ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

クラクフ報告(18) アウシュヴィッツⅠ (後編)

2013-10-09 19:02:05 | 2013年6月のクラクフ

6月7日(金)の続きです。

 

収容棟のいくつかは、テーマに沿った展示に使われていました。例えば下左は、“Material Proofs of Crime(犯罪の証拠品)”を展示している5号棟です。

下右は、アウシュヴィッツに送られてきたユダヤ人他外国人が、どこから連行されてきたのかを示す地図。北はオスロから、南はロードス島まで・・・ナチスがどれほど強大だったかがよくわかります。

 

犠牲者の遺灰が収められているという慰霊碑(下左)。

“アウシュヴィッツは、ナチス・ドイツの最も広大な強制・絶滅収容所だった。1940年から1945年の間に、ナチスはアウシュヴィッツに、少なくとも130万人を送り込んだ。

 うち110万人がユダヤ人、14万から15万人がポーランド人、2万3千人がロマ人(ジプシー)、1万5千人がソ連軍捕虜、2万5千人がその他の人種。

 110万人がアウシュヴィッツで死亡した。その約90%がユダヤ人だった。ナチス親衛隊は、犠牲者の大多数をガス室で殺害した。”

 

ヨーロッパ各地のゲットーや中継地の収容所から、アウシュヴィッツへと追い立てられる人々。

『選別前』                                                『選別後』

 

『死への途上』                                           ガス室・焼却場の模型。

 

“Extermination(絶滅)” を展示する4号棟。

膨大な数の囚人をガス殺するために使われた、チクロンBの空缶。

 

ガス室に送られる前の犠牲者から強制的に切り取られた、膨大な量の髪の毛の展示もありました。人毛で織った織物も。その部屋は写真撮影禁止でしたが、写真はこちらで見ることができます。博物館には2トンもの人毛が保存されているそうです。

各地にあったナチスの強制/絶滅収容所の写真。 (KLはKonzentrationslager=Concentration Camp=強制収容所、の略。)

 

 

囚人たちの写真と囚人服の陳列です。囚人たちの写真は、展示棟の通路両側の壁にもずらりと掲げられていました。

 

門の近くに戻ってきました(下左)が、まっすぐ門に向かわずに右折します。

“収容所生活での多くの苦難のうちのひとつは、日常的に行われる点呼だった。点呼中は、何千人といた全囚人がこの中央広場に直立させられた。のちにもともとの点呼場所に建物が増築されてからは、囚人たちは収容所内の通りに整列させられた。点呼が何時間にも及ぶことはよくあり、時には12時間以上かかることもあった。 

 画: 『1941年の点呼の様子』 ポーランド人のアウシュヴィッツ生残者 Mieczyslaw Koscielniak 作、1972年”

 

監視塔の左側奥の煙突と、右側奥の鉄棒のようなもの(=下右写真)、見えますか?

 

“ここには、収容所のゲシュタポが置かれていた。収容所内の地下抵抗組織への関与、あるいは逃亡の準備を疑われた者は、ここで尋問された。囚人の多くが、暴行や拷問の結果死亡した。

 アウシュヴィッツの初代所長を務めたルドルフ・ヘスは、戦後ポーランド最高人民裁判所で死刑判決を受け、1947年4月16日にここで絞首刑に処された。”

 

・・・ 処刑の瞬間、ヘスは何を思ったのでしょう ・・・

  

絞首台の左手には草の茂る盛り土があり、そこにあった説明版(下左)を過ぎて右に曲がると、盛り土の下はガス室/焼却場でした。

 

ガス室/焼却場の見取図。左が1942年当時のもの、右が今日のもの。

            a - 予備の鉄格子の貯蔵所     b - 遺灰が貯蔵された部屋、手洗い所     c - ガス室、死体置場     d - 焼却炉

                            e - 煙突     f - 焼却炉の燃料用コークスの貯蔵所     g - 事務室

“この建物は、戦前は軍需品の貯蔵庫だった。1940年8月15日から1943年7月まで、ナチスはこれを焼却場として使用した。1941年秋に、死体置場として使われていた最も大きい部屋は、即席のガス室へと転用された。アウシュヴィッツにおける、初めてのガス室であった。チクロンBの粒々が発生するガスにより、何千人ものユダヤ人がここで、到着後数時間以内にナチスにより殺害された。ソ連軍の戦争捕虜や、具合が悪く働けない囚人もまた、同様の方法で殺害された。ドイツの簡易裁判所で死刑を宣告された収容所外部のポーランド人は、ここで射殺された。

