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レビ記16章

2022年01月10日 07時07分06秒 | レビ記
16章宥めの日
16章は、内容的には8-10章に続くものです。つまり11-15章は、イスラエルの民に神の民としての汚れを教える挿入的なもので、この16章からもう一度10章の話の続きに戻り、ついでにイスラエルの暦では、第七の月十日に定められた「宥めの日」という特別な日の目的とその際の祭司の職務内容を説明しているのです。
「宥めの日」あるいは「贖いの日」は、過ぎ越しの祭りがお祝いされてから6か月後に、一年に一度毎年守られるもので、イスラエルの民全員に断食が命じられ、祭司とすべての民の罪の赦しときよめがなされる日とされました。後に使徒パウロは、この日をキリスト者の救いの完成の時という考えを示しているように(エペソ4:30)、この16章の本質的な教えは、よくよく理解し、生活に適用する必要のあるものです。ともあれ、この日は年ごとの祝宴とは全く異なる厳粛な時で、国を挙げての、極めて信仰的な、神の民としての特色を明らかにする宗教行事となったのです。
1.祭司の準備(16:1-4)
まず、大祭司アロンは「時をわきまえず」(2節)聖所に入ることが禁じられました。それは、ナダブとアビフを襲った悲劇(10章)が再び起こらぬようにするため、また大祭司が毎年神の御臨在に触れるその時を厳粛かつ恐れをもって迎えるためでした。至聖所は、神とお会いする特別な場として聖別されなくてはならなかったのです(出エジプト25:22)。こうして大祭司は、この日、簡素な任務服を身にまとい、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を準備して、屠り、その血を携えて至聖所に入り、アザゼルのやぎを荒野に放つのです。
2.二頭のやぎ(16:5-10)
アザゼルの意味については、いくつかの解釈があります。民の罪を負い荒野に放つために選ばれたやぎそのもののこと、移動、解放のこと、不毛の地、荒野のことなどですが、実際にはよくわかっていません。ヘブル語では、「完全に除去する」を意味する「アーザル」の変化形で、罪を負わせたやぎを荒野に放し遠くへ追いやることは、完全に罪からきよめられることを視覚的に表現しようとしたものです。この日、イスラエルの民は、聖めを意識し、悔い改めを求められたのみならず、そのことが実際に成し遂げられたことを目で確認するのです。それは、この日を境に自分たちの人生を仕切りなおす、実に説得力のある効果をもたらしたと言えます。
3.罪のきよめのささげ物(16:11-22)
さて、新約聖書のヘブル人への手紙において、この16章が引用されています(9:11-12)。それは、イエスが、大祭司であると同時に、イエスのしたことは、アザゼルとして、全ての人類の罪を背負い荒野に放された雄やぎと同じであることを示すためです。まず、大祭司は、この職務を、いかなる助けも得ずに、完全に一人で行わなければなりませんでした(11-22節)。それは、キリストが世の罪のために贖いのみわざを、全く一人で行ったことと同じです(マタイ27:46、マルコ15:34)。また、へブル人の手紙の著者のポイントは、やぎと雄牛の血、また荒野に放されたやぎが、人々の人生に全く新しい仕切り直しをもたらしたとするならば、ましてキリストの尊い人格と十字架のみわざは、それ以上のことをするに違いないということです。そしてパウロは、年に一度繰り返されるこの日を、究極的な救いの完成の日と結びつけて語ることにより、やがて永遠に手にし得るキリスト者の祝福への期待感を高めています。
しかし今日、考えたいことは、この一年に一度、神の臨在に与り、聖められるために一日を費やすこの旧約的経験は、私たちの人生のどこでどのように経験されているのかということです。今日のキリスト教会が果たして教会あげて、自分のみならず、自分の家族、会衆の贖いを意識し、一年に一度、徹底して、そのことだけを意識する厳粛な時を持っているのであろうかと思うところがあります。祭司も、民もすべての者の罪の赦しと贖いのために心を砕く時を持つ、これを、永遠の定めとして彼らが教えられたことを思い起こしたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。聖書の文学的修辞法として、単語や文章を交差させるキアスムス、または交差配列法と呼ばれるものがあります。それは、どの書によく使われていると言われるでしょうか。詩篇や箴言など主に詩文です。文書を構造的に見ていくと、単語、フレーズ、思想などが交差されている状況が見えてきて、面白いところがあります。では、今日の聖書クイズを一つ。宥めの日、あるいは贖いの日は、第七の月の十日に持たれますが、それは太陽暦では、何月頃になるのでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
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