長生町北内地区は、阿南市役所の西約5kmのところ
阿南市役所南側の県道23号線を西へ、約500mで信号を右(北西)へ、県道130号線です
約700mの「富岡新橋」手前の信号を左(南西)へ、桑野川右岸堤防上の道路です
約800mで右(北西)へ、桑野川の「宝橋」を渡ります
道成に桑野川沿いの土手下道を約900mで右手に泉八幡宮です
更に土手下道を約1kmで丁字路を右(北北西)へ、道成りに約800mで丁字路を右(北西)へ
約600mで丁字路を右(北北東)へ
間も無く道路左に王子神社が東向きに鎮座します
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
水盤です
拝殿です
本殿です
説明版です
天然記念物
長正の暖地性樹林
昭和31年2月7日指定
指定の理由 10数種の暖地を代表する樹木が群生し、見事な自然の樹林である。
説明 見事な樹林と自然の植林がそのまま保存せられた代表的社叢として学術上の意義が深い。
保存上の注意すべき事項 ・樹木に傷をつけないこと ・煙草のすいがらをすてないこと
阿南市教育委員会・徳島県教育委員会
境内社が並びます
五角柱の五神名地神塔です
*コメントで「神が宿るところ」様から名前を教えて頂きましたので、変更いたしました
*徳島藩では、五神名地神塔を祀る信仰が藩の主導で広まった。徳島城下にある富田八幡宮の祠官・早雲古宝が寛政元年(1789)に藩主蜂須賀治昭に進言したのが始まりとされ、各村浦では五角柱の地神塔を奉斎し、庄屋が斎主となって春秋の二回、五穀豊穣を祈願した。塔の造立と祭儀は大江匡弼の『春秋社日醮儀』に従って行われたと考えられている。
(以上、ウィキペディア一部抜粋です)
拝殿東側のイチョウです
注連縄の巻かれたケヤキです
カシノキです
境内西側のモミノキです
境内北側に回って来ました
ホルトノキの巨木は枯れてしまって小さくなっています
では、次へ行きましょう
2024・6・11・7・20
阿南市役所南側の県道23号線を西へ、約500mで信号を右(北西)へ、県道130号線です
約700mの「富岡新橋」手前の信号を左(南西)へ、桑野川右岸堤防上の道路です
約800mで右(北西)へ、桑野川の「宝橋」を渡ります
道成に桑野川沿いの土手下道を約900mで右手に泉八幡宮です
更に土手下道を約1kmで丁字路を右(北北西)へ、道成りに約800mで丁字路を右(北西)へ
約600mで丁字路を右(北北東)へ
間も無く道路左に王子神社が東向きに鎮座します
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
水盤です
拝殿です
本殿です
説明版です
天然記念物
長正の暖地性樹林
昭和31年2月7日指定
指定の理由 10数種の暖地を代表する樹木が群生し、見事な自然の樹林である。
説明 見事な樹林と自然の植林がそのまま保存せられた代表的社叢として学術上の意義が深い。
保存上の注意すべき事項 ・樹木に傷をつけないこと ・煙草のすいがらをすてないこと
阿南市教育委員会・徳島県教育委員会
境内社が並びます
五角柱の五神名地神塔です
*コメントで「神が宿るところ」様から名前を教えて頂きましたので、変更いたしました
*徳島藩では、五神名地神塔を祀る信仰が藩の主導で広まった。徳島城下にある富田八幡宮の祠官・早雲古宝が寛政元年(1789)に藩主蜂須賀治昭に進言したのが始まりとされ、各村浦では五角柱の地神塔を奉斎し、庄屋が斎主となって春秋の二回、五穀豊穣を祈願した。塔の造立と祭儀は大江匡弼の『春秋社日醮儀』に従って行われたと考えられている。
(以上、ウィキペディア一部抜粋です)
拝殿東側のイチョウです
注連縄の巻かれたケヤキです
カシノキです
境内西側のモミノキです
境内北側に回って来ました
ホルトノキの巨木は枯れてしまって小さくなっています
では、次へ行きましょう
2024・6・11・7・20
「五角柱」は、「地神塔」、「社日(塚)」などと言って、産土神を祀るものといわれます。特に、五角柱の各面に天照大御神・大己貴神・少彦名神・埴安姫神・倉稲魂神の神名を刻したものを「五神名地神塔」といって、春に豊作祈願、秋に収穫感謝を行う、主に農村の祭りだそうです。岡山県では、神社の境内のほか、田圃の端などにも多く立てられていたのを見ました。
おはようございます、茨城県内の詳しい記事を期待して見させて頂いています
五角柱の名前を教えて頂いてありがとうございます
ネットで少し調べて分かりませんでしたので勉強になりました
ありがとうございました