マタイの福音書15章 心を大事にする
おはようございます。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら聞いてください。今日はマタイの福音書15章からです。
1. 神の戒めと先祖の言い伝え(15:1-9)
1節、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからやって来ました。彼らは、イエスの働きを監視していました。そして来るや否や、イエスの弟子たちが「長老たちの言い伝え」、つまり旧約聖書とは別に口伝で言い伝えられてきた戒めを破っていると問題にするのです。ここで気づかされることは、旧約聖書以外に彼らの信仰生活を規制しているものがあったということです。確かに、今日、イエスの時代のユダヤ教の実態は、旧約聖書を読むだけではわからないとされ、彼らが旧約聖書に関連して築き上げた、ミシュナーやタルムードと呼ばれる「ラビ文書」、第二神殿期ユダヤ教文書群と呼ばれる「偽典」、さらにラビによる旧約聖書の注解であるミドラシュなどを学ぶことが、学問の世界では盛んになってきている状況があります。ともあれ、パリサイ人や律法学者は、旧約聖書の戒めを破ることよりも、当時の最高議会サンヘドリンの長老たちの戒めを破る態度を問題にしました。
これに対して、イエスは、ばっさり「先祖の言い伝え」のために「神の戒め」を犠牲にしてはならない、と切って捨てるのです。聖書だけが、信仰と生活の唯一の規範であり、権威なのです。
2.心を振り返る(15:10-20)
コロナ禍において考えさせられることは、物事の本質を考えて、そこに立ち返ることです。神を礼拝するにしても、それは形の問題ではありません。心が神と向かい合っていないなら、そんな礼拝などしない方がましです。神の戒めを守ることもそうです。見かけは敬虔そうであっても中身が伴わないのであれば、それは偽善に過ぎないのです。既にマタイは、神が喜びとするのは「真実の愛、いけにではなない」(12:7)と言いましたが、信仰は心が命です。心に、19節、「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり」があるなら、そんな信仰は、人の何の助けになるでしょう。いやそんな信仰を持った教師に教えられたら運の尽き、共に亡びるのです。
3.異邦人の女の信仰と神の愛(15:21-39)
21節からマタイは、一人の異邦人の女の信仰を取り上げています。異邦人の女は、悪霊にとりつかれた娘のいやしをイエスに願いましたが、イエスは、自分の働きの対象外であると断っています。しかし、異邦人の女は、全く意に介さずイエスに詰め寄ります。彼女はまさに信仰が心であることを知っていた女性というべきでしょう。彼女はイエスの前にひれ伏して、言うのです、自分は「犬」のようなものであるかもしれないが、「犬の分」だけは受け取らせてほしい、と。神は心を見られるお方、神は真実の愛に反応するお方です。イエスは、女の神に向かう信仰と熱意を認め、癒しを与えるのです。続く七つのパンと魚の奇跡は、14章の五つのパンと二匹の魚の奇跡に似ていますが別物です。32節「空腹のまま帰らせたくはない」私たちが信じる神は、愛の神です。私たちも目に見えない部分を大事する信仰の歩みを進めたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。