田口居立地区は、設楽町役場の直ぐ西側です
福田寺は、西側の山の中腹に在って国道473号線に参道を南東向きに開いています
駐車場は参道入口の北東側に
第3駐車場が有りますので利用させて頂きました(第一・二駐車場は、東側から入る事ができるようです)

参道山門です

右手上の境内に鐘楼が見えます


参道両側に石仏が並びます

手水です

六地蔵様です


本堂前の石段です

本堂です

東海自然歩道の説明版です
天竜奥三河国定
ここ設楽町田口は江戸時代から宿場町として発展し、現在でも奥三河の玄関となっています。交通の便も良く、旅館もあります。
自然歩道はここ福田寺の背後を回って、貴重な植物が数多く見られる名勝・岩古谷へと通じています。
岩古谷山の手前から鞍掛山・塩津温泉までは800m級の尾根歩きで、たいへん険しいコースです。
寺の正面の階段をおりれば、水のきれいな寒狭川に添って原生林で有名な段戸裏谷へ通じる快適なコースです。
*脇の標柱には東京まで405kmと有りますが、これは東海自然歩道を辿っての距離の様です、浜松市に出て東海道を辿ると300km程になるようです

弁財天の池です

池の西側に信玄塚です

手前は、馬場信房公塚です
*馬場 信房(ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。文献によっては房信とも。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた歴戦の重臣だったが、長篠の戦いで討ち死にした。

奥に在るのが武田信玄公塚です

説明版です
武田信玄公塚
当寺(応永9年・1402創建・臨済宗妙心寺派)は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元年(1573)野田城を攻略のとき、病におかされた公は、帰国の途次当寺においてしばし療養の後來去されたと伝えられる。
但し、その後再三火災のため資料焼失し確実な事跡は不詳である。
尚、当寺の記録によれば
天正元年6月26日甲州太守武田大善大夫信玄法性院殿機山玄公大居士、当所尊体を埋む、とある。

西側の墓地の中にイヌグスの切株が残っていました
では、次へ行きましょう
福田寺は、西側の山の中腹に在って国道473号線に参道を南東向きに開いています
駐車場は参道入口の北東側に


参道山門です


右手上の境内に鐘楼が見えます



参道両側に石仏が並びます


手水です


六地蔵様です



本堂前の石段です


本堂です


東海自然歩道の説明版です
天竜奥三河国定
ここ設楽町田口は江戸時代から宿場町として発展し、現在でも奥三河の玄関となっています。交通の便も良く、旅館もあります。
自然歩道はここ福田寺の背後を回って、貴重な植物が数多く見られる名勝・岩古谷へと通じています。
岩古谷山の手前から鞍掛山・塩津温泉までは800m級の尾根歩きで、たいへん険しいコースです。
寺の正面の階段をおりれば、水のきれいな寒狭川に添って原生林で有名な段戸裏谷へ通じる快適なコースです。
*脇の標柱には東京まで405kmと有りますが、これは東海自然歩道を辿っての距離の様です、浜松市に出て東海道を辿ると300km程になるようです

弁財天の池です


池の西側に信玄塚です


手前は、馬場信房公塚です

*馬場 信房(ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。文献によっては房信とも。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた歴戦の重臣だったが、長篠の戦いで討ち死にした。

奥に在るのが武田信玄公塚です


説明版です
武田信玄公塚
当寺(応永9年・1402創建・臨済宗妙心寺派)は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元年(1573)野田城を攻略のとき、病におかされた公は、帰国の途次当寺においてしばし療養の後來去されたと伝えられる。
但し、その後再三火災のため資料焼失し確実な事跡は不詳である。
尚、当寺の記録によれば
天正元年6月26日甲州太守武田大善大夫信玄法性院殿機山玄公大居士、当所尊体を埋む、とある。

西側の墓地の中にイヌグスの切株が残っていました

では、次へ行きましょう


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