浜屋町北屋敷地区は、安城市役所の北東約4kmのところ
「安城市役所前」信号を北東方向へ、県道45号線を進みます、約1.3kmの「大東町北」信号からは県道76号線です
道成に約2.1kmで国道1号線「東栄町6丁目」信号で越えて、約700mの「明治川神社」信号を右(南東)へ、旧東海道です

間も無く左手に永安寺の地蔵堂が見え直ぐ先に目的の「雲竜の松」です(南西側から境内を見ました)
松の側に
駐車スペースがありますので利用させて頂きました

「禅宗 永安寺」寺号標です

地蔵堂です

南側から境内を覆う様に大きな雲竜の松です

説明版です
県指定天然記念物 永安寺の雲竜の松 昭和60年11月25日指定
永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。
大浜茶屋村の庄屋であった柴田助太夫は、街道の宿場駅へ必要に応じて人馬を供給する助郷役を村から命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たと伝えられます。
領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。
村では、領主の代替わりごとに、もの助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。
村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草案は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山 永安寺」と名づけられました。
一般的に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは高さ1.5mのところから北西・南・東の3方向に分かれて横に伸びています。
この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれています。
樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます。
幹周囲 4.4m
樹高 4.8m
枝張り 東西17.9m、南北24.7m
樹齢 推定350年
(平成28年現在)
安城市教育委員会



太い幹を見上げました

東側から



幹を見ました



北側から



北西側から



南西側から

マツの北西側には石仏が並びます

鐘楼です

本堂です

本堂前から全体を見ました
では、次へ行きましょう

2025・4・3・7・05
「安城市役所前」信号を北東方向へ、県道45号線を進みます、約1.3kmの「大東町北」信号からは県道76号線です
道成に約2.1kmで国道1号線「東栄町6丁目」信号で越えて、約700mの「明治川神社」信号を右(南東)へ、旧東海道です

間も無く左手に永安寺の地蔵堂が見え直ぐ先に目的の「雲竜の松」です(南西側から境内を見ました)

松の側に


「禅宗 永安寺」寺号標です


地蔵堂です


南側から境内を覆う様に大きな雲竜の松です


説明版です
県指定天然記念物 永安寺の雲竜の松 昭和60年11月25日指定
永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。
大浜茶屋村の庄屋であった柴田助太夫は、街道の宿場駅へ必要に応じて人馬を供給する助郷役を村から命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たと伝えられます。
領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。
村では、領主の代替わりごとに、もの助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。
村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草案は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山 永安寺」と名づけられました。
一般的に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは高さ1.5mのところから北西・南・東の3方向に分かれて横に伸びています。
この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれています。
樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます。
幹周囲 4.4m
樹高 4.8m
枝張り 東西17.9m、南北24.7m
樹齢 推定350年
(平成28年現在)
安城市教育委員会



太い幹を見上げました


東側から




幹を見ました




北側から




北西側から




南西側から


マツの北西側には石仏が並びます


鐘楼です


本堂です


本堂前から全体を見ました

では、次へ行きましょう


2025・4・3・7・05
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます