マラキ書1章 神の愛、人の愛
おはようございます。これほどストレートにささげ物について教えられている箇所も珍しいものです。自身のささげ物の在り方、ささげ方を見直したいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神の人に対する愛
マルティン・ルターは、ヨハネ3:16を小さな福音書と呼んだが、マラキ書は、小さな旧約聖書と呼ぶことができます。つまり、旧約聖書の歴史を要約し、新約聖書への橋渡しの役も担う書なのです。
2節、旧約聖書の中心的な主題が語られます。聖書の神は、人を愛されたのです(エレミヤ31:3)。しかしながら、目には見えない神が、人をどのように愛されたのか、知りたいものです。神は言います。一つの歴史的な事件、エサウの子孫であるエドムの荒廃にそれは明らかである、と(3節)。エドムは、イスラエルと同じ起源を持つ民族ですが、ナバデヤ人によって侵略され、BC4世紀には、ユダヤ南部へと移住し、衰退していきました。彼らは国を再建しようとましたが、それはかなわなかったのです。なぜか、神がこれをお許しにならなかったからです(4節)。他方神は、全く不可能と思われるイスラエルを再建されました。そこにイスラエルに対する神の格別の愛を知ることができる、というわけです。
2.人の神に対する愛
しかし、逆のこと、つまり人の神に対する愛は欠落している、神は人の造り主であり、贖い主です。しかし、神を神として正しく認識し、仰ぎ恐れることがない、と指摘されます。いや、それはどうして。どこに、人の不敬虔さを神は感じておられるのか。信仰は、目に見えない心の態度ですが、実際にそれは、人の具体的な生活に現れるものでしょう。一番わかりやすいのは、ささげ物です。確かに、人にものをあげる時には、色々と気遣うものでしょう。余り物や傷んだもの、誤魔化して手に入れたものをあげることはまずないものです。マラキの言い方は、ストレートです。総督にすら差し出せないものを、どうして、神にささげ物とするのか、そこに神に対する心遣い、愛があるのか、それはむしろ、神を愛するどころか、侮辱しているのだ(マルコ12:41-44)というわけです(8節)。そして言います。どうしてそのようなささげ物をする者たちの嘆願を神が受け入れてくださろうか、と(9節)。神はささげ物で心を動かすようなお方ではないので、これは皮肉でしょう。そして、そもそも、そのようなささげ物を受け付ける祭司に、神は嫌悪感を示しています(10節)。
新約聖書における献金の勧めは、収入に応じて、週の初めの日に蓄えておくことです(1コリント16:2)。そして、献金が、恵みの業であることを覚えて豊かにそれを行うことです(2コリント8:7-15)。「ずるい者はのろわれる」(14節)と言うように、主が見ておられるのは心でしょう。礼拝においては、その天地万物をお造りになり、支配し、人を滅びの穴から救い出してくださった方に相応しいささげ物をおささげしましょう。今日は週の半ばですが、まず、次週のために礼拝でささげる物を、とりわけておきましょう。そしてこの「二匹の魚と五つのパン」が、豊かに主の御用のために用いられるようにと祈り備えましょう。