6月7日(金)の続きです。
収容棟のいくつかは、テーマに沿った展示に使われていました。例えば下左は、“Material Proofs of Crime(犯罪の証拠品)”を展示している5号棟です。
下右は、アウシュヴィッツに送られてきたユダヤ人他外国人が、どこから連行されてきたのかを示す地図。北はオスロから、南はロードス島まで・・・ナチスがどれほど強大だったかがよくわかります。
犠牲者の遺灰が収められているという慰霊碑(下左)。
“アウシュヴィッツは、ナチス・ドイツの最も広大な強制・絶滅収容所だった。1940年から1945年の間に、ナチスはアウシュヴィッツに、少なくとも130万人を送り込んだ。
うち110万人がユダヤ人、14万から15万人がポーランド人、2万3千人がロマ人(ジプシー)、1万5千人がソ連軍捕虜、2万5千人がその他の人種。
110万人がアウシュヴィッツで死亡した。その約90%がユダヤ人だった。ナチス親衛隊は、犠牲者の大多数をガス室で殺害した。”
ヨーロッパ各地のゲットーや中継地の収容所から、アウシュヴィッツへと追い立てられる人々。
『選別前』 『選別後』
『死への途上』 ガス室・焼却場の模型。
“Extermination(絶滅)” を展示する4号棟。
膨大な数の囚人をガス殺するために使われた、チクロンBの空缶。
ガス室に送られる前の犠牲者から強制的に切り取られた、膨大な量の髪の毛の展示もありました。人毛で織った織物も。その部屋は写真撮影禁止でしたが、写真はこちらで見ることができます。博物館には2トンもの人毛が保存されているそうです。
各地にあったナチスの強制/絶滅収容所の写真。 (KLはKonzentrationslager=Concentration Camp=強制収容所、の略。)
囚人たちの写真と囚人服の陳列です。囚人たちの写真は、展示棟の通路両側の壁にもずらりと掲げられていました。
門の近くに戻ってきました(下左)が、まっすぐ門に向かわずに右折します。
“収容所生活での多くの苦難のうちのひとつは、日常的に行われる点呼だった。点呼中は、何千人といた全囚人がこの中央広場に直立させられた。のちにもともとの点呼場所に建物が増築されてからは、囚人たちは収容所内の通りに整列させられた。点呼が何時間にも及ぶことはよくあり、時には12時間以上かかることもあった。
画: 『1941年の点呼の様子』 ポーランド人のアウシュヴィッツ生残者 Mieczyslaw Koscielniak 作、1972年”
監視塔の左側奥の煙突と、右側奥の鉄棒のようなもの(=下右写真)、見えますか?
“ここには、収容所のゲシュタポが置かれていた。収容所内の地下抵抗組織への関与、あるいは逃亡の準備を疑われた者は、ここで尋問された。囚人の多くが、暴行や拷問の結果死亡した。
アウシュヴィッツの初代所長を務めたルドルフ・ヘスは、戦後ポーランド最高人民裁判所で死刑判決を受け、1947年4月16日にここで絞首刑に処された。”
・・・ 処刑の瞬間、ヘスは何を思ったのでしょう ・・・
絞首台の左手には草の茂る盛り土があり、そこにあった説明版(下左)を過ぎて右に曲がると、盛り土の下はガス室/焼却場でした。
ガス室/焼却場の見取図。左が1942年当時のもの、右が今日のもの。
a - 予備の鉄格子の貯蔵所 b - 遺灰が貯蔵された部屋、手洗い所 c - ガス室、死体置場 d - 焼却炉
e - 煙突 f - 焼却炉の燃料用コークスの貯蔵所 g - 事務室
