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コリント人への手紙第一2章

2018年04月18日 06時27分59秒 | パウロ書簡
パウロは、コリント教会の分派を戒める中で、自分はほとんどバプテスマを授けたことがない(1:14-16)と語り、自分の任務は、「バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずにそうするためであった」と語っている(1:17)。この2章においてパウロは、まずその宣教を振り返って語っている。つまり、自分の宣教は、ある人々には愚かしく聞こえるだろう。しかし、自分が来たのは、まさに、その愚かしく聞こえる福音を伝えるためである、と言いたいのである。
実際、パウロは、愚かしい福音を愚かしいままに語った。程度の高い、難しいことばづかいをしたり、美辞麗句を並べ立てたりはしなかった。本当に弁が立つ人物はいるものである。そしてコリントにはそのような雄弁家が溢れていた。しかし、パウロは、福音を粗削りに、単純に語った。神が私たちを救うために、キリストにあってしてくださった御業、いわゆる「十字架につけられたキリスト」そのものを語ったのである。
またパウロは、愚かしい内容を愚かしい心の状態で、つまり、大胆に、自信に溢れて語ったわけではなかった、という(3-4節)。事実パウロがこの地を訪れたのは第二回伝道旅行の時であり(使徒17-18章)、パウロはこの時ひどい落胆を経験していた。ピリピ、テサロニケ、ベレヤと、彼は狂信的なユダヤ人の反対に遭い、続くアテネの宣教もそれほど成功したわけではない状態で、コリントへ流れ着いていた。パウロの宣教の方針は、回心者を起こし、教会の基礎を固めながら、次へと移動することであったが、第二回伝道旅行では強力な反対者によってなし崩し的に移動せざるを得なかった。そして到着したコリントは、喧騒に満ち、プライドが高く、知性の高い町で、そこで宣教する前にまず軍資金を稼がねばならない状態であった。困難な宣教に立ち向かう努力と共に、生活の苦労があった。そしてシラスやテモテの同労者の合流によって心機一転、果敢に伝道を開始しようとするや否や、ユダヤ人の会堂を追い出され、ティティオ・ユストの個人宅を宣教拠点にせざるを得なかったのである。物事はすべて縮小方向、地の片隅に追いやられるような状況であった。だから、パウロは「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない」という主の幻がなければ、心折れる状況にすらあったことだろう。パウロは、自分が何の優れた能力も持たない、実に無力な敗北者であることを自覚させられ、ただひたすら、聖霊の力により頼まざるをえなかった。コリントの宣教は、まさにパウロの能力や経験とは別のところ、つまり聖霊の働きによってなされたのである。大切なことだ。神は、聖霊の働きを絶対的に信頼する人を求めているのであって、能力のある人、博学な人、雄弁な人が求められているわけではない。そういう人たちによってこそ宣教は進められ、教会は建てられるのである。
6節以降、パウロは、語るべき宣教のことばの性質について語る。おそらくパウロは、コリントのある人々、パウロの語ることに共鳴する人々を意識して、「私たち」と語っているのだろう。1節の「知恵」と6節の「知恵」には明らかに違いがある。1節のそれは、哲学者たちが語るような修辞学的で弁舌巧みなものである。しかし6節の私たちが分かち合うそれは、7節「隠された奥義としての神の知恵」、24節「神の知恵たるキリスト」のことである。神の知恵の性質の第一は、それがキリストに関することである、ということだ。そして、この世の人たちは、それを誰も知らなかった、もし知っていたら、キリストを自分たちの人生に無用である、と十字架につけたりはしなかっただろうということだ(8節)。それは、だれも考え付かなかったものだ。だからといって、ある日突如出てきたものではない。神を愛する者に、神が、永遠の昔から供えられていたものである。確かに、神のキリストにある救いの計画は、創世記を読むと理解できるように、アダムの堕落直後からスタートしていた(創世記3:15)。しかし、人類の歴史の中で、それを誰も理解する者はいなかった、という。
というのも、神の知恵の第二の性質は、10節、御霊によって知るものだからである。残念なことであるが、生まれつきの人間に、それを理解することはできない。それは、神の御霊の働きなくしては、わかりえない事柄である。ヨハネがイエスの言葉を紹介して語ったように、神の言葉を理解するには助け主が必要なのである。罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかにする、真理の御霊の導きが必要なのだ(ヨハネ16:7-13)。神の御霊が私たちに霊的な光を与える。神の御霊が、私たちの心を照らし、私たちが罪深き者であることを悟らせてくれる。神の御霊が、私たちの目を開き、この罪深き者を救うのは、ただキリストイエスのみであることを悟らせてくれる。神の御霊が、十字架への感謝を引き起こし、悔い改めへと導き、新しい人生にまず第一歩を踏み出す決断を与えるのである。
実に、神の御霊が、神から私たちに賜った物を、私たちに知らせるのである。だからこそ、語る時には、御霊により頼む。御霊が働いて、御霊が諭させてくださるようにと。神の御霊による宣教、そこに徹していく者であろう。

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