写真を撮れそうな陣容です、が、わたしは軍用銃撮影の機会は多くとも火縄銃の空包射撃は撮影が初めて、せっかくの機会、頑張ろう。

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【京都幕間旅情】五山送り火二〇二四,熱い夏にも心地よい風がうっすらと吹いている送り火は夏の終わり

2024-08-21 20:24:31 | 日記
■大文字と夏の終わり
 送り火が灯されているのは護摩木が燃え尽きるまでの十分や十数分というまさにひととき。

 五山送り火は京都市のなかでも嵐山でも点火されるものですから撮影する際に嵐山、というのも考えたものなのです、大堰川に映る送り火というのも、三脚で長時間露光撮影した描写が美しいものですので、そうした情景も撮影してみたいようにも思う。

 十三参りの嵐山、あと渡月橋もいい場所なのですが、渡月橋の方はもう一つ目の前でたかれますので交通規制が厳しく、みることはできても立ち止まって撮影することはできない、まあ、これは定番であるのだから明石の二の舞を避けるにも規制は重要だ。

 多宝塔の十三参り、ここ、よくみえるのだろうけれども考えてみると大勢があつまって帰路の煩雑さを考えると、嵐電も混雑するだろうし山陰本線も混雑は当たり前で、阪急嵐山線もすごいぞ、自動車で行っても絶対駐車場なんてあいてないだろうし。

 嵐山は、しかしここからも撮影してみたいところなのだけれども、大文字を主題として考えるならば、もう少し近くから撮影したいものですよねえ、と撮影位置を考えると、やはり鴨川の堤防が定番なのでしょうけれども、このほかに高台と言いますと。

 金戒光明寺はどうだろうか、ここ、目の前が大文字で、カメラ、望遠の聞くカメラを使いますと点火の様子で人の動きが克明に見えるという。結構混雑すると言うことですけれども、ここが最後まで考えたのでした、万一の際には脚立を使えばいい。

 真如堂のあたり、金戒光明寺の北側の斜面がもうこれは本当によく見えるのですが、ただ、実際に行ってみますとこの斜度とかなりの混雑で脚立は使えないなあ、と思い返しました。送り火なのですから周りに迷惑はかけたくないものですからねえ。

 堤防、鴨川の堤防から撮影する、考えてみると定番はここなのだろうなあ、とおもうのですが、歩いてみますとやはり電線が多い、もちろん避けられるところはあるのですけれども、後は混雑しているのですよね、もみくちゃにはなりたくないなあ。

 京都御所が撮影場所となりましたのは、こういう理由とともに、建物を構図に納められるものですから、これも定番と言えば定番、何度も撮影している場所ですけれども、やはり定番の構図というものは撮影しておきたいところとなるのです。

 御所も相応に混雑するのだけれども、結局、堤防のように1メートル前にでてしまうと高低差で見える景色が変わると言うこともありませんし、もちろん前に出過ぎると木々で大文字が隠れてしまうのだけれども、けっこう広さがある、つまり平等だ。

 三脚は使わないことにしました、邪魔になりますからね。脚立も、ここは高低差がないので必要ありませんので、ああちょっと始まるまでいっぱいやっていくかあ、そして撮影が完了しましたならば、ちょっと焼き肉でも入れていこうかあ。

 送り火は夏の終わりなのですから、心地よい風がうっすらと吹いている、まあこれ、台風7号の影響だと言うことはわかっているのだけれども、首都圏の房総沖をゆく台風は関東では大変だろうけれども、こちらでは風はそよ風程度でとどまっていて。

 夏の終わり、ここから熱い日は残暑、というのか、いや暑いが熱いというのですから残熱というべきなのかもしれませんが、それでもこれ上熱くなることはないのだなあ、熱い日から暑い日へ、今年も五山送り火が無事完了したのですね。

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【京都幕間旅情】五山送り火二〇二四,先斗町はどうだろうか鴨川は定番で衣笠山はどうだろう船岡山はどうか

2024-08-21 20:00:12 | 日記
■京都御所から送り火
 送り火を眺めるにはどこがいいのだろう。今年は京都御所から見上げていますけれどもさてさて来年はともう考えてしまうのがこの夏の節目の祭事です。

 京都での送り火の楽しみは、KBSの中継で楽しむのが一番疲れません。KBS,韓国からも来ているのか、と東京の方は驚くかもしれませんが、京都放送です。そういえばあいば野での日米合同演習で海外メディアの方がBBCのクルーの多さに驚いていた。

 KBSは京都放送、BBCは琵琶湖放送、でもABCになるとアメリカのABCよりもプリキュアの知名度でABC放送といえばオーサカだ、と気づくのか騒いだりしないのですよね。CNNはないが、岐阜のケーブルテレビにCCNがある、ここは演習場には来ないのですが。

 銀閣寺道のあたりがよくみえる、と散策の際にふと見上げるのですが、大文字とともに目に入りますのは電線、目に電線が垂れ下がるというわけではなく視界を邪魔しているだけなのだけれども、こうするともう、歩いて、歩いて、探すだけ。

 先斗町はどうだろうか、川床を早めに探せば、というのは誰しも思うことなのですが、友人などはもう送り火の日に川床をおさえるのは断念して前日中りにスターライトスコープで川床からお酒をたしなみつつ夜空に浮かぶ大文字を眺め自動車ライトに目を。

 鴨川に送り火が浮かぶ様子を眺めるならば先斗町でなくとも、という声は、まあこれも室町時代にはすでに満員状態であったという記録がありますので、先斗町界隈からは離れなければなりません。下流にいけば人はいないが送り火も見えないので。

