鴨島町麻植塚地区は、吉野川市役所の東北東約2kmのところ
吉野川市役所西側の県道31号線を北へ、約200mで右(東)へ、国道318号線です
約500mの感応式「鴨島町中島」信号を左(北)へ細い道に入ります
約100mで突き当らいを右(東北東)へ、県道239号線です
約1.5kmで道路右手に五所神社が北向きに鎮座します
前の道路幅の広がった所に車を止めさせて頂きました
境内入口の鳥居と目的のイチョウが見えます
鳥居下からイチョウを見ました
手水舎です
南側から、細い注連縄が巻かれています
東側から
幹の中には焦げ跡が見られます
説明版です
五所神社(瑜伽神社)の由来
祭神 五所神社
伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)
伊弉諾命は伊弉冉命と夫婦となり、わが国土・山川草木・諸々の神を産んだ神々。
伊弉冉命は、最後に火神を産んだために崩ぜられた。熊野神社など多くの神社の御祭神。
大山祇命(おおやまつみのみこと)
神産みの際に生まれた山の神。愛知県大三島の大山祇神社の御祭神。
誉田別命(ほんだわけのみこと)
応神天皇の別名。八幡神社の御祭神。
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
仲哀天皇の皇后であり応神天王の母。誉田別命と一緒に八幡神社で祀られる。
瑜伽神社
大麻綜杵命(おおへつきのみこと)
祟神天皇の第3皇子に座して、大麻綜杵命は天太玉命の(ふとたまのみこと=布刀玉命・忌部の祖神)のお孫なり。
御母后は伊香色許売命(いかがしこめのみこと:祟神天皇のの生母)と申し祀る。
この地、大麻綜杵命と呼びにくき故に麻植津賀(おえつか)と称せる。
「阿波風土記の一節」(登記種類より)
由緒と沿革
往昔には、山路森藤三谷柿原氏子にして氏神なく、安政6年吉野川と飯尾川大洪水の秋祭り参詣で出来難い事往にあり。
瑜伽神社の境内に遷し(十二社神社、柿原山神社、向麻山の西麓山路八幡神社、森藤八幡神社、)五社を合祠し五社大明神と敬称をなした。
明治初期に社称を五社神社と改称する。また、大正15年1月29日の徳島県指令第343号により境内北の瑜伽神社を五社神社へ合祀許可を得る。(国有境内地譲与申請に関する書類より)
麻植塚史蹟
「麻植神塚」字麻植塚小字麻植塚なり。同地に面積5坪高さ3尺の古墳あり、麻植神塚と称えて、付近を塚西・塚東と称し、今倉種集の氏人の今鞍進士(吉野川市美郷の後藤田家)の租を祀る(石碑あり)。
この地に今倉姓あり、今鞍進士の末裔ならんと云う。此の地を大麻綜杵と呼びにくき故に麻植津賀と称せる。
向麻山の麓の北西に麻搗、麻晒の岩あり。高さ2尺、周囲6間の岩ありしが前年用水路のため破壊される。
その付近を流れる飯尾川を麻清、麻清の口とも云う。「阿波風土記に見ゆ」(登録書類より)
五社神社 宮司 石田 志朗
北東側から
北西側から、樹高16m、目通り幹囲6.1mの巨木です
西側から
拝殿です
本殿です
社殿改築記念碑です
社殿改築記念碑
当社は俗称を「瑜伽神社」と云い、崇神天皇第3皇子大麻綜杵命の外五柱を祀る。
旧社殿は明治41年改築以来、幾多の星霜を経て老朽化したため、神徳の尊厳を護持せんと崇敬の念篤き氏子各位より多額の浄財が奉斎され、祝詞殿、拝殿、向拝の改築を竣工するに至った。
その要録をここに記す。
平成6年8月吉日 五所神社氏子
境内社の石祠が並びます
境内東側のクスノキです、目通り幹囲は4m程の大木です
クスノキを見上げました
では、次へ行きましょう
2024・6・8・13・50
