忍草地区は、忍野村役場のある地区です
忍野村役場の西北西約1.4kmの所に浅間神社が南向きに鎮座します
忍野役場前から県道717号線を西へ、道成りに進むと1.5kmで右手に浅間神社入口があります
前を過ぎて新名庄川のお宮橋を渡って直ぐを右(東)へ入ると、浅間神社の駐車場が有りますので歩いて戻ります
境内入口です、赤い鳥居と神門があります
手水舎です
社殿です
*本殿に祀られている木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・鷹飼(たかがい)・犬飼(いぬかい)坐像の三神像は、正和4年(西暦1315年)丹後国の仏師静存の作と伝えられています。
女神である木花咲耶姫命の像は、袴を付けしとやかな黒髪を胸元まで垂れ下げて、慈しみ深く微笑んでいます。
これらの坐像はすべてヒノキの一本造りで彫られ、彩色されています。この三神像は、御坂町にある美和神社の大物主命立像についで、県下最古となる貴重な御神像です。
境内南西端の境内末社は「大神官社」です
直ぐ北側の境内末社は「八坂神社」です
境内西端には薬師堂です
由緒碑です
浅間神社 祭神 木花之咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと) [別称:浅間大神(あさまのおおかみ)]
相殿 天津日高日子番能邇々藝能尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) [別称:愛鷹大神(あしたかのおおかみ)]
相殿 大山津見命(おおやまつみのみこと) [別称:足柄大神(あしがらののおおかみ)]
人皇第51代平城天皇御宇大同丁亥(紀元1467年)創祀、後鳥羽天皇文治2年丙午歳、御社殿再建、同天皇建久4年、源頼朝公富士裾野巻狩の時、鳥居峠(鳥居地峠?)鬼坂まで御朱印地として賜わる。
同年8月6日征夷大将軍源頼朝公より、鎌倉幕府武運長久祈祷を申付けられる。
同年和田小太郎義盛・畠山次郎重忠、随身門金剛2力士を建立する。
御陽成天皇(後陽成天皇?)慶長8年霜月初申神殿再建、東山天皇宝永2乙酉暦霜月初申神殿3間社極彩色に再々建。
中御門天皇正徳3年6月、東国の講中・武州江戸本郷春本町、伊右衛門・三左衛門・喜平治等より、大僧正常念書・富士大権現大鳥居大額奉納。
桜町天皇延享3年4月初申_殿再営造。天保2年現雨屋_殿再々造営、髄神門及び_殿は萱葺屋根なる故、数度の葺替するも、昭和51年9月本村出身・大森正男の浄財を奉り、銅版葺とし、殊更修理復元の大工を造営す。
創祠以来実に1170有余年、誠に悠久なる史歴にあけ偲び奉る、時天應元年、延暦19年、貞観6年、再三の大噴火し、嶽嶺より八方に溶岩雪頽れの如く押下し、為に往時奉斎当時の記念殊に、殿宇神霊を涜し奉ること恐懼外無之なり。
肇国の大御代から自然神秘の霊所に勧請し、鎮座坐し、奉り鎮火守護・天下泰平国鎮め・御安産子孫繁栄・農産機織の守護顕著にあり。
大八州国土の安穏尊護奉札る理念は赫々として、四海に洽を給心な身辺に詣でる、諸般の衆に対し一端を謹逑し、尊信継承し奉ること乞祈る。
昭和53年戌午歳 撰文 宮司天野尚光書
*一部読めない文字がありました<m(__)m>
社殿寄りに境内末社の「西五社」が並びます
直ぐ北側には境内末社の「天狗社」です
社殿東側に移動しました、社殿寄りに境内末社の「八幡社」です、直ぐ右側に石祠は境内末社の「熊野三社」です
社殿東側には西向きに「諏訪神社」です
諏訪神社の北側には宝物殿です、古い神輿等が展示されています
さらに東側には現在使用されている神輿を納めた「神輿殿」です
境内東端には境内末社の「坐摩社」(いかすりしゃ)です
では、次へ行きましょう
