1コリント人への手紙2章:神の御霊によって知る知恵
1.神の業としての宣教(2:1-5)
パウロは、コリント教会の分派を戒める中で、自分の使命が、バプテスマを授けるためではなく、福音を語ること、しかも飾らずにそうすることであった、と語っています(1:14-17)。2章では、それを繰り返しており、パウロは、ある人には、愚かだと思われるような内容を、ありのままに語ったというのです。それは「十字架につけられたキリスト」そのものがストレートに伝わるためだ、と。
またパウロは、コリントの人々に、福音を語った時には、実は、ベストの状態ではなかったと言います(3-4節)。パウロがこの地を訪れたのは第二回伝道旅行の時ですが(使徒17-18章)、彼はひどく落胆していました。ピリピ、テサロニケ、ベレヤ、アテネ、コリントと彼は宣教を展開してきましたが、実際のところ、どの町でもパウロは受け入れられず、むしろ抵抗され、コリントへ流れ着いたようなものだったからです。そしてコリントの町は、騒がしく、プライドの高い町で、いかにも宣教の困難な町でした。あまっさえ、パウロには、生活の苦労があったのです。後から来たシラスやテモテといった同労者と合流、心機一転、伝道を開始しようとするや否や、ユダヤ人の会堂を追い出され、ティティオ・ユストの個人宅から始めるほかなかったのです。物事はすべて縮小方向、地の片隅に追いやられるような状況でした。エルサレムでは最高学府を出たパウロでしたが、今や全く無能力なルーザーである自分を思わされるばかり。心折れる状況の中で、ただひたすら神の助けを求め、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない」という主の幻がなければなしえなかった宣教だったのです。実に、コリントの宣教は、パウロの能力や経験とは別のもの、つまり神の力によってなされたのです。大切なことでしょう。神は、聖霊の働きに全く信頼する人を求めているのであって、能力のある人、博学な人、雄弁な人が宣教することを期待されているのではないのです。宣教は神の業なのです。
2.神の恵みとして与えられる知恵(2:6-16)
6節以降、パウロは、さらに言葉を尽くして語ります。パウロが語った福音は、この世の処世術、あるいは、支配者たちの帝王学のようなものではありませんでした。それは、まことに神を恐れることを教え諭すものであって、それまで、誰一人知らなかったようなもの、聞いたこともなかったようなもの、であった、と言います(9節)。しかもそれは、聞いて、頭で理解できるようなものではなくて、神の力が働くことで、心の内に気づかされる、目が開かれるようなものだ、と言います(10節)。つまり、それは人間的な学習努力によって得られるものではなく、天から、神の恵みとして与えられるものであったのです(12節)。ですからパウロも、それを神学校で学んだ知識を駆使して語ったわけではなく、ただ祈りにより、神が語るように示してくれた事柄を語って来たに過ぎない、と言います(13節)。大切なのは、そのような知恵があることに心を開いて、耳を傾けることなのでしょう。その知恵は、人を天の栄光に道案内する、誰にとっても大切なものだからです。
クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「パウロが伝道旅行で一番長く滞在したのはエペソ、では二番目に長く滞在した町はどこでしょうか?答えは、②コリント(使徒18:1-11)でした。では、今日の聖書クイズです。パウロがコリントで宣教活動をしたときに、生活費を稼ぐためにした仕事はなんでしたか?①物売り、②天幕づくり、③大工、答えはまた明日!よき一日となりますように祈ります。