山手1丁目は、洲本市役所の南東約700mのところに、洲本城のある三熊山麓部に石垣や堀が残ります
東側海岸線沿いの大浜海水浴場駐車場に
車を止めさせて頂きました

「洲本大浜 景勝 千本黒松」の大きな石碑です


砂浜をクロマツが覆っています

横断歩道を渡って西へ進みましょう、石垣の上にもクロマツです

洲本八幡神社へ向かう道路左手に石垣と水堀が続きます

「史跡 洲本城跡」の石碑です

説明版です
洲本城跡
背後の三熊山頂の洲本城は、戦国時代に安宅氏によって築かれ、羽柴秀吉の淡路攻めにより落城しました。
その後天正13年(1585)から慶長14年(1609)まで洲本城主の脇坂安治(賤ケ岳七本槍の一人)により石垣が築かれ本格的な山城となりました。(平成11年国史跡に指定)脇坂安治の移動後、岩屋城や現在の由良成ヶ島にあった由良城が淡路統治の拠点となりました。
この山下の洲本城は阿波藩主蜂須賀氏が由良城を廃して寛永8年(1631)から寛永12年(1635)までに築いた平城です。(昭和58年洲本市史跡に指定)同じ頃に城下町も移転され、これを「由良引き」と呼んでいます。
城(文化資料館)の向かいには蜂須賀氏筆頭家老の洲本城代稲田氏の屋敷がありました。

向かい側には大きな寺院(洲本念法寺)のビルが建っています

「お登勢の像」と松の葉陰に洲本城模擬天守です

説明石碑です
庚午事変と「お登勢」
江戸時代の淡路は、阿波の大名蜂須賀氏の領国であった。蜂須賀氏は、筆頭家老の稲田氏をはじめ家臣を洲本に派遣して、淡路を支配していた。
稲田氏は、阿波と淡路に約14500石という、大名並みの知行地を与えられ、多数の家臣を抱えて、淡路の最高行政職である洲本仕置や、洲本城代に度々任じられた。
その稲田氏の家臣は、陪臣(又家来)だとして蜂須賀家臣からは低く見られたが、主君稲田氏の祖先が、蜂須賀氏草創の時から大きな功労があることや、稲田氏が大名格で公卿とも縁組していることなどに誇りをもっていた。
幕末の激動期になると、蜂須賀氏が幕府支持派であったのに対して、稲田氏やその家臣は、積極的に尊王攘夷運動に参加し、明治新政府の樹立に貢献した。
ところが、維新により身分制度の変革で、蜂須賀家臣が士族になったのに、稲田家臣は卒という一段低い身分に編入され、しかも僅かばかりの手当が藩から支給されることとなりった。この処置に強い不満をもった稲田家臣は、三田昂馬等を中心として、稲田氏分播独立運動へと発展させていった。
このような稲田家臣の動きは、蜂須賀家臣を憤激させ、遂に大村純安・平瀬伊右衛門・多田禎吾等洲本在住の過激派が決起することとなった。
明治3年(1870)5月13日早朝、蜂須賀家臣に率いられた800名余りの兵が銃のほか大砲までも引き出して、洲本市中の稲田氏の邸宅や学問所である益習館、稲田家臣の屋敷を次々襲い、殺傷・捕縛連行・放火した。
稲田側は無抵抗であったこともあり、自決2名・即死15名・重傷6名・軽傷14名・消失家屋多数という大きな被害を被った。この年が「かのえうま」に当たることから、事件を庚午事変と呼んでいる。
明治政府の下した処置は厳しく、蜂須賀側の首謀者10名に斬罪、27名を伊豆諸島への流罪とし、禁固や謹慎は多数に及んだ。
一方稲田側は、当主の稲田邦植以下家臣が北海道への移住を命ぜられ、翌年荒野の広がる日高国静内へと移って行った。
この騒動の影響は大きく、洲本は一時活気を失ったほか、明治9年には淡路が徳島から分離されて、兵庫県に編入されることとなった。
この庚午事変を背景として書かれた、船山肇原作の小説「お登勢」が、平成13年NHKでテレビドラマ化され、12回連続で放映された。
激動の時代を愛一筋に、健気に生き抜いた「お登勢」の姿が人々に感動を与え、好評を博した。
これによって洲本は「お登勢」の町として全国に知られると共に、庚午事変が改めて注目されるようになった。
平成14年5月13日 お登勢の銅造建立実行委員会・碑文 淡路地方歴史研究会

