goo blog サービス終了のお知らせ 

人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ヨエル書2章

2011年02月13日 06時11分38秒 | 小預言書
 ヨエルは、全国民が神に立ち返り、哀れみを求めて祈るように勧めている(13-18節)。断食を布告し、きよめの集会を持つようにと勧める。それは「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(13節)とあるように、単に体裁ではなく、心をきよめる集会である。その民の応答に対して、神はいなごを取り除き、いなごが奪い取ったすべてのものを、豊かに回復してくださると約束されるのである。
 しかし、どんなものだろうか。失われた時など返ってくるものだろうか。そのように神は約束されるが、失われた時は文字通り返ってくるなどということはないだろう。過ぎ去った時は、永遠に戻らないものではないか。自分の時間を取り戻すことなんて不可能だ。しかし、それは事実であるとしても、神は、私たちが思わぬ方法で、また不思議な方法で、失われた時を返してくださるのである。このことの故に、私はすべてを忘れ去ることができる、と思うような方法で、私たちに失われた時間を取り戻してくださる。
「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう」(25節)。だから、神のもとに立ち返ることを躊躇ってはならない。いつでも、神の祝福を受けるために、神のもとへと急がなくてはならないのである。
しかしながら、このいなごの災害は、二重の意味を持つことに注意しなくてはならないのだろう。というのも、この大群は、「北から来るもの」(20節)とされる。通常、いなごは北ではなく、東から来るものであった。つまりこの時、いなごの災害を見ながら、ヨエルは、象徴的に新たな「いなごの災害」にたとえられる脅威が生じることを預言しているのだろう。そうでなければ、3章の主の日の裁きとその解放のメッセージも理解しにくい。
実際、ペテロは、ペンテコステの際に、このヨエルのことばを引用して、霊的に解釈している(使徒2:16-21)。それは、神の民がこの地上において、神の国を実現できるように、神が霊を注がれることを物語っている。いわゆる神の最後の審判の前に、神が霊を注ぎ、弟子たちを宣教の働きのために整えられることを語っているのである。
このように、ペテロがこれを、ペンテコステの出来事であると解釈し、それが新約聖書の信仰になっているとするならば、ヨエルの預言は、私たちに対する新たな脅威にもなりうるものだろう。神はすでに「霊を注がれた」(28節)。ということはそれに続いて、「主の大いなる恐るべき日が来る」(31節)ということであり、それに対する備えを私たちは求められている、ということだろう。
それは、いなご、ばった、食い荒たすいなご、かみつくいなごが食い尽くす年々に象徴される、大変な災害である。生き延びることが難しい、苦しみの時である。「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる」(32節)。神が万物の支配者であるとしたら、この地上の風も、光も、雨も、雪も、そして人も動物も、あらゆるものをお造りになった支配者であるとしたら、不思議なことではないし、信頼すべきことばである。
私たちに失われた時を取り戻してくださり、私たちをあらゆる災いから守られる神を信じて歩ませていただこう。

最新の画像もっと見る