忍野村役場の西北西約1.4kmの所に浅間神社が南向きに鎮座します
忍野役場前から県道717号線を西へ、道成りに進むと1.5kmで右手に浅間神社入口があります
前を過ぎて新名庄川のお宮橋を渡って直ぐを右(東)へ入ると、浅間神社の駐車場が有りますので歩いて戻ります
境内入口です、赤い鳥居と神門があります
手水舎です
社殿です
*本殿に祀られている木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・鷹飼(たかがい)・犬飼(いぬかい)坐像の三神像は、正和4年(西暦1315年)丹後国の仏師静存の作と伝えられています。
女神である木花咲耶姫命の像は、袴を付けしとやかな黒髪を胸元まで垂れ下げて、慈しみ深く微笑んでいます。
これらの坐像はすべてヒノキの一本造りで彫られ、彩色されています。この三神像は、御坂町にある美和神社の大物主命立像についで、県下最古となる貴重な御神像です。
境内南西端の境内末社は「大神官社」です
直ぐ北側の境内末社は「八坂神社」です
境内西端には薬師堂です
由緒碑です
浅間神社 祭神 木花之咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと) [別称:浅間大神(あさまのおおかみ)]
相殿 天津日高日子番能邇々藝能尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) [別称:愛鷹大神(あしたかのおおかみ)]
相殿 大山津見命(おおやまつみのみこと) [別称:足柄大神(あしがらののおおかみ)]
人皇第51代平城天皇御宇大同丁亥(紀元1467年)創祀、後鳥羽天皇文治2年丙午歳、御社殿再建、同天皇建久4年、源頼朝公富士裾野巻狩の時、鳥居峠(鳥居地峠?)鬼坂まで御朱印地として賜わる。
同年8月6日征夷大将軍源頼朝公より、鎌倉幕府武運長久祈祷を申付けられる。
同年和田小太郎義盛・畠山次郎重忠、随身門金剛2力士を建立する。
御陽成天皇(後陽成天皇?)慶長8年霜月初申神殿再建、東山天皇宝永2乙酉暦霜月初申神殿3間社極彩色に再々建。
中御門天皇正徳3年6月、東国の講中・武州江戸本郷春本町、伊右衛門・三左衛門・喜平治等より、大僧正常念書・富士大権現大鳥居大額奉納。
桜町天皇延享3年4月初申_殿再営造。天保2年現雨屋_殿再々造営、髄神門及び_殿は萱葺屋根なる故、数度の葺替するも、昭和51年9月本村出身・大森正男の浄財を奉り、銅版葺とし、殊更修理復元の大工を造営す。
創祠以来実に1170有余年、誠に悠久なる史歴にあけ偲び奉る、時天應元年、延暦19年、貞観6年、再三の大噴火し、嶽嶺より八方に溶岩雪頽れの如く押下し、為に往時奉斎当時の記念殊に、殿宇神霊を涜し奉ること恐懼外無之なり。
肇国の大御代から自然神秘の霊所に勧請し、鎮座坐し、奉り鎮火守護・天下泰平国鎮め・御安産子孫繁栄・農産機織の守護顕著にあり。
大八州国土の安穏尊護奉札る理念は赫々として、四海に洽を給心な身辺に詣でる、諸般の衆に対し一端を謹逑し、尊信継承し奉ること乞祈る。
昭和53年戌午歳 撰文 宮司天野尚光書
*一部読めない文字がありました<m(__)m>
社殿寄りに境内末社の「西五社」が並びます
直ぐ北側には境内末社の「天狗社」です
社殿東側に移動しました、社殿寄りに境内末社の「八幡社」です、直ぐ右側に石祠は境内末社の「熊野三社」です
社殿東側には西向きに「諏訪神社」です
諏訪神社の北側には宝物殿です、古い神輿等が展示されています
さらに東側には現在使用されている神輿を納めた「神輿殿」です
境内東端には境内末社の「坐摩社」(いかすりしゃ)です
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