6月7日(金)の観光の続きです。
ビルケナウの南側を占めるレンガ造りのバラックは、左手(南東側)と右手(南西側)に分かれていました。まず南東側(下の写真の左側)を訪れました。
案内図(下左)についていた説明によると、収容所の南東にあるこの部分(BⅠa)は1942年8月から、様々な国から搬送されてきた女性を収容するため使われたそうです。戦争の終結が近づくと、ナチス親衛隊は収容所の閉鎖準備を始めました。1944年11月、女性の囚人の一部は再搬送されていき、残った者のうち子供や病人はBⅡe棟へ、まだ働ける者はBⅡb棟へと移されました。(BⅡというのは、同じビルケナウの木造収容棟群のことのようです。)
今説明を読んで知ったのですが、13(16)と番号がふってある収容棟には時として子供が収容されたため、壁に子供が描いた絵が残っているそうです。25号棟は、ガス室での殺害が決まっている女性を収容したため“Death Barrack”と呼ばれました。28号棟は“医務診療棟”。女性やビルケナウで生まれた赤ん坊が、ここで心臓にフェノールを注射され殺害されました。30号棟では、親衛隊医師たちにより違法な不妊化実験が行われ、31(1)号棟にはヨーゼフ・メンゲレが人体実験に使う予定のユダヤ人の子供たちが収容されていました。
入口の門(下方中ほど)から入って左の建物Cはシャワー棟、右のAはキッチン。南側に並ぶDと印された5棟は、トイレと手洗い所。Fはフランス人犠牲者のための慰霊碑だそうです。収容棟の番号にはカッコなしとカッコつきがありますが、それは番号付けが途中で変わったためで、カッコなしは1942年8月から1944年6月まで、カッコつきは1944年6月から同年11月まで使われたものだそうです。
(英語を読んでいると時間がかかるので、案内板は写真を撮っただけでした。その場でちゃんと読めば、これだけの予備知識が得られていたのに・・・)
寝心地の悪そうな寝床が並びます。 SEI RUHIG! (ドイツ語で「静かに!」)と書かれた壁。
レンガ造りの収容棟とはいえ、屋根との間には大きな隙間(下左)が。それに『レンガの収容棟の暖房設備は木造収容棟のものよりずっと小さかったため、実際には木造バラックの方が(防寒の点では)まだましだった』という記述もネットのどこかで読みました。真冬はマイナス25℃まで下がることもあるというこの地・・・
収容棟から外に出ると、内部の印象とは対照的な、まぶしいほどの青空と緑。 暖房設備の残骸しか残っていない収容棟もありました。
ビルケナウの奥(西側)に近づいてきました。下の写真、左にある池には犠牲者の灰が大量に沈められたと考えられています。中央の崩れた建物は、証拠隠滅のためナチスが爆破していったガス室/焼却場の残骸。
池の手前には、異なる言語で碑文が刻まれた石碑が4つ立っていました。英語の碑文は次の通り。
“To the memory of the men, women, and children who fell victim to the Nazi genocide.
Here lie their ashes. May their souls rest in peace.”
(ナチスの虐殺の犠牲になった男性、女性、子供たちに捧ぐ。ここに彼等の遺灰が眠る。彼等の魂が安らかであらんことを。)
その先には、この第2ガス室/焼却場に関する3つの案内板。
下左の案内板によると、この第2ガス室/焼却場は次のようになっていました。
A-地下収容室(犠牲者がガス室に入る前に服を脱いだ部屋)への入口、C-地下収容室、D-ガス室、E-毒ガスを発生する固形のツィクロンBの投入口、F-5つの焼却炉を備えたホール、G-メンゲレの実験のため遺体が解剖された部屋、H-煙突、I-死者の遺灰が埋められた穴、J-死者の遺灰が撒かれた辺り、K-犠牲者の私的書類が焼かれた焼却炉、L-キャンプの他の部分から隔てられていたガス室/焼却場への門、M-下水設備、N-鉄道引き込み線、O-アウシュヴィッツ犠牲者に捧げられた国際慰霊碑。
下中は、1943年にナチス親衛隊により撮影された第2ガス室/焼却場の写真。手前にあるのは下水設備。数十万人ものユダヤ人がここでガス殺され、遺体を焼かれました。ここではまた、キャンプで死亡した被収容者の遺体も焼却処分にされました。使用されたのは、1943年3月から1944年11月まで。
下右は、犠牲者の遺体を処分するために使われた第2焼却場の写真。1943年にナチスが撮影。
第2ガス室/焼却場の全景です。
“死の門”から続いてきた線路の終わりです。 “死の門”からここまで、約820m ・・・
線路の向こう側には、第3ガス室/焼却場がありました。こちらもナチスによって、証拠隠滅のため破壊されています。
