ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県東海村、長松院です!!

2015-01-17 20:44:45 | 文化財・寺社
長松院は、石上城主の菩提寺です

石神城跡の南に有ります、外廓の位置です

県道358号線の信号北側に南入口が有ります



南側入口に大きな看板が有ります、石神城主歴代霊廟の文字も見えます


本堂です


案内版が本堂の脇に有ります

墓地入口です

霊廟です

霊廟前に石碑が有ります

  石神城主小野崎氏墓碑
石神小野崎氏は、平安時代に秀郷流藤原氏として常陸国久慈郡に勢力を張っていたが、源義光の久慈郡佐竹郷進出
にともない、その子孫の佐竹氏の家臣となり、佐都西郡小野崎郷を本貫の地とした、南北朝時代には足利尊氏方と
して佐竹貞義、義篤に従い、各地を転戦した、貞和四年に小野崎通郷が多賀郡友部の櫛形城に本拠を移したが、二
男道房は旧地にとどまり八百技城に移り石神氏の初代となった
永享四年、山入の乱にともなう石神城合戦で、小野崎越前三郎道房(初代道房の孫)は戦功を立て鎌倉公方足利持
氏より感状を与えられた、佐竹家内紛である山入の乱は約百年続いたが、その間近隣諸豪族の介入が強まった。
延徳元年、伊達、会津、白河、小山、結城一同が佐竹領に侵入した時、小野崎道綱は佐竹義治の身代わりとなって
久慈郡深萩で戦死し、佐竹軍を大勝の導いた、その功績によりその子道老に那珂郡石神三百五十貫、久慈郡川井三
百五十貫の地が与えられた。
山直、石神、額田の小野崎三家は同族の江戸氏と共に佐竹氏の宿老であったが、有力国人として強い独立性を持っ
ていた。
明応三年には、江戸氏・小野崎氏は岩城氏の仲介で山入氏との同盟を破棄し佐竹義舜と和睦し、永正十四年久慈郡
薩都郡宮に佐竹義舜・一門・一族ともに小野崎越前守通老・道長父子も銭を奉納している、しかし、亨徳二年部垂
の乱で佐竹家中が再び動揺すると、石神城主小野崎大蔵太夫道長と額田城主小野崎下野守篤道との間で領地争いが
起こり、天文十六年には額田氏の攻撃により石神城が落城した、しかし、永禄元年頃、佐竹義篤への戦功により、
帰城が認められ、石神城鎮守住吉神社を再建し戦死者の供養を行った、その後、道長の子小野崎越前守道隆は佐竹
義篤・義重の軍事動員に応じ、配下の人衆、足軽を引き連れ奥州南郷・常陸中南部・下野那須・芳賀郡に進出した
天正五年には道老の二男の讃岐守道真が、北条氏の北関東進出を防ぐため結城晴朝を支援し、佐竹義重のもとで三
百五十人を率いて参陣している。
文禄四年に佐竹義宜が領内の知行割を行った祭、小野崎千代房(通広)に那珂郡石神のうち九百石が与えられた、
しかし、慶長七年佐竹義宜が徳川家康によって秋田への移封を命ぜられると、小野崎義広もそれに従い秋田へ行き
石神城は廃城になった。
当墓碑は宝暦年中に元の墓碑が破損したため、旧領の石神内宿、外宿、白方、北河原の四か村が再建したもの。
それぞれの俗名は、没年の古い順から小野崎通老(天文九年没)道長(通老の長男天正十年没)通実(通老の二男
文禄四年没)である、もとの墓碑は文禄四年九月二十日に小野崎久三郎通広が三十石の田畑を菩提寺の長松院に寄
進しているので、この時に建立されたと考えられる。

当墓碑も長年の風雨にさらされ磨滅、破損が甚だしくなったため、平成十三年匕月長松院檀家有志の手により覆堂
が建てられ、保存が計られた。

では、次へ行きましょう

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