 川床はもちろんですが、鴨川は定番の大文字が見える位置です。しかしその文混雑もすごいのだ、むかし大変な目にあった記憶だけがあって苦手意識があるのだけれども、さて、いまはどうなのだろう。昔よりも背も高くなったしカメラの技術もあがった。

 京都市は送り火の時間帯に灯火管制をしてくれます。撮影するとなりますと、やはり街灯の光というのは邪魔になってしまいますからねえ。けれども人が多くなりますと、フラッシュたくかたが増えてきて、いやフラッシュ届かないよ、といってもどうしても。

 撮影位置、まず電線をきにしないためには高いところにいってしまうのがよい。電線よりも高い場所あら倍委のだ、すると百里基地でラファール撮影した際のように今度こそ空中作業車を借りるか、となると今度は建物と道路使用許可でたいへんになってしまい。

 船岡山はどうか、よく見えました。建勲神社は大文字を眺めた後で下山しますと左大文字もみえます、といいますか昨年、いろいろあってとあるマンションから眺める予定が合流できなくなりまして、建勲神社からながめることとなり、昨年の場所でもある。

 建勲神社から今年も、というのはちょっと考えたのですけれども、二番せんじになってしまってつまらないよなあと少しでも粋を考えたくなりまして。あとあそこは年々混雑していて、場所をかくほしていてもうつのまにか押されて撮影しにくい場所に。

 衣笠山はどうだろう、たぶんいいところだと思いますが、大文字から距離があるのと左大文字山は木立に隠れてしまいまして、いやここ、穴場だgとは思うのですが、ちょっと暗い時間帯ですので明るい時間に上っても下山が難しい印象があるのだ。

 左大文字山をあきらめてもたしかにみえている大文字を、ちょっと考えてみたのですが、眺望が一望できて収容できる面積を考えますと、先客がいたら非常に撮影が困難になるかもしれない、けれどもちょっと一度、衣笠山から見てみたい気持ちは、ある。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】五山送り火二〇二四,京都と二年連続台風7号の影響と失われた送り火の復活を夢想

2024-08-18 20:00:59 | 日記
■京都御所から
 大文字を見上げるというよりは遠望しつつ。

 五山送り火、如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎の妙法、船形万灯籠、左大文字山の左大文字、嵐山の鳥居形と五山の送り火が順番にともされます。如意ヶ嶽の標高は472mとなっているのですが、ここに一辺あたり80mで文字通り大きく大文字が描かれる。

 護摩木をたきあげるものですから、ともっている時間は10分前後で、しかし、妙法と船形と左大文字と鳥居形が順番に灯されてゆくものですから、気合いが入っている形はバイクなんかで一生懸命全部みようとするというかたもいるものです。

 船形万灯籠は西賀茂船山に灯されまして、これは横幅200mと、護衛艦ひゅうが型と同じくらいですので、まあ、舞鶴に行かずとも護衛艦の大きさをイメージするにはちょうどいいのかな、と思う次第で。ただ、西賀茂は若干遠いので、普段見上げることの方が。

 左大文字山は、まず左大文字山の標高が230mと低く、そしてここ、金閣寺拝観の際にみあげてみますと、ハイキング中のひとが火床に座ってランチしてたりするほど、気軽に上れると言うところ。ちなみにわたしは火床とVLSの上では飲食しないことにしている。

 曼荼羅山、ホビーショップとおもわれそうな響きですが鳥居形をたきあげるのは嵯峨鳥居という嵐山の奥座敷というべきところにありますところで、なんでも松明、護摩木ではなく松ヤニを含んだ松明を掲げるために、赤みがかかった火になるという。

 五山送り火、という名前が定着したのは比較的新しく、お盆の行事ということで、そのむかしには五山に限らず複数の山で送り火が行われていたと言いまして、左大文字は歴史書をみるとかなり新しく、一方、明治初期になくなった送り火もあるといい。

 い。ブラウン管に初めて映されたことで瞬間視聴率100%を獲得したことで有名な"い"の字は明治初期まで市原、叡山電鉄の鞍馬のあたりで灯された文字だと言うことですが、点火していた山が国有地となってしまい失われたという歴史があったりする。

 絵文字、おもしろいのは鈴が竹竿に吊された、これ遠景にはわかりにくそうな送り火もあったということで、西京区の松尾山に灯されていたのだといい、明治初期にやはりなくなったのだという。残っていれば、嵐山の送り火がにぎやかになっていたのか。

 一、の字が鳴滝にあったともいいまして、これもやはり嵐山がもうすこしにぎやかになればなあ、と思うところです。これ、文字としては単純ですので、復活したらなあ、と思うところなのですが、保存会がなくなると再開は難しいのは理解する。

 長刀を描いた送り火も嵯峨にあったといいますが、昨今、オーバーツーリズムが叫ばれるところですので、こうしたものが再開されたならば、なにしろ西賀茂のあたりと嵐山のあたりが送り火が増えるわけですから、眺めにくる方も分散するのでは、と。

 送り火、昨年の記事を見てみますと、台風7号の影響で、と既視感がある話題になっていて、そうです一年前の送り火も台風接近で新幹線が計画運休になっていたのを思い出します。すると、来年、台風がこなければ東京あたりから見に来る方が増えるのか。

 炎が揺らめく様子は、御所から如意ヶ嶽はそれなりには離れているのだけれども、しかしお盆で夏が終わるのだなあと言う実感が、少なくともこの瞬間だけは感慨深いものとなっていまして、そして、雨が降らなくてよかったなあ、と幸いを噛みしめるのだ。

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