下左: この第3ガス室/焼却場は次のようになっていました。 A-地下収容室(犠牲者がガス室に入る前に服を脱いだ部屋)への入口、C-地下収容室、D-ガス室、E-毒ガスを発生する固形のツィクロンBの投入口、F-5つの焼却炉を備えたホール、G-煙突、H-(遺体の)歯から除かれた金を溶かすためのるつぼ、I-ガス室に送られたユダヤ人の私的書類が焼かれた焼却炉、J-死者の遺灰が撒かれた辺り、K-キャンプの他の部分から隔てられていたガス室/焼却場への門、M-アウシュヴィッツ犠牲者に捧げられた国際慰霊碑。
下中: ハンガリーから搬送され、すぐさまガス室送りと決められたユダヤ人の女性と子供たち。背景には線路と第3焼却場。 1944年、ナチス撮影。
下右: 1943年にナチスにより撮影された第3ガス室/焼却場の写真。数十万人ものユダヤ人がここでガス殺され、遺体を焼かれました。 ここではまた、キャンプで死亡した被収容者の遺体も焼却処分にされました。使用されたのは、1943年6月から1944年11月まで。戦争の終結が近づくと、ナチス親衛隊はアウシュヴィッツで行われた残酷な犯罪の証拠を消すため、1944年11月に設備を解体しました。1945年1月20日には、ダイナマイトを使って残っていた部分を破壊しました。
第3ガス室/焼却場です。
アウシュヴィッツの全犠牲者に捧げられた、国際慰霊碑。
異なる言語で刻まれた慰霊のための碑が並んでいました。 英語版にはこう書かれていました。
“FOR EVER LET THIS PLACE BE A CRY OF DESPAIR AND A WARNING TO HUMANITY,
WHERE THE NAZIS MURDERED ABOUT ONE AND A HALF MILLION MEN, WOMEN, AND CHILDREN,
MAINLY JEWS FROM VARIOUS COUNTRIES OF EUROPE.
AUSCHWITZ-BIRKENAU 1940 - 1945”
『ヨーロッパ各国から連行された、主にユダヤ人から成る約150万人の男性・女性・子供をナチスが殺害したこの場所が、永遠に、
絶望の叫びと人類への警告とならんことを
アウシュヴィッツ-ビルケナウ 1940 ‐ 1945』
線路に並行する砂利道を、“死の門”へと戻ります。 一台だけ残る貨車に、二人の尼さんが近づいていました。
ビルケナウの南側を占める、レンガ造りの収容棟。 そうそう、ひとつ気づいたことがありました。 この広大なビルケナウのどこにもゴミが、ただのひとつも、落ちていなかったのです。
膨大な数の犠牲者に、膨大な数の訪問者が敬意を表しているのでしょう。
“死の門”の上にある監視塔には、上れないようでした。いつ見上げても塔内には人がいませんでしたから、私が上り口を見つけられなかったのではないと思います。上れないのが一時的になのか、それとも今後ずっとそうなのかは不明です。
[10月7日追記: アウシュヴィッツ・メモリアル博物館の公式ウェブサイトの“Rules for Visiting”のページの10番目に、次のような記述を発見しました。
『アウシュヴィッツⅡビルケナウ・キャンプのメイン・ゲートの監視塔へは、博物館のガイドを伴った30名以下のグループのみ入場可能。』なのだそうです。]
出口を出、すぐ右手にある駐車場から、アウシュヴィッツⅠ行きの無料のシャトルバスに乗りました。バスは午後4時半に発車しました。
私がビルケナウで歩いた、だいたいのルートです。 下が東。
A-正門と監視塔 - “死の門” BⅠ-第1セクター BⅠa-女性用キャンプ(ユダヤ人/非ユダヤ人)
BⅠb-当初は男性用キャンプ(ユダヤ人/非ユダヤ人)、1943年からは女性用キャンプ BⅡ-第2セクター
BⅡa-男性用隔離棟 BⅡb-テレジエンシュタット・ゲットーからのユダヤ人家族用キャンプ
BⅡc-他所へ移送されるユダヤ人女性の一時収容棟 BⅡd-男性用キャンプ(ユダヤ人/非ユダヤ人)
BⅡe-ジプシーの家族用キャンプ BⅡf-病気の男性収容棟(“病院棟”) BⅡg-被収容者から奪った品々の貯蔵所
C-搬入された囚人が到着した、線路の待避線と降車場 EⅡ-第2ガス室/焼却場の残骸 EⅢ-第3ガス室/焼却場の残骸
G-犠牲者の灰の処分に使われた畑地 H-犠牲者の灰が沈められた池 M-下水設備 O-ナチス兵看守の部屋
P-アウシュヴィッツ犠牲者への国際慰霊碑 R-ジプシーへの慰霊碑 S-フランス国民への慰霊碑
ネットで見つけた、アウシュヴィッツⅡビルケナウの航空写真。
予想はしていたものの、本当に本当に広大な場所でした。 ・・・・・
≪ つづく ≫