山崎町は、七尾市役所の南東約9kmのところ
国道160号線から県道245号線花園藤野線を西へ
熊淵川に沿って登ってくると左手田畑の先に集落が見えます
小さな橋を渡って右岸側の山の東麓標高が50m位まで登って来ました
東向き参道で阿良加志比古神社が鎮座します
鳥居前石段脇に車を止めさせて頂きました
参道入口の鳥居です
阿良加志比古神社です
石灯篭です、横のバス停の表示は山崎神社前となっています
神社由来碑です
延喜式内 阿良加志比古之神乃社
宿那彦神像石社 御由緒
勧進暦不詳なるも、延宝5年神主家明細お届書きに據れば、
天平宝字8年勅使藤原永平、口能登大呑熊群別山東邑、熊武都
の長者を止め諱賜い祀り大呑熊六合郷里大宮にのぼり、玖郎前
関に座す、宿那彦神像石社が神鏡弐面を賜り、再興の宣旨を給
わり所載されて居ります。
延長2年藤原忠平選集、「延喜式巻第十」府、能登郡17座
末行、阿良加志比古神社・宿那彦神像石社登録す。
第122代明治天皇14年辛巳歳、遷暦「大解除式」第20
回解斎と在り、逆算すれば初回は聖武帝神亀天平13年辛巳歳
「蔵開らき」されたこととなる。
亦、奈良正倉院の御物丹物の調庸銘が当大宮の鎮座地名と合
致。
万葉集の国守家持卿の出挙の歌「珠洲能宇美 朝闢らきして
扱ぎ来れば 奈我濱の浦は月照りなり家里」
右、治布還る時之を作る
注に、治布は大沼郡(元の郡名)今、大呑熊郡別山東邑、
小字治布天の地名其れならむ。
神護院 霊夢山 真言布陀楽寺 別当舎跡地は治布大門なり。
宮司 大畠義成謹写
*なかなか読めませんね~*
手水舎です
参道石段中程の右側には東枝神社が在ります
間も無く拝殿です
拝殿前の狛犬です、自然石の上に据え付けられています
手水舎です
拝殿です
軒下の額です
本殿は覆屋の中です
本殿脇の石碑ですが・・・読めませんね~
拝殿の西側に杉の大木ですが、目的のスギはその陰にあります
目的のスギです
市指定天然記念物の標柱です
5本の直立する枝に分かれています
では、次へ行きましょう
国道160号線から県道245号線花園藤野線を西へ
熊淵川に沿って登ってくると左手田畑の先に集落が見えます
小さな橋を渡って右岸側の山の東麓標高が50m位まで登って来ました
東向き参道で阿良加志比古神社が鎮座します
鳥居前石段脇に車を止めさせて頂きました
参道入口の鳥居です
阿良加志比古神社です
石灯篭です、横のバス停の表示は山崎神社前となっています
神社由来碑です
延喜式内 阿良加志比古之神乃社
宿那彦神像石社 御由緒
勧進暦不詳なるも、延宝5年神主家明細お届書きに據れば、
天平宝字8年勅使藤原永平、口能登大呑熊群別山東邑、熊武都
の長者を止め諱賜い祀り大呑熊六合郷里大宮にのぼり、玖郎前
関に座す、宿那彦神像石社が神鏡弐面を賜り、再興の宣旨を給
わり所載されて居ります。
延長2年藤原忠平選集、「延喜式巻第十」府、能登郡17座
末行、阿良加志比古神社・宿那彦神像石社登録す。
第122代明治天皇14年辛巳歳、遷暦「大解除式」第20
回解斎と在り、逆算すれば初回は聖武帝神亀天平13年辛巳歳
「蔵開らき」されたこととなる。
亦、奈良正倉院の御物丹物の調庸銘が当大宮の鎮座地名と合
致。
万葉集の国守家持卿の出挙の歌「珠洲能宇美 朝闢らきして
扱ぎ来れば 奈我濱の浦は月照りなり家里」
右、治布還る時之を作る
注に、治布は大沼郡(元の郡名)今、大呑熊郡別山東邑、
小字治布天の地名其れならむ。
神護院 霊夢山 真言布陀楽寺 別当舎跡地は治布大門なり。
宮司 大畠義成謹写
*なかなか読めませんね~*
手水舎です
参道石段中程の右側には東枝神社が在ります
間も無く拝殿です
拝殿前の狛犬です、自然石の上に据え付けられています
手水舎です
拝殿です
軒下の額です
本殿は覆屋の中です
本殿脇の石碑ですが・・・読めませんね~
拝殿の西側に杉の大木ですが、目的のスギはその陰にあります
目的のスギです
市指定天然記念物の標柱です
5本の直立する枝に分かれています
では、次へ行きましょう