ルカの福音書24章
1.イエスの復活と女たち(24:1-12)
日曜日の早朝、「女たちは、準備しておいた香料を持って」イエスが葬られた墓にやって来ました。死人を葬るための香料を手にしていたのですから、この女たちは、イエスが復活するなど思ってもいなかったのでしょう。むしろ安息日が始まるので慌ただしく墓に収められてしまったイエスを、丁寧に葬りなおそうとしたというわけです。しかし、イエスのからだは消えていました。そして御使いが現れて女たちに語りかけるのです。6節「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」。後半のことばは、後の時代に書き加えられたという議論もありますが、そうであったとしても著者ルカの意図に沿ったものです。つまり、それは今なお、イエスを死んだと思っている人々に語りかけることばなのです。今イエスは、目に見えない霊的な存在としてよみがえられました。この地上にイエスを見出すことはできません。むしろ、天上の神の右に座しておられるイエスを、信仰の目で仰ぐことです。
2.エマオの途上の出来事(24:13-35)
さて別の弟子たちが、死んだはずのイエスが復活したことについて語り合っていました。ルカだけが記録する逸話です。エルサレムからエマオに向かう二人の弟子たちに、イエスが追いついて同行しました。ところが彼らはイエスと共に対話をしながら、イエスであるとわからずにいました。実に不思議です。しかし彼らにとってイエスの死はそれほど確かなことだった、ということなのでしょう。またそれは象徴的です。私たちも聖書を通じてイエスと語りながらも、イエスの肉声をはっきり聞き取らずにいるのです。私たちの目を開く神のあわれみが無ければ、私たちはただ聖書を読んで「いいね」で終わってしまうことでしょう。「聖書を悟らせるために人の心を開」く、神の業があるのです。それなくして、神は確かに生きておられ、イエスを復活させたのだ、そしてその復活の力は、私たちの人生にも働くのだ、という確信には至らないのです。
3.平安があるように(24:36-53)
ルカは、44節「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」つまり旧約聖書のことですが、ルカはイエスの言葉を引用し、旧約聖書に書かれたことはすべてイエスにおいて成就した、イエスこそ約束のメシヤ、救い主であると言います。バプテスマのヨハネに神の子として認められ、洗礼を授けられたことから始まり、一連の奇跡と教え、まことの信仰の在り方を語りユダヤの宗教家と衝突した日々、そして絶命の間際まで、悔い改める強盗に救いの希望を与えられたイエス、ルカの福音書の記録を思い起こしてみれば、やはりイエスは神の子として正しいお方、信ずべきお方ということになるのではないでしょうか。
24章に渡るイエスの記録について、テオフィロは何を思ったことでしょう。自分にイエスを知って欲しいと、当時の知識人であったルカが、資料をあれこれひっくり返し、まとめ上げたその努力、彼はどう受け止めたことでしょうか。天に戻られる前のイエスのことばは「平安があなたがたにあるように」です。ルカは魂の平安を得る人生へと神が人を招いておられることを、テォフィロに伝えたかったのですね。
最後に、今日の聖書クイズを一つ、イエスが悔い改めた強盗に約束されたパラダイス、これは何語でしょうか?①ギリシャ語、②ペルシャ語、③ヘブル語、④英語、昨日の答えは②神殿で動物犠牲を屠る時間でした。イエスはまさに屠られた神の子羊というわけですね。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。