 1942年春と夏に、ユダヤ人虐殺のための即席のガス室2基がビルケナウに設置されると、ここでのガス殺は徐々になくなっていった。その後ビルケナウに4基のガス室/焼却場が完成すると、ここでの死体焼却はなくなった(1943年7月)。建物はその後は貯蔵庫、のちにはナチス親衛隊員用の防空壕として使用された。焼却炉、煙突、壁のうちのいくつかは解体撤去され、チクロンBの投入に使われた屋根の穴は塞がれた。

 戦後博物館は、ガス室と焼却場を部分的に再建した。煙突と焼却炉は、ガス室屋根の穴と同様、元のパーツを使って再築された。”

 

ガス室/焼却場への入口。                                  入ってすぐのスペース。

 

ナチスこの建物の内部で、何千もの人々を殺害しました。 どうかお静かに願います: 彼等の苦難を心に刻み、彼等の記憶に敬意をお払い下さい。”  

下右は、ガス室部分です。

 

天井にあった突出部分(下左)は、戦後に復元されたチクロンBの投入口だと思います。下右は、焼却場。

 

ガス室/焼却場を後にし、出入口のあるビジター・センターへと戻ります。

 

                                                     みたび、メイン・ゲートです。

 

この頃時間は、午後7時半。私の少し先に、家族らしい4人連れがいるだけでした。

“1944年後半、ソ連軍の接近に伴い、ナチスはドイツ国内にある他の強制収容所への、囚人の移送を始めた。1945年1月半ば、囚人の移送と収容所の解体の最終命令が下った。

 1945年1月17日から21日にかけて、ナチスは歩ける囚人約5万6千人を、アウシュヴィッツと周辺のサブキャンプから徒歩で退去させた。『死の行進』と呼ばれるこの最後の悲劇は、多くの犠牲者を出した。”

 

アウシュヴィッツⅠで私が歩いただいたいのルートです。 右上隅にある十字架については、次回の記事で触れます。

        A - 有名な“Arbeit macht frei”を掲げた門     B - 新たに到着した囚人が調べられ登録された建物     C - 銃殺刑が行われた場所

 D - 絞首刑が行われた場所     E - チクロンBで大量ガス殺が行われた場所*     F - 注射による殺害が行われた場所     G - 焼却場Ⅰと最初のガス室

      H - 収容所内の主監獄(“死のブロック”)     I - 処刑の壁     K - 女囚(主にユダヤ人)がナチスの医師により不妊化実験を施された収容棟

        L - 大量殺人に使われたチクロンBの缶と、到着したユダヤ人から奪った所有物の貯蔵所     M - 衣類と囚人から奪った所有物の貯蔵所

        N - 衣類と囚人服の貯蔵所兼小包チェックエリア     1 - 日々の点呼中にナチス親衛隊員が報告を受けた場所     2 - 台所(1940年)

    3 - 台所(1941年以降)     4 - 洗濯室     5 - 作業室・物置・ナチス親衛隊員のオフィス     6 - 司令官室     7 - ゲシュタポの執務室

           8 - 収容所管理本部     9 - 囚人の労働管理部門     10 - 警備本部と収容所管理役の事務室     11 - ナチスの病院

                                     12 - ナチスの車庫     13 - 消火用貯水槽

           ‐ 四角形に囲まれた収容棟番号は1941年8月半ばまで使用されたもの、数字だけの収容棟番号は1941年9月から使用されたもの。

           ‐ 青い点がついた収容棟は、内部に展示あり。

           (* “死のブロック”11号棟では、チクロンBを使っての初めてのガス殺実験が行われました。)

 

≪ つづく ≫

 

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