吉野川市役所西側の県道31号線を北へ、約200mで右(東)へ、国道318号線です
約500mの感応式「鴨島町中島」信号を左(北)へ細い道に入ります
約100mで突き当らいを右(東北東)へ、県道239号線です
約1.5kmで道路右手に五所神社が北向きに鎮座します
前の道路幅の広がった所に車を止めさせて頂きました
境内入口の鳥居と目的のイチョウが見えます
鳥居下からイチョウを見ました
手水舎です
南側から、細い注連縄が巻かれています
東側から
幹の中には焦げ跡が見られます
説明版です
五所神社(瑜伽神社)の由来
祭神 五所神社
伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)
伊弉諾命は伊弉冉命と夫婦となり、わが国土・山川草木・諸々の神を産んだ神々。
伊弉冉命は、最後に火神を産んだために崩ぜられた。熊野神社など多くの神社の御祭神。
大山祇命(おおやまつみのみこと)
神産みの際に生まれた山の神。愛知県大三島の大山祇神社の御祭神。
誉田別命(ほんだわけのみこと)
応神天皇の別名。八幡神社の御祭神。
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
仲哀天皇の皇后であり応神天王の母。誉田別命と一緒に八幡神社で祀られる。
瑜伽神社
大麻綜杵命(おおへつきのみこと)
祟神天皇の第3皇子に座して、大麻綜杵命は天太玉命の(ふとたまのみこと=布刀玉命・忌部の祖神)のお孫なり。
御母后は伊香色許売命(いかがしこめのみこと:祟神天皇のの生母)と申し祀る。
この地、大麻綜杵命と呼びにくき故に麻植津賀(おえつか)と称せる。
「阿波風土記の一節」(登記種類より)
由緒と沿革
往昔には、山路森藤三谷柿原氏子にして氏神なく、安政6年吉野川と飯尾川大洪水の秋祭り参詣で出来難い事往にあり。
瑜伽神社の境内に遷し(十二社神社、柿原山神社、向麻山の西麓山路八幡神社、森藤八幡神社、)五社を合祠し五社大明神と敬称をなした。
明治初期に社称を五社神社と改称する。また、大正15年1月29日の徳島県指令第343号により境内北の瑜伽神社を五社神社へ合祀許可を得る。(国有境内地譲与申請に関する書類より)
麻植塚史蹟
「麻植神塚」字麻植塚小字麻植塚なり。同地に面積5坪高さ3尺の古墳あり、麻植神塚と称えて、付近を塚西・塚東と称し、今倉種集の氏人の今鞍進士(吉野川市美郷の後藤田家)の租を祀る(石碑あり)。
この地に今倉姓あり、今鞍進士の末裔ならんと云う。此の地を大麻綜杵と呼びにくき故に麻植津賀と称せる。
向麻山の麓の北西に麻搗、麻晒の岩あり。高さ2尺、周囲6間の岩ありしが前年用水路のため破壊される。
その付近を流れる飯尾川を麻清、麻清の口とも云う。「阿波風土記に見ゆ」(登録書類より)
五社神社 宮司 石田 志朗
北東側から
北西側から、樹高16m、目通り幹囲6.1mの巨木です
西側から
拝殿です
本殿です
社殿改築記念碑です
社殿改築記念碑
当社は俗称を「瑜伽神社」と云い、崇神天皇第3皇子大麻綜杵命の外五柱を祀る。
旧社殿は明治41年改築以来、幾多の星霜を経て老朽化したため、神徳の尊厳を護持せんと崇敬の念篤き氏子各位より多額の浄財が奉斎され、祝詞殿、拝殿、向拝の改築を竣工するに至った。
その要録をここに記す。
平成6年8月吉日 五所神社氏子
境内社の石祠が並びます
境内東側のクスノキです、目通り幹囲は4m程の大木です
クスノキを見上げました
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