藩庁東民政所跡は

淡路文化資料館です

入口には何故か「信楽の狸」が立っていました

検察庁前の石垣です

裁判所前の石垣にはサクラが満開でした

洲本税務署入口側から

税務署入口から復興天守を見上げました、洲本城天守は、昭和3年(1928)に鉄筋コンクリートで築造された、日本最古の模擬天守です

柴右衛門狸と柴助の像です

洲本ウォーキングトレイルの説明版です
では、洲本八幡神社へ行きましょう
2025・4・4・8・30
東側海岸線沿いの大浜海水浴場駐車場に


「洲本大浜 景勝 千本黒松」の大きな石碑です



砂浜をクロマツが覆っています


横断歩道を渡って西へ進みましょう、石垣の上にもクロマツです


洲本八幡神社へ向かう道路左手に石垣と水堀が続きます


「史跡 洲本城跡」の石碑です


説明版です
洲本城跡
背後の三熊山頂の洲本城は、戦国時代に安宅氏によって築かれ、羽柴秀吉の淡路攻めにより落城しました。
その後天正13年(1585)から慶長14年(1609)まで洲本城主の脇坂安治(賤ケ岳七本槍の一人)により石垣が築かれ本格的な山城となりました。(平成11年国史跡に指定)脇坂安治の移動後、岩屋城や現在の由良成ヶ島にあった由良城が淡路統治の拠点となりました。
この山下の洲本城は阿波藩主蜂須賀氏が由良城を廃して寛永8年(1631)から寛永12年(1635)までに築いた平城です。(昭和58年洲本市史跡に指定)同じ頃に城下町も移転され、これを「由良引き」と呼んでいます。
城(文化資料館)の向かいには蜂須賀氏筆頭家老の洲本城代稲田氏の屋敷がありました。

向かい側には大きな寺院(洲本念法寺)のビルが建っています


「お登勢の像」と松の葉陰に洲本城模擬天守です


説明石碑です
庚午事変と「お登勢」
江戸時代の淡路は、阿波の大名蜂須賀氏の領国であった。蜂須賀氏は、筆頭家老の稲田氏をはじめ家臣を洲本に派遣して、淡路を支配していた。
稲田氏は、阿波と淡路に約14500石という、大名並みの知行地を与えられ、多数の家臣を抱えて、淡路の最高行政職である洲本仕置や、洲本城代に度々任じられた。
その稲田氏の家臣は、陪臣(又家来)だとして蜂須賀家臣からは低く見られたが、主君稲田氏の祖先が、蜂須賀氏草創の時から大きな功労があることや、稲田氏が大名格で公卿とも縁組していることなどに誇りをもっていた。
幕末の激動期になると、蜂須賀氏が幕府支持派であったのに対して、稲田氏やその家臣は、積極的に尊王攘夷運動に参加し、明治新政府の樹立に貢献した。
ところが、維新により身分制度の変革で、蜂須賀家臣が士族になったのに、稲田家臣は卒という一段低い身分に編入され、しかも僅かばかりの手当が藩から支給されることとなりった。この処置に強い不満をもった稲田家臣は、三田昂馬等を中心として、稲田氏分播独立運動へと発展させていった。
このような稲田家臣の動きは、蜂須賀家臣を憤激させ、遂に大村純安・平瀬伊右衛門・多田禎吾等洲本在住の過激派が決起することとなった。
明治3年(1870)5月13日早朝、蜂須賀家臣に率いられた800名余りの兵が銃のほか大砲までも引き出して、洲本市中の稲田氏の邸宅や学問所である益習館、稲田家臣の屋敷を次々襲い、殺傷・捕縛連行・放火した。
稲田側は無抵抗であったこともあり、自決2名・即死15名・重傷6名・軽傷14名・消失家屋多数という大きな被害を被った。この年が「かのえうま」に当たることから、事件を庚午事変と呼んでいる。
明治政府の下した処置は厳しく、蜂須賀側の首謀者10名に斬罪、27名を伊豆諸島への流罪とし、禁固や謹慎は多数に及んだ。
一方稲田側は、当主の稲田邦植以下家臣が北海道への移住を命ぜられ、翌年荒野の広がる日高国静内へと移って行った。
この騒動の影響は大きく、洲本は一時活気を失ったほか、明治9年には淡路が徳島から分離されて、兵庫県に編入されることとなった。
この庚午事変を背景として書かれた、船山肇原作の小説「お登勢」が、平成13年NHKでテレビドラマ化され、12回連続で放映された。
激動の時代を愛一筋に、健気に生き抜いた「お登勢」の姿が人々に感動を与え、好評を博した。
これによって洲本は「お登勢」の町として全国に知られると共に、庚午事変が改めて注目されるようになった。
平成14年5月13日 お登勢の銅造建立実行委員会・碑文 淡路地方歴史研究会

藩庁東民政所跡は


淡路文化資料館です


入口には何故か「信楽の狸」が立っていました


検察庁前の石垣です


裁判所前の石垣にはサクラが満開でした


洲本税務署入口側から


税務署入口から復興天守を見上げました、洲本城天守は、昭和3年(1928)に鉄筋コンクリートで築造された、日本最古の模擬天守です


柴右衛門狸と柴助の像です


洲本ウォーキングトレイルの説明版です

では、洲本八幡神社へ行きましょう

2025・4・4・8・30
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