子ノ権現は、飯能市役所の西北西13kmのところ
国道299号線を秩父方面に向かい
西武鉄道にしあがの駅を過ぎて、南へ入ります
案内板にしたがって林道を進むと、
駐車場が有ります
(足腰の健康に霊験新高であるということでお参りにやって来ました、2014年4月以来になります)

関東ふれあいの道の案内板です、土曜日でもあらハイキングや自転車で登ってくる人々が大勢いました

二本杉です

石碑が有ります


二本杉には、焼け跡が残ります


北側の一本は枯れてしまっているようです

売店の間を抜けて子の権現へ向かいましょう

黒門です

子ノ権現天龍寺です

説明版です
足腰守護の神 子ノ権現天龍寺
由緒
当山は、延喜11年(911)に子ノ聖が天龍寺を創建されたことに始まります。
子ノ聖は、天長9年(832)、子ノ年子ノ月子ノ日子ノ刻に紀伊の国でお生まれになりました。幼い頃
より聡明にして仏教に通じ、相となっては諸国をまわり修行を積まれました。特に出羽三山において修行を
かさね、ある日、月山の頂上に登り、年来読誦する般若心経を取だし「南無三世仏母般若妙典、願わくば、
われ、永く跡を垂るべき地を示し給え。」と空高く投げました。すると、そのお経は南へとんで、当山の奥
の院(経ヶ峰)に降りたち光を発しました。この光を目当てに当山山麓まで来られ、山を開こうとした聖は
悪鬼どもに襲われ火を放たれました、しかし、十一面観音が天龍の姿となって現れ、大雨を降らしその火を
消してしまいました、その後、当山で修行教化に励まれた聖は、長和元年(1012)「我、すでに化縁つ
きぬれば、寂光土に帰る。然れども、この山に跡を垂れて、永く衆生を守らん、我、魔火のために腰から下
に傷を負い悩めることあり、よって、腰より下に病ある者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。能
除一切苦。」という御誓願を遺し、齢百八十一才で化寂されました。
それ以後、子ノ聖の尊像をお祀りして、足腰守護の神様として広く信仰されることとなりました。尚「子
」には、物事の始まり、全てのものを生み出し育む大本の意味があります。


仁王様です

心水です

庫裏の建物です藁葺きの屋根が趣が有ります

斜面を登って、本堂へ向かいましょう

本堂です


境内の様子です
では、次へ行きましょう
国道299号線を秩父方面に向かい
西武鉄道にしあがの駅を過ぎて、南へ入ります
案内板にしたがって林道を進むと、

(足腰の健康に霊験新高であるということでお参りにやって来ました、2014年4月以来になります)

関東ふれあいの道の案内板です、土曜日でもあらハイキングや自転車で登ってくる人々が大勢いました


二本杉です


石碑が有ります



二本杉には、焼け跡が残ります



北側の一本は枯れてしまっているようです


売店の間を抜けて子の権現へ向かいましょう


黒門です


子ノ権現天龍寺です

説明版です
足腰守護の神 子ノ権現天龍寺
由緒
当山は、延喜11年(911)に子ノ聖が天龍寺を創建されたことに始まります。
子ノ聖は、天長9年(832)、子ノ年子ノ月子ノ日子ノ刻に紀伊の国でお生まれになりました。幼い頃
より聡明にして仏教に通じ、相となっては諸国をまわり修行を積まれました。特に出羽三山において修行を
かさね、ある日、月山の頂上に登り、年来読誦する般若心経を取だし「南無三世仏母般若妙典、願わくば、
われ、永く跡を垂るべき地を示し給え。」と空高く投げました。すると、そのお経は南へとんで、当山の奥
の院(経ヶ峰)に降りたち光を発しました。この光を目当てに当山山麓まで来られ、山を開こうとした聖は
悪鬼どもに襲われ火を放たれました、しかし、十一面観音が天龍の姿となって現れ、大雨を降らしその火を
消してしまいました、その後、当山で修行教化に励まれた聖は、長和元年(1012)「我、すでに化縁つ
きぬれば、寂光土に帰る。然れども、この山に跡を垂れて、永く衆生を守らん、我、魔火のために腰から下
に傷を負い悩めることあり、よって、腰より下に病ある者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。能
除一切苦。」という御誓願を遺し、齢百八十一才で化寂されました。
それ以後、子ノ聖の尊像をお祀りして、足腰守護の神様として広く信仰されることとなりました。尚「子
」には、物事の始まり、全てのものを生み出し育む大本の意味があります。


仁王様です


心水です


庫裏の建物です藁葺きの屋根が趣が有ります


斜面を登って、本堂へ向かいましょう


本堂です



境内の様子です

では、次へ行きましょう