“この建物は、戦前は軍需品の貯蔵庫だった。1940年8月15日から1943年7月まで、ナチスはこれを焼却場として使用した。1941年秋に、死体置場として使われていた最も大きい部屋は、即席のガス室へと転用された。アウシュヴィッツにおける、初めてのガス室であった。チクロンBの粒々が発生するガスにより、何千人ものユダヤ人がここで、到着後数時間以内にナチスにより殺害された。ソ連軍の戦争捕虜や、具合が悪く働けない囚人もまた、同様の方法で殺害された。ドイツの簡易裁判所で死刑を宣告された収容所外部のポーランド人は、ここで射殺された。
1942年春と夏に、ユダヤ人虐殺のための即席のガス室2基がビルケナウに設置されると、ここでのガス殺は徐々になくなっていった。その後ビルケナウに4基のガス室/焼却場が完成すると、ここでの死体焼却はなくなった(1943年7月)。建物はその後は貯蔵庫、のちにはナチス親衛隊員用の防空壕として使用された。焼却炉、煙突、壁のうちのいくつかは解体撤去され、チクロンBの投入に使われた屋根の穴は塞がれた。
戦後博物館は、ガス室と焼却場を部分的に再建した。煙突と焼却炉は、ガス室屋根の穴と同様、元のパーツを使って再築された。”
ガス室/焼却場への入口。 入ってすぐのスペース。
“ナチスはこの建物の内部で、何千もの人々を殺害しました。 どうかお静かに願います: 彼等の苦難を心に刻み、彼等の記憶に敬意をお払い下さい。”
下右は、ガス室部分です。
天井にあった突出部分(下左)は、戦後に復元されたチクロンBの投入口だと思います。下右は、焼却場。
ガス室/焼却場を後にし、出入口のあるビジター・センターへと戻ります。
みたび、メイン・ゲートです。
この頃時間は、午後7時半。私の少し先に、家族らしい4人連れがいるだけでした。
“1944年後半、ソ連軍の接近に伴い、ナチスはドイツ国内にある他の強制収容所への、囚人の移送を始めた。1945年1月半ば、囚人の移送と収容所の解体の最終命令が下った。
1945年1月17日から21日にかけて、ナチスは歩ける囚人約5万6千人を、アウシュヴィッツと周辺のサブキャンプから徒歩で退去させた。『死の行進』と呼ばれるこの最後の悲劇は、多くの犠牲者を出した。”
アウシュヴィッツⅠで私が歩いただいたいのルートです。 右上隅にある十字架については、次回の記事で触れます。
A - 有名な“Arbeit macht frei”を掲げた門 B - 新たに到着した囚人が調べられ登録された建物 C - 銃殺刑が行われた場所
D - 絞首刑が行われた場所 E - チクロンBで大量ガス殺が行われた場所* F - 注射による殺害が行われた場所 G - 焼却場Ⅰと最初のガス室
H - 収容所内の主監獄(“死のブロック”) I - 処刑の壁 K - 女囚(主にユダヤ人)がナチスの医師により不妊化実験を施された収容棟
L - 大量殺人に使われたチクロンBの缶と、到着したユダヤ人から奪った所有物の貯蔵所 M - 衣類と囚人から奪った所有物の貯蔵所
N - 衣類と囚人服の貯蔵所兼小包チェックエリア 1 - 日々の点呼中にナチス親衛隊員が報告を受けた場所 2 - 台所(1940年)
3 - 台所(1941年以降) 4 - 洗濯室 5 - 作業室・物置・ナチス親衛隊員のオフィス 6 - 司令官室 7 - ゲシュタポの執務室
8 - 収容所管理本部 9 - 囚人の労働管理部門 10 - 警備本部と収容所管理役の事務室 11 - ナチスの病院
12 - ナチスの車庫 13 - 消火用貯水槽
‐ 四角形に囲まれた収容棟番号は1941年8月半ばまで使用されたもの、数字だけの収容棟番号は1941年9月から使用されたもの。
‐ 青い点がついた収容棟は、内部に展示あり。
(* “死のブロック”11号棟では、チクロンBを使っての初めてのガス殺実験が行われました。)
≪ つづく ≫