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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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イザヤ書42章

2013年12月11日 05時58分21秒 | イザヤ書
<朝のディボーション>
 1-9節は、一般に「しもべの歌」と呼ばれるものである。41章で登場した「しもべ」の働きが語られる。神が選んだ器であり、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、地に公義を打ち立てる」という。つまり、目立たないが、配慮のある、忍耐深い働きによって、全地に公義を打ち立て、全地の人々がその教えを待ち望むような働きをする。これは一体誰のことを言っているのであろうか。戦勝のクロス王ではなさそうだ。あるいは捕囚期のイスラエルに存在した誰かであろうか。それもありそうもない。しもべは、神によって見守られ、民の契約とされ、国々の光とされるのである(6節)。また、しもべは、全く人間がまだ経験もせず予測もしない業をする。神の栄光を現す働きをする(9節)。となれば、マタイが自分の福音書にこの箇所を引用したように、これをイエスについての預言として受け止めていくのが、正解なのであろう(マタイ12:15-21)。
神はまさにイエスを「しもべ」として選んだのであり、イエスは神によって力を与えられ、その十字架の使命を果たした。彼こそが弱い者、倒れている者を神の力によって立たせ、神の正義があることを人々に明らかにした。こうして読んでみると、イザヤ書、同時代を超えて、未来の様々な時代を含めた神のことばを語っている、と改めて思うところである。預言書の解釈が難しいのは、それが語られた時代と歴史的に大きく隔たっているのみならず、預言者を通して語られる神の意図が私たちの思いを超えているためでもある。
<夜のディボーション>
「主に向かって新しい歌を歌え」(10節)、神によってたてられた「しもべ」が、私たちの人生に新しい事をなす(9節)。だから喜べというわけである。イエスは、私たちの歩みを、これまでの流れとは違う方向へと導かれる。私たちが知らない道や知らない通り道を行かせる(16節)。イエスに期待する者は、日々惰性で生きることを止める。それは大きな決断であり、エネルギーを要することかもしれないが、逃してはならない、新しい人生のチャンスである。
18節からは、一転して、心のかたくななイスラエルに対する嘆きの歌となる。「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない」(20節)。何事にも無感動になり、聞かされていながら、その価値を理解できないでいることがある。あるいは、どんなに素晴らしいことであるとしても期待できないでいる。それが人の現実だ。人は変わりたいと思いながら、決断しようとはしない。むしろ自分の惨めな状況に不平不満を並べながら、無為な時を過ごし続けている。まさに「かすめ奪われ、略奪され、獄屋に閉じ込められ、助け出す者もない、惨めで弱い」(22節)捕囚の民に成り下がっている。
神は、光を与えようとされる。神は新しい恵みを注ごうとされる。いつまで情けない人生を歩んでいるのか。私たちに仕え、私たちを立たせ、助けるしもべに注目しよう。しもべは来ている。イエスに対する信仰を明確にしよう。人の人生が変わるのは、この方を信じることにおいて他にはない。

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